第二話 世話焼き上手、交渉上手
もうお昼休みになってるのに、傘馬裕一は体育館倉庫に残って一人で片付けをしていた。掃除当番ではないが、ごちゃごちゃに散らかった倉庫を見ていたら放っておけなくなってしまったのだ。マットの山は崩れているし、ボールが幾つも床に散乱している。
(ったく、みんなひどいよな。こんな状態をほったらかしにするなんてさ。先生に見つかったら無茶苦茶怒られるぞ)
整理整頓しないで、さっさと自分の教室に帰ってしまったらしい。裕一はまずはボールをカゴに入れて、その次に体操マットを綺麗に畳んでいく。
これが裕一という人間だった。人の見ていないところで、特に褒められもしないのにいいことをする。無駄な努力なのかもしれないし、彼がやらなくても他の誰かがやるかもしれない。でも、人が見ていようが見ていまいが、いいことをするのが彼の美徳だった。
(僕だって無視して行っちゃいたいけどさ……。でも、やっぱりそれは違うと思うし……)
どすん。マットの山を片付け終わったその時である。裕一は背後に人の気配を感じて、急いで振り返った。
倉庫の入り口のところに涼風唯織がいた。彼女はゼッケンの束を持っている。体操着の上に長袖のジャージを羽織った彼女は、まるで美少女マネージャーとでも形容したくなるような恰好だった。
「え、えっと、涼風さんだよね。この前はなんか上手く話せなくてごめん……」
「いえ、こちらこそ色々と申し訳ありませんでした。あかりにはきつく言っておきましたから」
ぱさり。唯織はゼッケンを棚に戻した。足を曲げたり、腕を伸ばしたり、そういった唯織の動作の一つ一つがとても上品且つ丁寧で、育ちの良さが際立っていた。
今、裕一と唯織は体育館倉庫という密室に二人っきりだった。否が応でも意識せざるを得ない。裕一は胸がドキドキしてくるのを感じていた。
「裕一くんはどうして片づけを?当番でしたか?」
「いや、当番ってわけじゃないんだ。でも、ほら、散らかってたから……。このままだと良くないと思って……」
「ふふ。そうなんですか。やっぱり良い人ですね、裕一くんは」
裕一を見る唯織の目は、無垢な期待と憧れに満ち満ちていた。真っすぐで揺らぐことのない視線が彼を捉えている。食い入るように見つめられて、裕一は思わず目を逸らしてしまった。
「裕一くんは何か部活をやっているんですか?」
「いや、僕は何も……」
「そうですか。私、放送部なんです。今日のお昼の放送は私が当番なので、よかったら聞いてくださいね?」
唯織はそれだけ言い残して倉庫を去った。部屋の中には彼女の甘い匂いがまだ残留していた。
(涼風さん……。どうして僕のことをこんなに気に掛けるんだろう?何か理由でもあるのかな?)
裕一は未だに彼女が何を考えているのかわからなかった。なによりも、あの瞳の輝きが理解できなかった。どうしてあんなに期待を込めた目で自分のことを見るのだろう?自分なんて全然大したことなくて、期待されるような存在ではないのに……。
裕一の心境は複雑だった。学校でも評判の可愛い子に話しかけられて嬉しい反面、その理由が全くわからないというのはなんだか不気味だった。もしかしたら好かれているかもとは、露ほども思わなかった。
昼食を終えた裕一は机に突っ伏していた。スマホも見飽きたし、お喋りする友人は誰もいない。むしろ変に話しかけられる方がいい迷惑だった。午後の授業が始まるまで、自分と周りの世界に境界線を引いて、時が過ぎるのをひたすら待っていた。友達ゼロの人間がよくやる行為である。
腕の中に顔を隠しつつ、裕一はため息をついた。彼の心は掻き乱されていた。
(お姉ちゃん……)
裕一は昨晩のことを思い出していた。雨が降りしきる中、裕一は思い切って告白した。しかも、キスまでしたのである。姉の反応は微妙だった。はっきり拒絶したわけではないが、OKしたわけでもなく、ただひたすらに困惑していた。
(いきなりあんなことしてごめん……。でも、抑えきれなかったんだ。どう我慢しようとしても、お姉ちゃんが好きだって気持ちは止められないよ……)
裕一は心の中で謝罪した。自分がしたことがどれだけ姉を困らせているのか、裕一もさすがにわかっていた。それでも悔いは無かった。姉を好きになってしまったことは真実であるからだ。いくら異常な愛であっても、自分に嘘をつき続けることはできなかった。
「はぁ……。お姉ちゃん……」
裕一はもう一度ため息をついて、顔を上げた。雨野整の顔が目の前にあった。別のクラスのはずなのに、なぜか前の席に座っていたのである。
「な、なんでお前がここに……!」
「別に?あんたをクラスをちょっと覗いてみたら、なんだか寂しそうにしてたからさ。文句ある?」
「文句って言うか、人の席を勝手に使っちゃダメだろ」
「許可はちゃんと取ってるわよ?裕一みたいに、クラスメイトに話しかけられないほど臆病じゃないもん」
気に障る言い方である。これは整の作戦だった。こうやって裕一を動揺させたり、イライラさせたりして、隠し事が口からぽろりと漏れることを期待しているのである。
だが、彼女の作戦も軽快な音楽によって中断された。お昼の放送が始まったのだ。
『みなさんこんにちは!今日の放送は一年五組の涼風唯織と?』
『同じく一年五組の天堂あかりが担当しますですぅ!では、さっそくお便りの紹介からいきますよぉ!』
唯織の落ち着いた優しい声と、あかりの元気溌剌な声が教室に響き渡る。性格も声も、何もかも対照的な二人である。
(そっか。天堂さんも放送部なのか。二人して同じ部に入るなんて、本当に親友なんだな)
そんなことを考えていると、クラスの男子が沸き始めたことに気がついた。
「おぉ~!唯織ちゃんの放送だ!俺、毎週金曜日が楽しみで仕方が無くてさ!」
「俺も俺も!唯織ちゃんって、声まで清楚で美人だよなぁ!」
涼風唯織はその見た目の可愛らしさから、かなりの数の男子生徒から人気があった。一年三組でもファンのグループが形成されているようである。彼らはスピーカーから流れてくる女神の声に耳を澄まし、このために生きてるんだと言わんばかりに盛り上がっていた。
唯織に黄色い声援を送る男子達を見て、整は軽蔑のため息を漏らした。
「はぁ。男って本当に馬鹿みたい。声に清楚もクソもあったもんじゃないわよ。ねぇ裕一?」
「いや、まあ、どうだろうね」
「否定しないの?もしかして、あんたもあっち方面の人?」
「ぼ、僕は違うよ」
裕一は必死になって否定した。整は足を組み替えて、裕一の机の上に肘をついた。
「でも、涼風さんって本当に人気だよね。まだ入学してから数か月しか経ってないのに、もう男子のハートを鷲掴みだよ?あの唯織ファンの中で、一体誰が彼女のハートを射止めるのか……あたしのクラスでも結構話題なんだよねぇ。裕一はどう思う?」
「さあね。でも、いずれ彼女にふさわしい人が出てくるだろうね」
そしてそれは決して自分ではないと裕一は思っていた。だが、彼は他の男子が聞いたら羨むような体験をしていた。裕一は唯織と二度も話したことがある。しかも、向こう側から話しかけてくれたのだ。
別に期待しているわけではなかった。あの涼風唯織が裕一を好きになるなんて、万が一にも無いだろう。でも、裕一はファンたちが喉から手が出るほど欲している体験を得ていた。それを思うと、ちょっとだけ優越感を感じた。
「おい、傘馬」
女子にしては低いハスキーな声が耳に入った。上川佳澄だった。彼女は腕を組んで、二人のそばに立っていた。
「へぇ。お前って雨野と付き合ってんのか?」
「ち、違うよ」
「佳澄」
整は立ち上がって佳澄を睨んだ。小柄な整と比べると、佳澄は頭一つ分ほど身長が高かった。あえて誇張すれば、二人は子猫と大型犬くらいの体格差があった。
幼馴染と天敵の邂逅に、裕一はハラハラドキドキしていた。今にも喧嘩し始めそうなほどの険悪なムードが、二人の間に漂っていた。
だが、整は冷静だった。佳澄をからかうほどの余裕を持っていた。
「二人で一緒に話してるだけで付き合ってるって思うんだ?佳澄って意外とピュアなのね」
「なっ!?あたしはピュアじゃねぇ!ただ仲良さそうだったから……なんとなくそう思っただけだ」
「あっそ。もういいや。行こう、裕一?」
整は裕一の腕を引っ張り、無理やり一年三組の教室から連れ出した。二人は廊下を歩きながら会話する。
「あれでしょ?裕一が前に言ってた怖いギャルってさ」
「そうだけど……。もしかして上川さんと知り合いなのか?」
「まあね。それはともかく……」
整はびしっと裕一を指差した。裕一は何が何だかわからず、目が点になった。
「明日の土曜日、あたしと一緒に遊ぶこと。これ、決定ね?」
「な、なんでだよ!?」
「だって今助けてあげたじゃん?傘馬裕一くんが大の苦手としている上川佳澄からさ?」
裕一は完全にはめられたのだ。整は世話を焼いといて裕一に恩を売り、彼女の約束を断れない状況に追い込んだのだ。これぞ整の秘術、『恩を売って人を騙す』である。
「まさか貸しを返さないほどあんたの性格がひん曲がってるとは思えないけど、どうする?もし断るなら、同じシチュエーションになっても助けてあげないかもよ?」
「わ、わかったよ!まったく整はずる賢いなぁ。僕を助けたのもこのためだったのか」
整は得意げにウィンクした。その通りだと言わんばかりである。
「でも、どうして急に遊びたいなんて言い出したんだ?」
「最近一緒に遊んで無かったでしょ?あんたの退屈な高校生活に、この雨野整さんが華を添えてやろうと思ってね?」
だが、本当の理由は別のところにあった。もちろん、裕一の秘密を暴くためである。一緒に遊んでいる間に、あれやこれやの策を講じて、幼馴染から秘密を聞き出すのが真の目的なのだ。
(さあて、裕一と愛海さんの間に何があったのか、はっきりと話してもらうよ?ふふ!あたしから逃げられると思ってんなら大間違いよ!そんなの絶対にあり得ないってわからせてあげるんだから!)
整の目がキラーンと輝いた。その不穏な輝きに、裕一はギクッとした。