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君の恋、雨の色  作者: 石戸龍一
第二章 恋心は若葉の如く
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第一話 雨上がりの憂鬱

次の日の朝、傘馬家は通常通り動いていた。朝ご飯は愛海が支度をして、裕一は洗濯を担当する。昨日までの豪雨が嘘のような晴れ日だった。既に太陽は高く昇っていて、目が覚めるような強い光を注いでいる。清々(すがすが)しい朝だった。


それに比べて、愛海の心はどんよりしていた。いくら頭の中で否定しようとしても、昨日の事件は紛れも無い現実だった。愛海は弟である裕一に告白されて、そして――。


(キス……しちゃったんだよね……)


愛海は自分の唇を触った。まだ裕一の熱が残っているような気がした。初めてのキスを実の弟に奪われたという事実が、愛海に重く圧し掛かっていた。


(裕一……)


弟はいつも通りだった。今まで何年も一緒に暮らしてきた傘馬裕一と何も変わりはない。彼自身も昨日の出来事を忘れてしまったかのようだ。彼は庭で洗濯物を干していた。


(きっと……一時いっときの気の迷いだよね。裕一だって今はいつも通りだし。そうよ。一夜過ぎたら忘れちゃったのよ。昨日の裕一がちょっとおかしかっただけ……)


愛海は昨夜のことなど無かったように振舞うことにした。あえて話題に出したり、問い質したりすることはしないのである。いつもの日常に差し挟まれたあの異常な事件に触れることすら嫌だった。彼女は平凡な日常に戻ることを望んでいた。


そろそろ整がやってくる時間だった。愛海は弟の弁当を布で包んで、机の上に準備しておいた。裕一が眠たそうな顔で庭から戻って来る。


「ふふ。そんな様子じゃ授業中に居眠りしちゃうよ?」


「ふわぁ……。昨日はあんまり眠れなかったんだよ……」


「その割にはネクタイはちゃんと結べたんだ。一人でできるようになったの?」


裕一は顔を赤くして、ネクタイの結び目をきゅっと締めた。今まで姉にネクタイの面倒を見てもらっていたのを意識して、恥ずかしくなったらしい。


彼は弁当を鞄に入れて、髪の毛を手櫛する。愛海もそれに合わせて、外ハネの栗色の髪の毛を整えた。お気に入りのヘアピンもちゃんとつけてある。出発の準備はばっちりだ。


「裕一~!愛海さーん!おっはようございまーす!」


整の元気な声が外から響いて来る。相変わらず、近所迷惑になりそうなほどの大きな声だ。


(いつもの朝、いつもの光景……。整ちゃんも普段通り来て、私たちは昨日と同じように学校に行く。何も変わらない……そうに決まってる……)


愛海はほっと胸をなでおろした。裕一も整も変わらない。この日常だって変わるはずがない。そう思っていた。


「あ、お姉ちゃん。待って」


「え?」


玄関に通じる廊下で、裕一は愛海にキスをした。熱い感触が唇に伝わり、一気に体の中が火照ほてるのがわかった。


「ゆ、裕一……?」


「僕……お姉ちゃんのこと、好きだから」


昨日の出来事はやはり夢ではなかった。確固たる現実だった。愛海は急に非日常に連れ出されて、その場で立ちすくんでしまった。


裕一は扉を開けた。


「おはよう、整」


「おはよう、裕一。って、あれ?愛海さん?廊下でなに突っ立ってんの?」


「え、えっと……何でもない。おはよう、整ちゃん」


三人は学校を目指して歩いていく。裕一と整は並んで歩き、その後ろに愛海が控えている。整は裕一との会話を楽しんでいたが、愛海の様子がおかしいことにすぐに気がついた。表情が暗かったし、姉弟の間に会話が何一つなかった。まるでお互いに避けているようだった。


「じゃあ、またね。裕一」


「うん。お姉ちゃん」


学校に到着し、愛海は三年生の校舎へ、裕一と整は一年生の校舎に向かう。整は姉弟の気まずい雰囲気について、裕一に質問してみることにした。


「裕一さあ、愛海さんと何かあった?全然話さないじゃん」


「そう?こんなものだよ」


裕一の返答は素っ気ないものだった。整は全然納得しなかった。二人の仲の良さは”こんなもの”であるはずがなかった。


「そんなわけないよ。普段の裕一だったら、『お姉ちゃ~ん』ってもっと甘えてるくせに。あんたのシスコンっぷりはどこにいっちゃったわけ?」


整はしたり顔で裕一を煽った。これでイラッとすれば、何か情報を漏らすかもしれないと思っていた。だが、裕一は上の空だった。整の煽りをものともせず、ただぼんやりと虚空を眺めていた。


(何か隠してるな……。よし、週末になったら確かめてやる!裕一の分際でこの雨野整さんに隠し事するなんて、絶対に許さないんだから!)


整の目がキラーンと光った。それは獲物を見つけた猫が目を輝かすのと同じである。幼馴染の秘密ほど、整の興味を掻き立てるものはなかった。どんな面白いことが隠されているのだろうと思うと、もう今からワクワクしてしまった。


「ふっふっふ……」


裕一の背後で整はあやしい笑みを浮かべていた。



さて、こちらは傘馬愛海である。彼女は混乱した気持ちを引きずったままだった。席に座って、頬杖をついて外の景色を眺めていたが、気分が晴れることは一切なかった。これからどうすればいいのか、一生懸命に考えを巡らしていた。


(どうしよう……)


高校生が普通抱くであろう悩みとは全く別種の悩みに愛海は苦しまされていた。つまり、実の弟に告白されたという悩みである。


(いや、どうするもこうもないわ。ちゃんと断らなきゃ。姉弟きょうだいで恋愛なんて、絶対に許されることじゃないんだからね)


何をすればいいのかそれ自体は明らかだった。告白を断って彼を正気に戻すのである。だが、相手が裕一だからこそ難しかった。あの気弱で繊細な弟を、どう傷つけずに諦めさせればいいのか?これが問題だった。


(あんまり厳しいことを言っちゃダメよね。あの子、ショックで学校に来れなくなっちゃうかもしれないし。じゃあ、お母さんを通じて話してもらう?いや、ダメダメ!たたでさえ仕事で忙しいのに、私たちのもめ事に巻き込むわけにはいかないよね……)


母はシングルマザーとして常日頃から仕事に精を出していた。疲労もたくさん溜まっているだろう。さらに負担をかけるわけにはいかなかった。そもそも、裕一に告白されたなんて母親に相談するのは、なんだか恥ずかしかった。


(となると、どうすればいいの?そうだ。裕一を傷つけないように、やんわりとなだめるように断ればいいのよ。でも、あんまりにも曖昧な言い方だと意味無いから、きっぱり言うことも大事よね。ってなにそれ!?矛盾してるじゃないの!)


やんわりと、でもきっぱりと――。そんな難しい芸当など愛海にできるはずがなかった。愛海は頭を抱えた。悶々とした彼女の心が、さらに憂いの度を増していく。


「愛海?」


(どうやって伝えればいいのかな?こういう時はメールじゃなくて、ちゃんと面と向かって話した方がいいよね)


「まーなーみ?愛海さーん?」


(でも、ちゃんと話せるかしら?今のうちにどんな風に話すか考えて置いた方がいいよね。えーっと、お姉ちゃんに恋心を抱くのは、思春期の気の迷いで……)


「くぉらああっ!!そこのタヌキ女ぁ!そこはあたしの席なのよっ!」


「ひゃあう!?」


美帆子の大声に、愛海はびっくりして飛び上がってしまった。腰に手を当てて、鬼の形相の友人が隣に立っていた。


「あんたの席は向こうなの!ったく、愛海ったら自分の席までわかんなくなっちゃったの?頭おかしくなったわけ?」


「ご、ごめんね、みほちゃん。考え事してたら間違えちゃって……」


友人の怒声で正気に戻った愛海は自分の席に戻った。美帆子は太縁の眼鏡をくいっと持ち上げて、様子のおかしい友人を観察した。彼女はなんだか落ち着かない風情で、どこか憂鬱なオーラを帯びていた。


(あのおっとり星人の愛海がこうもソワソワしてるとはねぇ?何かあったのかな?)


美帆子は鞄から参考書を取り出しつつ、三年間付き合って来た親友が抱きそうな悩みを思案する。眉がピクピクと動き、眉間にも皺が寄った。あたかも、試験の難問を解いているかのようである。


「……わかった。わかりましたよ、愛海さん」


「え?何が?」


「あなたが何について悩んでいるかですよ。ふふ」


「ええ!?みほちゃん!?」


美帆子は立ち上がり、愛海のそばに立つ。全ての謎を解いた少女は、自信たっぷりに解答した。


「ずばり……彼氏でしょ!」


「え?」


「いや~!あの愛海がいよいよ彼氏持ちか~!やっぱ受験がないと自由でいいねぇ!このこのぉ!」


愛海は美帆子に髪の毛をくしゃくしゃにされた。当然、美保子はただのジョークのつもりで言ったのだが、必ずしも大外れというわけではなかった。なぜなら、確かに彼氏ができたと言えばその通りなのである。その相手が実の弟だから困っているのだが。


「はぁ……」


愛海は再び憂鬱状態に戻ってしまった。ボサボサの髪の毛のまま、窓の外を眺めている。


「あ、ありゃ?ごめん。全然ウケなかった?」


「いや、いいの。みほちゃんこそごめんね?受験で忙しいのに変な心配させちゃって」


「別に心配してるわけじゃないけど……」


美帆子は自分の席に戻った。斜め前に見える親友の背中が、普段よりも小さくて頼りなさげに見えた。きっと人に言えないような悩みを抱いているのだろうと思った。


「まあ、愛海も色々あるだろうけど、どうしようもなくなったらあたしに相談してよ?友達なんだからさ」


「うん……。ありがとう、みほちゃん……」


参考書とノート開き、美帆子は勉強に取りかかった。朝のホームルームが始まるまで、参考書を片手に美帆子は何度か愛海の方を見たが、彼女は最後まで振り向いてくれなかった。

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