第二話 守るために
整は机の上のマッチ箱を見つめていた。それは愛海から渡された凶器であり、裕一を退学に追いやるトリガーでもあった。
(これであたしは裕一を……。そんなのできるわけないじゃない!)
整は裕一のために生きて来たはずだった。彼を守り、支え、そして励ました。学校でいじめられないように、整はいつも裕一と一緒にいた。整は裕一を守る騎士だった。
それなのに、どうしてだろう?いつの間にか、整は裕一を奈落の底に突き落とす役目を担わされていた。このマッチ箱は、言ってしまえば爆弾だった。もし愛海の言う通りにしたら、裕一は放火魔として罪を着せられて、彼の未来は木っ端みじんに吹き飛ぶのだ。
(こんなもの、受け取らなきゃよかった。その場で投げ捨てればよかった。それなのに、あたしはできなかった……)
間違ってると思いながらも、愛海に同調する部分もあった。やはり、裕一が二人から離れて、知らない人と仲良くなっていくのはたまらなく寂しかった。裕一がそばにいない毎日を想像すると、茨で締め付けられるような鋭い痛みが、少女の胸に走るのであった。
結局、整は臆病なのだ。彼女は裕一を失うことを恐れていた。
(やっぱり怖いよ。裕一がいなくなるのが怖い。裕一が変わるのが怖い。あたしも愛海さんと同じなのよ。だから、あたしはこんなものを受け取ってしまって……)
他にも、整が臆病であることを示す証拠はいくつもあった。裕一のことが好きなのにどうして告白しなかったのだろう?裕一に謝らなきゃいけないことがあるのに、どうしていつまでも隠しているのだろう?それも全部、雨野整が怖がりだからだ。
(あたしには勇気が無い……。前に進む勇気が無い……)
だからこそ、裕一を狭い世界に閉じ込めようという愛海の甘い囁きに、整は打ち勝てなかったのだ。
整は岐路に立たされていた。裕一を助けるのか?それとも、このまま裕一を地獄に突き落とすのか?
(あたしはどうしたいの?裕一を助けたいの?そうじゃないの?あたしの気持ちはどっちなのよ?ああ、もう……。自分の気持ちなのに全然わかんない……)
整は両拳をぎゅっと握った。整は迷っていた。果てしなく迷っていた。
気配を感じて、顔を上げた。目の前に上川佳澄が立っていた。腰に手を当てて、整のことを見ていた。整はマッチ箱をすぐにポケットの中に隠した。
「よぉ」
「佳澄……。裕一はどう?」
佳澄は近くの椅子に腰を下ろした。足を組み、ふてぶてしく座っている。
「すっかり嫌われちまったよ。無罪が証明されるまでは元通りにならねぇだろうな。裕一のやつ、前みたいに教室の隅っこの方でびくびく縮こまってやがるよ。せっかく明るくなったのにな」
佳澄は整の机に肘を置いて、頬杖をついた。耳の銀色のピアスがキラリと輝いた。
「それにしても、一体誰があいつに濡れ衣を着せたんだ?真犯人はどこのどいつなんだろうな?わかったらタダじゃ済まねぇ」
「佳澄は疑わないのね。裕一が犯人だって」
「まあな。あいつは何を考えてるのかわからないところもあるけど、絶対に悪いやつじゃねぇ。クラスメイトの靴をナイフでぶっ刺すなんて、そんな馬鹿な真似はしねぇよ」
佳澄は裕一の無罪を信じていた。しかも、根拠無しで直観でそう思っていたのである。整はそんな佳澄の大胆さが羨ましかった。彼女は整と違い、迷ったり悩んだりするタイプではなかった。もし佳澄が愛海からマッチ箱を渡されていたら、己の信念に従って、その場で堂々と突き返していただろう。
「ねぇ、佳澄。あたし……どうすればいいと思う?」
「アァ?」
「あたし、裕一の幼馴染として、あいつのために尽くしてきたつもりだった。あいつを守ってきたつもりだった。でも、違ったの。ただの思い上がりだった。あたしは今回の事件で何も力になれていない。あたし、無力だよね」
「雨野……」
「それに、裕一の心を開いたのは佳澄だった。幼馴染のあたしじゃなかった。裕一のことは全部わかってるつもりだったけど、違ったみたい。あんたの方がよくわかってるよ。あはは。あたしって情けないなぁ……」
整の意気消沈した姿は、まるで枯れた花のようだった。力なく、生命力に乏しく、今にもくしゃりと潰れてしまいそうだった。
(これがあの雨野整なのか?バスケしてた時とは大違いだぜ)
佳澄は整の変わりように驚いていた。彼女は癇に障る生意気なやつで、努力してないのに無茶苦茶バスケが上手くて、悩みとは無縁そうな快活な少女だったはずだ。
「裕一を守る、か。あいつ、昔からそうだったのか?」
「え?」
「いや、昔のあいつはどんなやつだったんだろうなって思ってよ。幼馴染なら、そこら辺はよく知ってるだろ?裕一って小さい時から暗い性格だったのか?」
「人見知りだったわね。でも、誰にも話しかけられないって程じゃなかったのよ。あいつ、小学三年生の時からいじめられるようになってさ。それからよ。あいつがあんな性格になったのは」
「いじめか……。だから、お前が裕一を守ってやってたわけだな。お前も色々と苦労してるんだな」
だが、いじめの原因を作ったのは整である。彼女がリコーダーを盗まなければ、裕一がいじめられることは無かったのだ。整は表情を曇らせて、口を噤んでいた。
「じゃあ、今も同じだ。裕一を守ってやれよ」
「でも、あたしにはそんな力……」
佳澄は整の弱気な発言にイライラし始めた。身体を前に乗り出して、まるでメンチでも切っているかのように整の顔を覗いた。鋭い瞳がギロリと整を見つめていた。
「雨野。お前、裕一のこと好きか?」
「え?う、うん」
「じゃあ、やることなんて決まってんだろ。あいつを幸せにするために、やるべきことをやれよ。何をそんなに迷ってんだ。好きな人のために頑張れよ」
「好きな人のために頑張る……」
矛盾と隠蔽に満ちた整の人生にも、確実に言えることがあった。それは、雨野整は傘馬裕一のことが好きであるということである。これだけは迷いなく断言できた。
「ったく、雨野は変なところで裕一と似てるよな。ウジウジしてるところとかさ。見てるだけで腹が立つんだよ」
佳澄は背もたれに背中を預けて、頭を掻く。
「あたしと裕一は友達だけどよ、やっぱり限界がある。お前は卑屈になっちまってるけど、やっぱりあいつのことを一番よく知ってるのはお前だ。だから、今のあいつを守れるのはお前しかいねぇ。お前だからできるんだ」
「裕一を守れるのはあたしだけ……」
佳澄に励まされて、整は自分の中に微かに勇気が湧いて来るのを感じた。
(そうよ!裕一を守れるのはあたししかいない!迷ってる場合じゃないわ!愛海さんの暴走を止めて、裕一が退学しないようにできるのは雨野整だけなのよ!あたしがしっかりしなきゃ!)
今の裕一を助けられるのは、上川佳澄でも涼風唯織でもなく、幼馴染である雨野整だけなのだ。愛海と長い付き合いのある彼女だからこそ、あの姉を正気に戻せるかもしれない。
「佳澄、ありがとう!頭のモヤモヤ、全部吹っ飛んだ!」
「あっそ。そりゃ良かったな」
佳澄は相変わらず無愛想だった。でも、その素っ気なさが逆に気持ちよかった。
「でも、どうしてあたしを励ましてくれたの?」
素朴な疑問だった。整と佳澄は親しい友人というわけではなく、むしろコートの上で戦い合ったライバルだった。それなのに、どうして佳澄は整を助けてくれたのだろうか?
「そんなの決まってんだろ。あたしたちの決着をつけるためだ」
「決着?」
「忘れたとは言わせねぇぞ。お前とあたしは一勝一敗。まだあたしたちの戦いは終わってねぇんだよ」
春の練習試合と、秋の一騎打ちで、整と佳澄は一勝ずつしていた。だが、勝負を決める三戦目はまだ行われていなかったのだ。
「お前の尻を叩いたのは貸しだからな。その代わりに、近いうちに三戦目を受けてもらうぞ?今度こそ、どっちの方がバスケが上手なのか決着をつけるんだ」
貸しを作ってしまった以上、この勝負は受けざるを得ない。整は佳澄の罠にすっかり嵌ってしまったようである。交渉上手な佳澄に、整は微笑んで答えた。
「いいよ!いつでもやってあげる!」
「へへっ。そうこなくっちゃ」
佳澄と再戦の約束を取り交わした整は、ポケットから何かを取り出してゴミ箱に捨てた。そして、教室の外に飛び出して行った。ゴミ箱の中には、クシャクシャに潰れたマッチ箱が入っていた。




