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君の恋、雨の色  作者: 石戸龍一
第十二章 黄昏
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第一話 整ちゃんの馬鹿

薬局で愛海は小さな箱を手に取っていた。裕一との肉体関係が始まって以来、何度もお世話になってきた物で、家のストックが無くなってしまったので買いに来たのだ。つまり、避妊具コンドームのことである。


黒い長方形の箱に金色の文字が刻まれている。ゴージャスで上品なデザインをしているが、実際には男女の下劣げれつな肉欲を満たすために使われる。目立たないように、商品棚の最下層にひっそりと置いてあった。


普段だったら、躊躇ためらうことなく買い物かごに放り込んでいた。だが、愛海の手は止まっていた。


愛海は嫌悪感に満ちた表情で箱を見つめていた。まるでむべき呪物でも手に取っているかのようだった。


「いらない……。私と裕一には、こんなものいらない……」


あの悪魔の考えにりつかれて以来、愛海は弟とのなまの接触を求めていた。たかが薄皮一枚のゴムまくに過ぎないが、それでも今の愛海とっては、姉弟きょうだいの愛を邪魔する憎き障害物だった。


愛海は小箱を棚に戻そうとした。しかし、それをとがめる者がいた。


「買っときなよ。もし万が一のことがあったら、今の関係を続けられなくなるわよ」


雨野整だった。彼女の忠告を受けて、愛海は渋々買い物カゴに箱を入れた。


二人とも目を合わせることができなかった。姉妹しまいのように親しかった愛海と整は、今の関係の是非ぜひめぐって険悪けんあくな仲になっていた。関係を続けたい愛海とやめたい整の間には、大きなみぞが出来ていた。


「どうしてここに私がいるってわかったの?」


「裕一に教えてもらったのよ。一度、愛海さんの家に行ったから」


「そう」


「家に帰る前に公園で話さない?別に急ぎってわけじゃないんでしょ?」


「うん、いいよ」


愛海たちは近所の星ヶ崎公園にやってきた。遊具の少ない寂しい公園だったが、愛海にとっては思い出の場所だった。彼女はここで裕一の思いにこたえて、初めて自分からキスしたのであった。


(遊園地の帰りだったよね。私の中に、弟のことが好きだっていう気持ちがあることに気づいて、それで裕一のカノジョになったの。あれからいろんなことがあった。本気で愛し合った。別の誰かを傷つけないために一度別れたりもした。でも、私たちは再び一つになれた……)


姉弟きょうだいの関係は紆余曲折うよきょくせつだった。近づき、離れて、また近づいた。そして今度は、裕一が愛海から離れようとしている。


「愛海さん。ブランコ乗ろうよ?」


「いいけど……」


整と愛海はブランコに乗って、ゆっくりとぎ始めた。愛海の不器用なぎに対して、整はさすがに上手くて、あっという間に高い地点に到達していた。彼女のブランコは前に後ろに大きく動いて、このまま鎖が千切ちぎれてしまうんじゃないかと思われるほどだった。


「このブランコ、昔はよく乗ったよね。あたしの一番好きな遊具だったんだ。あたしが馬鹿みたいに高いところまでいでさ、愛海さんはあたしが落ちないかどうか心配してオロオロしてた。覚えてる?」


「そんなこともあったね。整ちゃんはあの頃から危険なことが大好きで、私も裕一も振り回されっぱなしだった。整ちゃんは今も昔は変わらないね」


「その通り。あたしはずっと雨野整。人を驚かすのが好きで、馬鹿なことばっかりやってる……女の子ってね!」


「整ちゃん!?」


整は立ちぎに切り替えて、勢い良く前方にジャンプした。空中で一回転して、猫のようなしなやかさで着地する。急にぬしを失ったブランコは、鈍い金属音を出しながら、一人で前後に揺れていた。


「いきなりなにするのよっ。もうっ。心臓が止まるかと思った」


愛海は胸に手を置いて心配そうな表情をしていた。他方、整はにんまりと笑っていた。やはり、愛海は整に一杯食わされる運命にあるようだ。


「愛海さん。今日は渡したいものがあるのよ」


「渡したいもの?」


整はポケットから四つ折りにした紙を取り出した。愛海は紙を受け取り、広げて読んでみた。


「求人票?」


「うん。あたしのお父さんの会社の求人票なんだ。愛海さんって卒業したら就職するんでしょ?お父さんの会社に入りなよ。誰にでもできる簡単な事務仕事で、給料は安いけど、みんな色々と優しくしてくれると思う。あたし、お父さんにお願いしてみたんだよね。愛海さんをお父さんの会社に入れてって」


こんなものを渡されるとは、愛海とっては嬉しい誤算ごさんだった。最近は裕一のこともあって、卒業後のことは全く考えていなかった。履歴書の書き方や面接の受け答えの仕方など、学ばないといけないことがたくさんあるのに、愛海は何もやっていなかった。


整の父の会社なら、コネ入社だから不採用の心配はないし、職場でも色々と便宜べんぎはかってくれるだろう。整の父は真面目で寡黙かもくだが、信頼できそうな男性だった。この話は安心して受けていいだろう。


「どうして整ちゃんはこんなに優しくしてくれるの?整ちゃん、最近は私のことを嫌だなって思ってたでしょ?」


「それは……」


「別に嘘つかなくてもいいの。全部わかってるから。整ちゃんは私が始めた今の関係をやめたいんでしょ?私と整ちゃんと裕一の三人で愛し合う、この関係を……」


「そ、そりゃあ、まぁね……。愛海さんの考えに全部納得してるわけじゃないし。でも、これとそれとは話が別。愛海さんはちゃんと就職して家を支えないといけないでしょ?就職失敗とか、変な企業に入ってひどい目に合うとかさ、そんなことになったらあたしだって悲しいのよ。あんたたち姉弟きょうだいや礼子さんの幸せのためなら、あたしは何だってやるわ」


「整ちゃん……」


「今の関係ことも、裕一のことも、解決しなきゃならない大事なことだけど、愛海さんの人生も同じくらい大事。愛海さんが幸せな人生を送られれば、裕一も幸せになれるし、あたしだって幸せになるの。だから、あたしにも協力させてよ。幼馴染なんだからさ?」


そう言って、整はまたブランコに腰を下ろした。彼女はふと上を見上げて、黄色に染まってきた樹冠じゅかんを眺めた。


秋も深まって来た。もうすぐこごえるような冬がやってくるだろう。季節の移り変わりと共に、裕一もまた変わっていく。完全に冬が到来した時、傘馬裕一は愛海の望むような彼でいてくれるだろうか?


整は今までずっと聞きたかったけど、聞けなかった質問をしようと思った。それは、愛海にこそ答えて欲しいと思っていた質問だった。


「裕一って、将来どうなるんだろうね?」


「え?」


「あいつ、高校を卒業したら愛海さんみたいに就職するのかな?それとも、大学に行くのかな?」


「大学は無理だと思うよ。ウチに高い学費を払う余裕なんて無いから」


「そう?奨学金っていう制度もあるし、まあ、いざとなったらあたしがお父さんに頼み込んで払ってもらおうかな?たかが五百万くらいっしょ?へーきへーき。ウチは金だけはあるからさぁ」


「せ、整ちゃん。さすがに冗談が過ぎるよ」


「んー?裕一が大学に行きたいって本気で思ってるなら、あたしはマジでお願いするけどね。どうしてもダメっていうのなら、あたしの借金ってことで調達するわ。土下座でもなんでもしてさ、社会人になったら返すから貸してくださいってお願いするの。それもダメだったら、泥棒でもするかな?親の口座番号は知ってるし。まあ、100%勘当かんどうされると思うけどね」


「どうして裕一のためにそこまでするの……」


「そりゃあ、あたしは裕一のことが大好きですから。あははっ。それにさぁ、あたしは裕一のことを幸せにしなきゃいけないのよ。つぐなえない罪があるからね……」


整は表情を暗くして、スカートのすそをぎゅっと握った。リコーダー事件の時効じこうはまだ来ていない。整の中では、おそらく死ぬまでつぐない続けるつもりなのだろう。


「あいつが社会人になってもさ、愛海さんは今の関係を続けるつもりなの?」


「もちろんそうよ。だって、私と裕一は永遠の夫婦だもの。ずっと離れない、離れるわけがない……」


「裕一が愛海さんをこばんだとしても?」


「え……!?」


愛海は整の方に振り向いた。整は視線を下に落として、かすかに笑っていた。


それは諦念ていねんの笑みだった。今の整は、未練みれん情念じょうねんから解放されて、スッキリした気分になっていた。整は愛海と違って、裕一を諦める覚悟が既にできていた。


「もうさ、やめようよ……。あたしね、佳澄と勝負してる時に全部わかったのよ。裕一を幸せにできるのはあたしでも愛海さんでもない。あいつはあたしたちから離れて、自分の力で人生を取り戻そうとしてる。それを邪魔しちゃダメだよ」


「ふ、ふざけないで!裕一がそんなことできるわけないじゃないの!あの子は臆病で、内気で、全然人と話せなくて、全てにおびえている……そんなか弱い子なのよ!?裕一が自分の力だけで社会でやって行けるわけないじゃないの!あの子はどうしようもないくらい弱い子なんだから!!」


「……()()()()()()()()()()()()()()()()!!!」


「整ちゃん……!?」


整はブランコから降りて、愛海をにらんだ。彼女の目には薄っすらと涙が浮かんでいた。


「愛海さん……。前にも言ったよね?『裕一は飛べる小鳥だった』って。その通りだよ。あの子は本当は空に飛んで行ける鳥。でも、あたしたちのせいで飛べないのよ。あたしと愛海さんが、裕一のことが好きすぎるから、あいつの翼を折ろうとしてんのよ……!」


「それは違うよ!私たちは裕一に優しくしたいだけ!それのどこがいけないって言うのよ!?」


「あたし、この一年でようやく分かった……。優しさって言うのはね、時に人から大事なものを奪うのよ……。あたしたちは裕一を守ることで、あいつから成長の機会を奪ってる……。そんなの、絶対に間違ってるのよ」


「整ちゃん……!」


「だからさ、もうやめよう?裕一のことは忘れて、まともに働くことを考えなよ。愛海さんはこれから就職の準備とか、大事なことがたくさんあるでしょ?あたしたちの馬鹿げた恋愛ごっこはこれで終わり。あたしたち、裕一から卒業しなきゃ……」


愛海はもう我慢がならなかった。整からもらった求人票を握り締めて、ブランコから勢いよく立ち上がった。


「まだそんなふざけたことを言うの!?いい加減にしないと怒るよ!?私と裕一は永遠なんだから!あの子が私を拒絶するわけないじゃない!あの子はずっとお姉ちゃんと一緒なの!それ以外の未来なんて、私が認めないんだから!」


「愛海さん!お願いだから正気に戻ってよ!今の愛海さん、やっぱり変だよ!」


「う、うるさい!だまそうとしたって無駄よ!この求人票だって、私を説得するためのえさなんでしょ!?これでれば、私に言うことを聞かせられると思った!?残念だったね!こんなもの……!こんなものぉおおお!!」


愛海は求人票をビリビリに破いた。そして、紙くずを地面に投げ捨てた。


「整ちゃんの馬鹿!馬鹿!馬鹿ァーーーー!!」


整を罵倒ばとうする愛海の絶叫ぜっきょうが公園に響いた。彼女は整を残し、一人で家に帰ってしまった。


整は愕然がくぜんとしていた。今の愛海の振る舞いはあまりにも幼稚ようちだった。おもちゃを取り上げられそうになって、怒って暴れだした子供と同じだった。


愛海の精神は確実に退化していた。理性という屋台骨やたいぼねを失いつつあった。


(愛海さんはあんなに子どもじみたことをする人じゃなかった……。そっか……。もう心が壊れかけてるのね……)


バラバラになった求人票の残骸ざんがいを拾いつつ、整は愛海の中に芽生えつつある狂気に戦慄せんりつしていた。彼女はりつかれたように近親恋愛きんしんれんあい執着しゅうちゃくしており、それができなくなるくらいなら死んだ方がマシだとでも言いだしそうだった。


今日は愛海の説得のために来たのだった。今の関係が裕一のためならないとさとして、これからやって来る愛海自身の生活の変化に目を向けさせるつもりだった。


だが、上手くいかなかった。火に油をそそいだだけだった。


(このままだと愛海さんが壊れちゃう……。でも、どうしたらいいの?もう愛海さんはあたしの話なんか聞いてくれない。無理に説得しようとしても、事態を悪化させるだけ。あたしは一体どうすれば……)


愛海の激情を前にして、雨野整は途方とほうに暮れていた。壊れかけた心の直し方なんて知らなかった。そんなことはどこにも書いてないし、誰も教えることのできないものだった。


運命の破局はきょくは目前に迫っているというのに、整は解決の糸口すら掴めていなかった。

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