第二話 ガリ勉大騒動
一年四組の教室で、雨野整は暇を持て余していた。人づきあいは広く浅くが原則の整には、日常的にお喋りする親友は意外と少なく、一人でいることも多い。
整は大きな口を開けて、くわっと欠伸をした。午後の眠気に負けそうになっていた時、勢いよく扉が開かれた。
「整ちゃん!裕一が大変なの!」
教室に愛海が飛び込んできた。上級生の突然の登場に、教室がざわつき始める。みんなの視線が雨野整に集中していた。
(ったく、いきなり何なのよ。また裕一に何かあったってわけ?)
整は周囲の視線を逃れるために、愛海を連れて廊下に出た。愛海の顔は不安と恐怖でいっぱいだった。余程のことが起きたらしい。
「で、どうしたの?裕一関係の話?」
「そ、そのね……」
愛海は息を大きく吸い込み、そして叫んだ。
「裕一がガリ勉になっちゃったの!!!」
「は、はぁ?」
整は開いた口が塞がらなかった。どうやら裕一が急に学勉に目覚めてしまったらしい。しかし、それのどこが問題なのだろうか?
「別にいいんじゃない?今更ながら勉強の楽しさに気づいたんじゃないの?愛海さんも心配性ね。そんなの放っておけばいいのに」
「放っておけないよ!整ちゃんは全然わかってない!あの子、まるで人が変わったようにガリ勉になっちゃって……!見ればわかるわ!」
「ええ……?」
整の頭上にクエスチョンマークが浮かんでいた。愛海がこんなにも焦る理由がわからなかった。勉強好きになったのなら、そのままにしておけばいいだろう。何も問題は無いはずだ。
(愛海さんの言う通り、見て確かめない限りはわからないみたいね。よし、三組を覗いてみるか)
整と愛海は扉の隙間から教室の中を見た。裕一の席の周りには人だかりができていた。人壁に阻まれて、裕一の姿は見えない。
(裕一ったら何してんのよ?そんなに人に注目されるタイプでもないでしょうに)
教室の隅の方で、裕一を中心とした集団を遠目から観察している佳澄の姿があった。整は教室に入り、彼女に声をかけた。
「佳澄。この騒ぎは何なの?なんで裕一の周りにあんなに人がいるのよ?」
「うーんとだな……。逆にお前に聞きたいんだが、昨日のあいつ、どこかおかしくなかったか?裕一ってああいうキャラだっけ?まるで別人だぜ?」
「いや、昨夜の裕一は普段通りだったわよ?あんたまで愛海さんみたいなこと言うのね。そんなに今の裕一の様子がおかしいわけ?」
整の質問に答える代わりに、佳澄は顎で裕一の方を指した。気になるなら自分で確かめてこいということだ。
整は人混みを掻き分け、裕一の席に着いた。そこには、いかにも勉強が好きそうな眼鏡をかけた少年が座っていた。
「ふっふっふ。つまり、この問題はこのように解けばいいのです!」
「うぉ~!傘馬ってすげー頭いいな!できなかった問題がスラスラ解けるぜ!」
「次は私に勉強教えて!期末テストで絶対に満点を取りたいの!」
クラスメイトから褒められて、裕一は得意げな顔になった。眼鏡がキランと輝く。
整は困惑した。とてつもなく困惑した。傘馬裕一はこんな人間では無かった。内気で臆病だが、優しい性格をした少年というのが、今までの裕一のイメージだった。
だが、今の裕一はどうだろう?ビン底眼鏡に、猫背で、口を尖らせて何らかの方程式や法則を口ずさんでいる、奇妙な人間になっていた。変わり果てた友人の姿に、整は思わずゲロってしまいそうになった。
(うげげ~……。裕一ったらどうしたのよ?こんなクソダサい眼鏡なんかかけてさ、今さらガリ勉キャラに変身ってわけ?愛海さんがビビるのもわかったわ。こんなの裕一じゃない……)
転んで頭でも打ったに違いないと整は思った。ひとまず、裕一をひと気のない所に連れ出そうと手を伸ばした。しかし、裕一は整の手を跳ねのけた。
「ちょっと君!軽々しく僕に触らないでくれたまえ!」
「な、何よ!?裕一のくせに生意気なこと言ってんじゃないわよ!何様のつもり!?」
「何様のつもりだってぇ?それはむしろ、僕が君に言いたい言葉だねぇ?というのも、君は前回の中間テストで半分以上の教科で赤点スレスレだった。特に英語はひどいねぇ?英文法は四十六点、英語表現は四十三点。どちらも危機一髪ってところかな?」
あまりにひどい点数に、クラスメイトたちはくすくすと笑い出した。整は怒りと恥ずかしさで顔が真っ赤になった。
「あ、あんた!なに人の点数ばらしてるのよ!ぶん殴るわよ!?」
「僕と君の格の違いというものを説明するために、あえて情報公開したのさ。君のような知能の劣った人間が、この僕に触れていいわけがないだろう?さっさと自分のクラスに戻りたまえ、チンパンジーくん?」
「こ、こいつ……!いい加減にしなさいよ!この馬鹿裕一ッ!」
整が拳を振り上げた瞬間、クラスメイトたちが一斉に彼女を取り押さえた。整は羽交い絞めにされてしまう。
「なにすんのよ!?あんたたちはなんでこいつの味方するのよ!離して!」
「ふっふっふ。彼らは僕がいなくなると困るのさ。最良の教師を失うことになるんだからねぇ?だから、僕を助けてくれたわけだ。まさに、ペンは剣よりも強しだねぇ?頭の良さは、君のような暴力女に対しても簡単に勝利を収めさせてくれるのだよ」
「誰が暴力女よ!このキモ裕一!早くこいつらをどっかにやりなさいよぉ!こいつらさえいなければ顔面にパンチをお見舞いしてやるのにぃ!」
「ふふ。威勢だけはいいねぇ。だが、多勢に無勢だ。君たち、そのチンパンジーをさっさと生徒指導室に連れて行きたまえ。いいな?」
「ちょっと待ったぁ!」
見ていられないとばかりに、佳澄が助太刀に入った。整を押さえ込む生徒一人一人にチョップを食らわせていく。
「佳澄!?」
「雨野!いったんここは退くぞ!先輩と一緒に二年校舎に一度退散するんだ!裕一の正気を取り戻す方法は後で考えようぜ!ほら!行くぞ!」
佳澄は整と愛海を連れて大急ぎで一年校舎を離れた。既に一年生のほとんどが裕一シンパになっていた。おそらく、三組と同じやり方で懐柔したか、彼の優れた知性によって洗脳されたかのどちらかだろう。
すれ違うほとんどの一年生から、裕一に反旗を翻した愚かな三人組として、冷たい視線を送られていた。
さて、逃げてきた三人はひとまず状況を整理することにした。
「このカオスな状況は一体なんなのよ!裕一の身に何があったわけ!?」
「ね?言った通りでしょ?裕一、今朝からずっとあんな調子なのよ。なんであんな変なキャラになっちゃったのかしら?」
「詳しいことはわからんが、これだけはわかる。裕一のあの変化に引き起こしたやつについて、思い当たる人物が一人いるってことだ。みんなわかるだろ?勉強と言えば……」
三人は目を見合わせた。そして、ある名前がすぐに思い浮かんだ。
「みほちゃん!?まさかみほちゃんが裕一をあんな状態にしたっていうの!?」
「美帆子さんが……。でも、あの人ってこの学校で一番勉強頑張ってる人でしょ?裕一も感化されたんじゃない?僕も美帆子さんみたいに頭良くなるんだって」
「だとしても、あれはちょっとヤバ過ぎると思うけどな。でも、手塚先輩が一枚噛んでるのは間違いなさそうだぜ。人を一夜にしてあれほどの勉強家に変えてしまうほどの影響力は、あの人しか持ってないはずだ」
「さすが佳澄!よくわかったじゃないの!百点満点をあげたいくらいね!」
その手塚美帆子本人が、廊下の中央で腕を組んで立っていた。あたかもゲームのラスボスのごとく、邪悪なオーラを放ちながら不敵な笑みを浮かべている。
「みほちゃん!どうして裕一にあんなことしたの!?あんなの裕一じゃないわ!」
「そうよ!裕一はもっと馬鹿で間抜けなんだから!あんな秀才キャラ、ぶっちゃけ気持ち悪くてしょうがないのよ!早く裕一を元の馬鹿裕一に戻してよ!」
「整も愛海も、裕一くんのことが全然わかってないねぇ?あの変化はね、あの子自身が望んだことなんだよ?」
「なに!?裕一は自分から進んでああなったって言いてぇのか!?」
その通りと言わんばかりに、美帆子は眼鏡をくいっと持ち上げた。
「裕一くんは悩んでたのよ。どうしようもないくらい悩んでた。だから、私が解決策を授けたのよ。そんな悩みは捨てて、学生の本分である勉強に身を捧げたらどうかってね。そして、極めつけはあのグルグル眼鏡……」
佳澄は裕一の顔に乗っていた特徴的な眼鏡を思い出した。まるでおもちゃのようなデザインで、市販の一般的な眼鏡とはどこか違う姿形をしていた。
「あの眼鏡はネットで買ったんだ。装着すると特殊な光がレンズから出て、視神経を通じて脳みそに影響を及ぼすの。どんな影響かと言うと、通常は適度にばらけている集中力をある一点に向けさせて、他のことを考えられなくするんだ。つまり、勉強以外のことに見向きもしなくなるのよ。それで、裕一くんは一夜にしてガリ勉キャラに生まれ変わったの」
「なんでそんなヤベーもんが市販されてるんだよ……」
「ってか、それって洗脳よね」
「ちょ、ちょっとみほちゃん!人の弟を勝手に洗脳しないでよ!早く元に戻して!」
「まあ、あれかな、あたしもまさかあそこまで効果が出るとは思ってなかったし、ぶっちゃけどうしていいのか私にもわからないというか……。えへへ」
美帆子は顔を赤らめながら頭を掻いた。つまり、この変化は美帆子にとっても予想外だったわけだ。
「『えへへ』で済む問題じゃねぇだろうがっ!アレ、どうすんだよ!?裕一はあの気持ちわりぃ勉強オタクのままかもしれねぇってことか!?」
「ど、どうしよう?あたしにもわかんないや」
「みほっちゃんったらもう!そういう怪しい商品はネットで買っちゃダメっていつも言ってるじゃない!」
非難轟々である。整も佳澄も愛海も、一斉に迂闊過ぎる美帆子を責めた。全ての元凶が彼女なのだから仕方がない。
だが、整は背後に何者かの気配を感じ取って、急いで振り返った。そこには眼鏡をかけた洗脳済みの少年がいた。
「ふっふっふ!師匠!助けに来ましたよ!」
「へ?師匠ってあたしのこと?」
裕一は美帆子の前に立ち、三人を遠ざけた。
「おい!お前らみたいな知能の低いやつらが美帆子さんに触るんじゃない!全国模試でトップテンに入ってからにしてくれ!」
(むっか~!もう我慢できないわ!要はあの眼鏡が洗脳装置なわけでしょ?だったら、力づくで壊しちゃえばいいのよ!)
整は数歩引き下がってから、拳を握って裕一に襲い掛かる!
「うりゃあああ!あんたを何度も泣かせてきたデス・ストレートよ!くらえっ!」
整の音速レベルの正拳突きが炸裂する。しかし、裕一はひらりと躱してしまった。整は空振りして、勢い余ってそのまま床に倒れた。
「いぎゃ!?」
「整ちゃん!?大丈夫!?」
初めて整の必殺技を避けた裕一は、得意げに眼鏡を光らせた。
「ふっふっふ。あらゆる物理法則に通じた僕からすれば、君のすっとろいパンチを避けることくらい造作も無いことなのだ」
「あたしのパンチの軌道を読んだってわけ……!?」
「その通りさ。入射角やスピード、そして腕の筋肉や握力のデータから計算し、どの方向にどのタイミングで避ければいいのか導き出したのだ。まあ、君のような痴呆には一生できないことだろうがね」
「あ、あんた……!よくもそんな腹立つことをペラペラ喋ってくれるわね……!」
整は反撃するために立ち上がろうとした。しかし、そこに放送部の二人が偶然通りかかった。
「はぅわ?黒猫にチョモランマ、眼鏡先輩にギャル女もいるじゃないですかぁ。そのダサい眼鏡をかけた野郎は一体どこのどいつですぅ?」
「待ってください。あれはもしかして裕一くんでは?」
あかりは裕一の変わりようにびっくりした。
「はぅわ!?あれがあの鼠男なんですかぁ?なんか雰囲気というかオーラがすっかり変わってますぅ」
「まるで別人ですよね……。裕一くん、あんなに分厚い眼鏡をかけて……。視力が悪いんでしょうか?コンタクトの方が似合ってると思うのですが」
「あかりちゃん!涼風さん!事情を説明するね?」
ここで愛海から簡潔な説明がされた。事情を理解した二人は作戦会議をする。
「なんか面倒くさいことに巻き込まれているような気もしますが、一体どうしますぅ?あかり的にはあの男がどうなろうが構わないんですが」
「あのままでいいわけないです!四六時中薄気味悪い笑顔を浮かべている裕一くんなんて、絶対にイヤです!あかり!なんとかしてくれませんか!?」
唯織の頼みならば一肌脱ぐのが天堂あかりという少女である。彼女は指をポキポキ鳴らしながら、裕一の前に立った。そして彼を指差し、堂々と宣戦布告をする。
「このキモ眼鏡鼠男ォ!いおりんは今のお前は認めないと言ってるですぅ!昔の冴えないお前に戻ってもらいますよぉ!その眼鏡を渡すですぅ!」
「ふん。君は見た目通りのおこちゃま脳みそしか持っていないようだねぇ?君程度がこの僕を元に戻すだって?その成功確率はいくら計算してもゼロパーセントだよ?ふっふっふ」
「そう言ってられるのも今のうちですぅ!でりゃあ!あかりキック!!」
「あ!?あの馬鹿っ!」
整の悪い予感は見事に的中した。デス・ストレートを簡単に避けた今の裕一にとって、あかりキックも似たようなものである。
裕一はすぐさま脳内で高速演算をして、キックの軌道を完全に読み切った。一ミリの精度で裕一はキックを躱した。
「ふんぎゃ!?」
さっきの整と同じように、あかりも空振りして倒れた。
「はぅわ!?あかりのキックが避けられてしまったですぅ!イテテ!膝を擦りむきましたよぉ!」
「あかりの馬鹿!今のあいつに物理攻撃なんて全然効きやしないんだから!なんであたしの忠告を聞く前に飛んじゃうのよ!」
「そんなこと言われても知らんですぅ!黒猫にあれこれ叱られる筋合いはないですぅ!」
「なんですってぇ!?」
協力するどころか、言い争いが始まってしまった。ほれ見ろ、やっぱりお前らは愚者なのだと言わんばかりに、裕一は彼女らに軽蔑の視線を送っていた。
他方、この局面をどうやって突破したらいいのか、唯織は顎に手をあててじっくりと考えていた。
(力技はまるで通用しません。ここは頭を使わないと。でも、愛海先輩の話では、今の裕一くんは学校中の生徒から尊敬されるほどの超頭脳を持っていると言います。そんな彼をまんまと出し抜けるでしょうか?あの眼鏡を首尾よく奪えればいいのですが……)
眼鏡と言えば、唯織の両親は眼鏡をつけていた。裕一からあの洗脳眼鏡を奪う際に、眼鏡をつけている両親の普段の振る舞いから、何かヒントを得られないだろうか?
(お父さんもお母さんも、どういう時に眼鏡を外していたでしょうか?いや、というよりはどういうことが起きれば、嫌でも眼鏡を外したくなるでしょうか?眼鏡をつけている人にとって、許せないことと言えば……)
ピコン!唯織の頭上で電球が灯った。
唯織は自然に裕一に近づいた。あまりにも彼女が無防備なので、逆に裕一は最大限警戒した。
「なにかね?無策で僕に近寄るとは、君もやはりあいつらと同じ馬鹿だな?」
「そうかもしれません。ですが、お馬鹿さんでもあなたに言いたいことがあります。裕一くん、眼鏡のレンズに指紋がついてますよ?」
「え?ホント?」
裕一は眼鏡を外して、レンズを蛍光灯の光に当てた。彼の意識は完全にレンズの汚れに行っていた。
しゅば!唯織はその隙を突いて眼鏡を奪った!
「はぅわ!?まるで鮭を狩る時の熊のような腕のスピードですぅ!今のいおりんは北海道にしかいないヒグマそのもの!道民としてのプライドがちょっと傷ついたですぅ!」
「そんなことはどうでもいい!唯織!さっさとそいつを処分しろ!」
「はい!ふんぬぅ~~!!」
メキメキ!唯織はグルグル眼鏡をフレームごと破壊した。
「き、貴様ァ!なんてことをするんだ!?せっかく唯一無二の知能が手に入ったというのに!うわぁああああ!!」
裕一は両目から光を発して、その場に倒れ込んだ。みんな一斉に彼の元に駆け寄る。
「裕一!しっかりして!裕一!」
「死んだのか?」
「縁起でもないこと言わないでください!多分、普段の何倍も脳みそを使ったから、その反動で気を失ったんですよ!」
「あちゃ~。すっかり気絶してるねぇ。こりゃ大変だ。参った参った」
「元凶のあんたが何で他人事なのよ……」
「鼠男、安心しろですぅ。お前の亡骸は北海道の広大な大地に埋めてやるですぅ」
「だから、勝手に死んだことにしないでください!」
薄れて行く意識の中で、裕一は彼女たちの声をぼんやりと聞いていた。頭が割れるように痛い。まるで頭を針で刺されてるみたいだ。
(うぅ……。僕はもう……)
まだ辛うじて残っていた意識も、あたかも雫が湖に落ちるように、ぽちゃんと無意識という闇の中に落ちて行った――。
2026/3/20挿絵を追加しました。AIで生成しました。




