第二話 勇気を否定しないで
今日は放送部の活動がお休みなので、あかりの放課後は自由だった。すぐに帰っても良かったのだが、裕一のことが気になった。彼はちゃんと姉に話せたのだろうか?
あかりは三組の教室を覗いてみた。彼の席は空席だった。
(ありゃ?もう帰っちまいましたかねぇ?)
教室に残っていた佳澄と目が合った。佳澄は扉から顔を出している小さな人影を認めると、すぐにこちらに向かって来た。
「あかりか。何の用事だ?」
「おお、ギャル女。鼠男がどこにいるか知ってますぅ?」
「鼠男って傘馬のことか?ってか、あたしはギャル女じゃねぇ。いい加減に名前で呼んでくれ。佳澄っていうちゃんとした名前があるんだからな」
「それは無理な相談ですぅ。これはあかりのポリシーですから。ニックネームで呼んだ方が親しそうな感じがしていいでしょう?みんなと仲良くなるための、あかりなりの工夫なんですぅ」
「愛称というか、お前の場合は蔑称だろうが。鼠男だのチョモランマだの、まともな名前なんて一つもねぇぞ」
「まあ、あかりの第一印象で勝手に決めてますからねぇ。多少気に食わなくても、そこは我慢してもらいたいですぅ」
なんともスタンドプレーな名付け方であろうか。結局、あかりの直観が全てを決めるということだ。周囲の意見は全スルーである。
(第一印象で勝手に決めやがって……!いずれ絶対に名前で呼ばせてやる……!)
しかしながら、金髪に染めた長髪、濃い目のメイク、そして耳のピアス等、あかりが佳澄を”ギャル女”と呼ぶ材料は確かに揃っていた。あかりだけではなく、裕一も佳澄のことをギャルと見なしていた。全くでたらめなニックネームと言うわけでもない。
「というか、こんな話をしてる場合じゃないですぅ。鼠男はもう帰りましたですぅ?」
「ああ、帰ったぜ。あいつ、部活に入ってないからな。六時間目が終わったらすぐに荷物をまとめて教室から出て行ったよ。でも、どうしてそんなこと聞くんだ?あいつに何か用なのか?」
「用事というよりは確認したいことがあるって感じですぅ。今日の鼠男はどうでしたかぁ?なんか普段と様子が違ってたりしました?」
佳澄は今日の裕一の様子について思い出してみた。
「今日はちょっと元気が無かったかもしれねぇ……。でも、若干だぜ?あたしの思い込みかもしれない」
あかりは佳澄の言葉を聞いて確信した。裕一は愛海とちゃんと話したのだ。姉弟の関係を変えるために、勇気を出して言い辛いことを話したに違いない。だから、裕一は普段よりも消耗していて、元気が無い様に見えたのだ。
「それだけ教えてくれればもう十分ですぅ。では、あかりは急ぐので」
「おう。じゃあな」
あかりは自慢の俊足ですぐに校舎を飛び出した。下校中の生徒の中に、傘馬裕一の姿はなかった。街にもう出たのかもしれない。そうなると見つけるのは困難である。
あかりはまだ裕一が遠くに行っていないことを祈りつつ、校門を出て周りを探した。
(……はぅわ!?いたですぅ!)
トボトボ歩く丸まった背中を見つけた。裕一は俯きながらビルに面した道を歩いていた。あかりは急いで交差点を渡り、彼に声をかける。
「鼠男!どうでしたかぁ?ちゃんとチョモランマとお話しできましたかぁ?」
「あかりさん?うん、できたよ」
裕一の声に覇気が無かった。まるで死にかけの人間のようにやせ衰えた声をしていた。
「随分と元気が無いようですけど、もしかしてチョモランマに何か言われたですぅ?それとも喧嘩したとか?」
「いや、大したことないよ。お姉ちゃんに嫌われちゃっただけだから。あはは……」
裕一の作り笑いは見ていられないほど痛ましかった。人は楽しい時だけではなく、悲しい時も笑うのだ。そうでもしなければ、心が持たないから。
あかりは裕一を慰める必要があると思った。今の弱った裕一は家に帰る途中でぱたりと倒れてしまいそうだった。このまま一人で帰すわけにはいかない。
「よし。今日はあかりの家でゆっくりすればいいですぅ。あかりがお前を元気づけてやるですよぉ」
「え?今から?」
「明日のわけがないでしょう?まったく、鼠男はボケてますねぇ。ほら、行きますよぉ?」
「ぼ、僕はまだ行くって決めたわけじゃ……。あ、ちょっと!」
ぐいっとあかりは裕一の腕を引っ張った。彼は有無を言わさぬ力で連行されていく。まるで牛に引っ張られているみたいだった。あかりは足だけではなく、腕力も凄まじいのだ。
さて、ここはあかりの家である。何の変哲もない一軒家で、住宅街の中にぽつんと立っていた。傘馬家ほどボロくはないものの、庭のツルが好き放題伸びていたり、壁がひび割れていたり、なかなか年季を感じさせる容姿をしている。
あかりはドアを開いて裕一を中に招待した。
「ほら、早く入るですぅ」
「お邪魔します……」
裕一の声を聞いて、リビングから誰かがやって来た。あかりと同じような金髪だが、こちらは長く伸ばしている。あかりとさほど変わらない低身長で、クリクリした丸い目が可愛らしかった。あかりの家族だろう。
「お帰りなさい。って、あら?お客さん?」
「紹介しますですぅ。こちらは同じ学年の傘馬裕一くんですぅ。見た目通りの気の小さい男ですが、まあ悪い人間じゃないですよぉ?」
(僕って見た目からして気が小さいのか……。というか、見てわかるのか?)
あかりの家族は裕一の周りをちょこちょこと動き回り、彼のことをじっくりと観察していた。なんだか気恥ずかしかった。
(この人はあかりさんのお姉さんだろうな。星ヶ崎高校に通ってるのかな?それとも、別の高校に?)
あかりよりも一つか二つくらい年上だと予想した。童顔だし、ちっこいし、子どもっぽい服を着ていた。大した歳の差は無さそうである。あかりと同じ歳だとしても驚きはない。
そう思っていたからこそ、裕一はあかりの次の発言を聞いてびっくり仰天した。
「もう。お母さんったら、あんまりジロジロ見るとこいつが可哀そうですよぉ。またいおりんに叱れちゃいますよぉ?礼儀がなってないって」
「はぅわ~。うふふ。ごめんなさいね、裕一くん。初対面の人って、何かこう……じーっと見つめたくなっちゃうのよ」
「ええ!?この方って、あかりさんのお母さんなの!?お姉さんだと思ってたよ!」
どう見ても十代の少女にしか見えないこの女性は、実はあかりの母親だったのだ。裕一は彼女が一児の母だとは信じられなかった。この人がセーラー服を着て自分と同じクラスにいても、全然違和感がないというのに。
「予想通りの反応ですねぇ。いおりんも初対面の時はびっくりしたんですよぉ。『この人ってあかりの妹さんじゃないんですか?』って言われましたですぅ」
「はぅわ~。若く見てもらえて光栄だわ。なんだか照れちゃうけど」
おっとりとした『はぅわ~』を響かせながら、ロリママこと天堂さおりは桃色に頬を染めていた。女性として、実年齢よりも若く見られることは嬉しいのだ。まあ、この人の場合は若く見えすぎるのが問題なのだけれども。
「それじゃ、お母さんは一階にいるから、もし何か用事があったら声をかけて頂戴ね?お茶とお菓子は後で持っていくから」
「わかったですぅ」
裕一は階段を登ってあかりの部屋に移動した。第一印象としては、非常に散らかった子ども部屋といった感じである。まるで地震でもあったかのように、大量の物が床の上に投げ出されていた。あかりは片付けが苦手なようだ。
気になるのは奥に鎮座する二段ベッドである。この部屋は二人用なのだろうか?
「あかりさんって兄弟いるの?」
「はぅわ?いませんよぉ?あかりは一人っ子だって前に言いませんでしたぁ?」
「でも、あれって二段ベッドだよね?あかりさん以外にも使う人がいるんじゃないの?」
「違いますよぉ。あかりは高いところで寝たいので二段ベッドにしただけですぅ。本音を言えば屋根裏部屋で寝たかったんですが、さすがにリフォームしなければならないので却下されたですぅ。下の段は物置として使ってるんですよぉ?」
『馬鹿と煙は高い所が好き』という言葉が喉元まで出かかったが、寸前のところで抑えた。そんな失言をすれば、裕一は二階から地面に蹴り落とされていただろう。
「適当に座れですぅ。あかりはこのお気に入りの熊さんクッションに座るですぅ」
裕一は床の上に座って、改めて部屋の中を見渡した。どこもかしこも物だらけだったが、特に気になるのは無数にある木彫りの熊であった。全部で五体もある。一体だけで十分なものが五体もあると、奇妙を通り越して壮観とすら思えて来た。
総じて言うと、よくわからないカオスなセンスだった。このハチャメチャな感じは、整の部屋にちょっと似ているなと裕一は思った。
「おい。あまり人の部屋をジロジロと見るなですぅ。恥ずかしいじゃないですかぁ」
「ご、ごめん。僕、他人の家に行くのって久しぶりだから、つい……」
「そうなんですぅ?友達の家に遊びに行ったりしないんですかぁ?」
「うん。僕、友達は整しかいないから……」
「お前……」
孤独な少年の内面が垣間見えた瞬間だった。裕一の世界には愛海と整しかいなかった。他の友人は皆無である。誰かの家に遊びに行くという、他の人にとって当たり前の体験が彼には欠けていた。息の詰まるような一人ぼっちの生活を、十六年も続けてきたのだ。
あかりもその辛さはよくわかっていた。なぜなら、彼女もかつては同じような毎日を送っていたからだ。唯織が友達になってくれるまで、あかりは人を信用できなかった。常に他者を疑い、恐れてもいた。きっと今の裕一も同じ状況に違いない。
(こいつは昔のあかりと本当に似てますねぇ。だからこそ、イラつくんですけどぉ)
そして同時に、ほっとけなくもある。
「まあ、これからは好きな時にあかりの家に来ればいいですぅ。別に大したことはできませんが、お茶くらいなら出してあげてもいいですよぉ?」
「あかりさん……。ありがとう……」
裕一の顔が少しだけ明るくなった。彼の元気が少し戻ったところで、あかりはそろそろ本題に入ろうと思った。
「それで、チョモランマとは決着着いたんですかぁ?その様子だと、だいぶ絞られたみたいですが」
「その点に関しては大丈夫。今までの関係を見直そうっていう話になったから。あかりさんのお陰で、僕も思い切って話せたよ」
「そうですかぁ!やっぱりあかりキックが効いたんですねぇ。ちゃんと感謝してくださいよぉ?あかりとこの黄金の右足の両方にですよぉ?」
そう言って、あかりは自慢の右足を大事そうに撫でた。だが、裕一はジト目で少女のことを睨んだ。あんなショック療法は二度と御免だと思っていたのだ。
「でもさ、僕はやっぱり、その……」
「はぅわ?なんですぅ?」
「あかりさん、僕のことを笑わない?」
「事と次第によっては笑うかもしれないですぅ。でも、お前を馬鹿にするつもりは全然ありませんよ。ここにはあかりとお前しかいません。安心して話すですぅ」
裕一は少し躊躇ったが、もはや隠していても意味がないと悟った。彼はゆっくりと、そして慎重に話し始めた。
「実は、僕はお姉ちゃんのことが好きだったんだ……」
「なんだ、そんなことですか?あかりだっていおりんのことが好きですし、お母さんのことも好きですよぉ。身近な人を好きになるなんて、当たり前のことですぅ」
「そ、そうじゃなくて、女の人として好きだったんだ。付き合ってたんだよ、僕らは」
「はぅわ?それってつまり、恋愛的な意味での『好き』ということですぅ?」
裕一は唇を噛みながら、こくりと頷いた。衝撃的な告白を聞いて、あかりは座布団を蹴っ飛ばして立ち上がった。
「お、お前はチョモランマのことを愛していたんですぅ!?はぅわわわ~~!!?こりゃ、驚きですぅ!お前は黒猫の方が好きなんだと思ってたですぅ!」
裕一は愛海のことを本気で愛していたのである。家族に対する愛ではなく、女に対する愛を、裕一は愛海に対して持っていたのだ。
(驚きですが、確かにそれなら辻褄が合うですぅ!どうして遊園地のデートに姉を連れて来たのか、どうしていおりんに猛アタックされてもびくともしなかったのか……。それも全部、こういうことだったんですねぇ!)
裕一と愛海――。隠されていた姉弟の繋がりが、今ここに明らかにされた。
「ちょっと待つですぅ。ということは、近すぎる姉弟の関係をやめたいというのは……?」
「お姉ちゃんと別れるって意味なんだ」
「はぅわ!?あかりはそんな大事なことをキックで決めてしまったんですかぁ!?」
知らず知らずのうちに、男女関係の重要な決定にあかりは首を突っ込んでしまったのであった。ちょっとした姉弟間のいざこざだと思っていたのだが、根底には複雑な恋愛感情が隠されていたのだ。
「だからお前はそんなに落ち込んでるんですねぇ」
「うん。今のこの関係をやめたいって言ったのは僕の方だけど、やっぱり大好きなお姉ちゃんと別れるのが辛くて……。『別れよう』と言ったあの瞬間は、僕の人生で一番きつかったよ……」
裕一は顔を上げて天井を見た。彼の瞳は微かに潤んでいた。
「お姉ちゃんにひどいこと言われちゃったよ。『裕一のことなんて大嫌い。もう知らない』って。僕って馬鹿だよね。姉弟で恋愛なんて、最初から無理だったのに、それでも付き合って、やっぱりやめなきゃってなって……。それでこんなに傷ついてる。本当に情けないやつだ……」
「それ以上言うなですぅ!」
どん!あかりは裕一を押し倒した。
「お前は頑張ったんですよぉ!?自分の気持ちを抑え込んで、お姉さんの幸せのために身を引いたんですぅ!立派なことじゃないですかぁ!なのにそんな言い方……あかりが許さないですぅ!自分に失礼じゃないですかぁ!」
「あかりさん……」
「お前が認めないならあかりが認めるですぅ!裕一くんは頑張りました!お前は正しいことをしたですぅ!いつまでもお姉さんにくっついてたら愛海先輩が幸せになれないからって、辛いのを我慢して別れを切り出したんですよぉ!無茶苦茶かっこいいですぅ!お前は胸を張ってもいいんですよぉ!」
「でも、僕はお姉ちゃんに恋するような気持ちの悪いやつで……」
「たしかに普通じゃないですけど、でも、お前は真剣だったんですよね?だったら、その気持ちだって馬鹿にしちゃダメですぅ!お姉さんを好きになったのも、お姉さんの幸せのために別れる決断をしたのも、絶対に否定しちゃダメなんですぅ!!」
あかりは彼の上に四つん這いになって、励ましの言葉を送った。裕一は驚きながらも、あかりのエールをちゃんと受け取った。
裕一はこんなにも自分の行動を褒められたことが無かった。愛海も整もしてくれなかったことだった。彼女たちは裕一の行動を褒めるよりも、そもそも彼が何もしなくてもいいように先に手を回していた。
(そっか。僕は頑張ったんだな。自分の頑張りを認めてもいいんだ)
裕一は胸に自信が宿るのを感じた。それは確固たる基盤となって、少年の心を支えた。さっきまで感じていた心の痛みは無くなっていた。裕一は初めて誇りというものを得たのだった。
(あかりキックより、こっちの方がよっぽど効くよ。まったく、あかりさんったら……)
ショック療法よりも、心のこもった励ましの言葉の方が裕一を元気づけた。彼は感謝の気持ちを込めて、彼に覆い被さっているあかりを大胆にも抱き締めた。
「はぅわ!?いきなり何をするんですかぁ!?」
「あかりさん、ありがとう。僕、立ち直れたよ。あかりさんのお陰で、自分のやったことに初めて自信が持てたんだ。今まで後悔してばっかりだったけど、これからは前向きに生きていけそうな気がする」
腕の中の少女はぬいぐるみみたいに小さくて軽かった。だが、あかりは人形ではなくて、血の通った一人の少女であった。
あかりの心臓は予想外の抱擁のせいで、どっくんどっくんと激しく動いていた。男の人に抱き締められたのはこれが初めてだった。顔が燃えるように熱かった。
(は、はぅわ……。どうしてあかりはこんなにも胸がドキドキしてるんですぅ?ま、まさかあかりは、こいつに初恋を奪われてしまったんですかぁ……?)
あかりは裕一から離れることができなかった。いつもなら裕一を突っぱねているところなのだが、四肢がふにゃふにゃに融けてしまって、全然力が入らない。
いや、離れるどころか、あかりはずっとこのままでもいいとすら思っていた。初めての抱擁は、あまりにも甘美だった。
(裕一くん……。あかりは……お前の腕の中でとんでもないことになってますよぉ……)
天堂あかりにやや遅い春がやってこようとしていた。だが、彼女はすっかり忘れていた。今、心をときめかしている相手は、親友である涼風唯織の意中の人でもあるということを――。
2026/3/15挿絵を追加しました。AIで生成しました。




