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君の恋、雨の色  作者: 石戸龍一
第十章 愛海と整
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第五話 罪な女たち

こんな雨の日だと言うのに、傘馬愛海はとても上機嫌だった。軽快なリズムの鼻歌を歌いながら、ほうきで家の中を掃除している。


(裕一とまた一緒になれた……。引き裂かれて、もう二度と元通りにはなれないって思ってたのに。こんな幸せな事って他に無いよね。ふふ)


愛海と裕一は以前の関係を取り戻していた。いや、前よりも激しい関係と言ってもいいのかもしれない。


裕一とまじわれなかった時間を取り返すかのように、愛海は磁石じしゃくみたいに弟にくっついて、毎日付きっ切りで彼を慰めた。


愛する人と当然のように愛し合える幸せな日々を、愛海は一人の女として享受きょうじゅしていた。


他方、裕一はどうだろうか?彼は精神的ダメージから多少は立ち直ったものの、学校に行くほどの元気はまだ戻っていなかった。愛海や整に見守られながら、英気えいきやしなっている状態である。


一週間の休みの予定が二週間に伸びるかもしれなかったが、愛海は全然構わなかった。むしろ、家にいつも裕一がいる方が安心した。このままずっと家に居ればいいのにとすら思っていた。


(そうすれば、裕一は誰からも傷つけられずに、私とずっと一緒にいられる。そんなことは絶対に良くないことだけど、でも、裕一にとってはどっちの方が幸せなのかな?外の世界と私と一緒の世界……。もし裕一が家にいたいって言うのなら、私はそれでもいい。裕一が不登校になっても、私は全てを受け入れるよ……)


愛海は窓から外の景色を見た。昨日からずっと雨模様が続いている。そこまで強い雨ではないものの、糸のように細い雨がしとしとと降り続いていた。秋の長雨ながあめである。


(この頃、ちょっと寒くなったかな。今日みたいな雨の日だと、半袖はんそでだときついかも。そうだ。今日のお夕飯は久しぶりにお鍋にしようかな。裕一が大好きなお肉をたくさん入れて、たらふく食べてもらうの!うふふ!裕一、きっと喜んでくれるよね!)


夕飯について考えている時、リビングの固定電話が鳴った。わざわざ固定電話の番号にかけてくるとは、珍しい人もいるものだ。


愛海はほこりかぶった受話器を取り、耳に押し付けた。


「もしもし?傘馬ですけど」


『もしもし。私は雨野と申しますが……。その声は愛海ちゃんかな?』


「整ちゃんのお父さん?お久しぶりです。愛海です」


電話の相手は整の父親だった。家族ぐるみで付き合いのある雨野家の両親とは、この頃はあまり話していなかったが、知り合った仲だった。


あの真面目そうな整の父の顔を思い出して、愛海は懐かしい気持ちになった。


『ちょっと聞きたいことがあるんだが、整がそっちに行ってないかな?』


「整ちゃん?いえ、来てないですけど……。何かあったんですか?」


『それが、突然家を飛び出して、それから全然戻って来ないんだ。携帯に連絡しても繋がらないし、そっちに行ってると思ってたんだが……』


どうやら整が姿を消してしまったらしい。愛海は驚いて、思わず受話器を落としそうになってしまった。


「それって行方不明ってことですよね?整ちゃん、一体どうしちゃったんですか?」


『この頃、やけに口数が少ないとは思っていたんだが、詳しいことは私にもわからない。愛海ちゃんのところに行ってないとすると、もうお手上げだな。やはり警察に連絡するしかなさそうだ。休日にすまなかったな。では、失礼するよ』


がちゃり。通話が切れた後も、愛海は受話器を耳に当てたまま、呆然ぼうぜんとしていた。


(整ちゃんが行方不明……。どうしたんだろう?いきなり消えちゃうなんて、そんな……)


愛海は携帯で整に電話をかけた。だが、出ない。何度かけても繋がらなかった。


思春期の少女が、何も言い残さずに消えてしまったという状況が、愛海に嫌な妄想を抱かせた。


家出ならまだいい。最悪の場合が考えられた。両親にも愛海にも言えない悩みがあって、思い詰めた少女は遂に身を投げる――。


(ど、どうしよう……!もし整ちゃんの身に何かあったら、私……!)


「お姉ちゃん?どうしたの?」


固定電話の前で固まっている愛海を見て、裕一は心配そうな顔をしていた。


「今、整ちゃんのお父さんから電話がかかってきてね、整ちゃんが行方不明になっちゃったみたいなのよ。急に家を飛び出して、携帯も繋がらなくて……」


「整が?あいつ、もしかしたらあそこに……」


どうやら整の居場所に思い当たるふしがあるらしい。裕一は鞄を二階から取って来た。


「僕、整がどこにいるのかわかるかも!行ってくる!」


「ダメよ!裕一はまだ体調が万全じゃないでしょ!?その場所を教えて!私が行くから!」


まだ心身が治りきっていない裕一を外に出すわけにはいかなかった。ここは愛海が行くしかない。


「僕と整しか知らない秘密の場所があるんだ!整の家からちょっと離れたところに山があって、その林道を登って行った先に、今は使われていない廃倉庫があるんだよ!整は絶対にそこにいるよ!」


「林の中の廃倉庫ね……!よし!じゃあ、行ってくるから!」


雨の中、愛海は自転車に乗り込んで、傘もささずに一目散に飛び出して行った。立ち漕ぎで全力疾走し、顔が濡れようが服がずぶ濡れになろうが関係なかった。急を要する事態なのだ。


(整ちゃん!今、そっちに行くからね!だから、馬鹿な真似は絶対にしないでっ!お願いっ!)


団地を駆け抜け、商店街を抜けると、いきなり山が現れた。裕一が言っていた山とはこれのことだなと愛海は思い、山の入り口に自転車を止めて、徒歩とほで林道を登り始めた。


愛海のものではない、小さな足跡がずっと先まで続いていた。整の足跡だと確信し、ぬかるんだ道に足を取られながらも、愛海は先を急いだ。


(この前、整ちゃんはどうしてあんなことを言ったんだろう?私と裕一の関係を元通りにしていいっていうのは嬉しかったけど……。でも、整ちゃんからすれば、自分から裕一を手放すことになるじゃないの。きっと、整ちゃんはあの時から悩んでいたんだ。早まったことをしていなければいいんだけど……)


整の自暴自棄じぼうじきじみた行動を思い返すと、やはり彼女のことが心配でならなかった。人が自分の好きなものを捨てる時、それは自分自身を消し去る時なのだ。近いうちに自分の存在が消えるから、自分の好きなものも簡単に諦めることができる。


整は裕一を放棄し、遂には自分さえ捨てようとしているのではないか?なぜそんなことをするのかはいまだに不明だが、とにかく、整がまずいことをしようとしていることは明らかだった。


愛海の靴は水を吸って重くなっていた。しかし、それでもめげずに前に進んで行った。大切な友人を助けるために、ここで足を止めるわけにはいかなかった。


(ん?あれって……)


樹々の隙間から茶色い建物が見えていた。裕一の言っていた廃倉庫に違いない。


愛海は扉に手をかけて、力を込めて押していった。びた扉は重くて、全体重を乗せて押さないとびくともしなかった。


「ん……!ぐぅ……!」


愛海はやっとのことで扉を開き、倉庫の中に入った。電気は通っておらず、室内は夜のように暗かったが、倉庫の中央だけは、まるでスポットライトで照らされているかのように明るかった。天井の真ん中が破れていて、外の光がそこから降り注いでいるのだ。


雨野整はその光の中にいた。愛海に背中を向けて、光と共に雨を一身に受けていた。そしてなぜか、彼女に手にはリコーダーが握られていた。


「整ちゃん!そこでなにしてるの!?お父さんもお母さんも、みんな整ちゃんのことを心配してるんだよ!?」


整はゆっくりと振り向いた。彼女は泣いていた。冷たい雨に打たれながら、熱い涙を目から流していた。


「愛海さん……。あたしには……裕一を愛する権利なんてなかった……。やっぱり、神様はちゃんと見てたよ……。あたしみたいなやつは許されないに決まってるのよ……」


「な、なにを言ってるの?神様とか許されないとか、全然意味わかんないよ。整ちゃん、どうしたの?どうしてこんなことしたの?」


「う……!ぐす……!愛海さん……っ!」


整は愛海に抱き着いて、わんわんと泣き出した。その時、整の手からリコーダーが落ちて、床の上をころんと転がった。


「あたしなんだ!全部あたしがいけないのよ!リコーダー事件の犯人はあたし!裕一が人間不信になったのも、あいつがいじめられるようになったのも、あいつの人生が滅茶苦茶になったのも、全部あたしのせいなのよっ!!」


整は己の罪を告白し始めた――。


整がまだ小学生だったある日のこと、体調が悪くて一人で保健室で休んでいた。だが、すぐに回復したので早めに教室に戻って来た。クラスのみんなはまだ図工室で授業を受けていて、誰も教室にいなかった。


ふと、同じクラスだった傘馬裕一の机に意識が向いた。彼の机の上には、次の音楽の授業で使うリコーダーが置いてあった。


整は何か魔法にでもかかったかのように動けなくなり、その縦笛たてぶえから目を離せなくなった。


(裕一のリコーダー……)


もうこの時から、整は裕一のことが好きだった。手を繋いだり、贈り物を交換したり、キスしたり、そんな恋人らしいことをしてみたいと願っていた。


そして、少女はそのような健全な恋愛だけではなく、より密接な接触を望んでもいた。それは性欲の原初げんしょとも言えるような、獰猛どうもうで衝動的な欲求だった。


裕一の身体に触りたい、裕一の身体に口をつけたい、裕一のモノをしゃぶりたい――。


心の中で、欲望の悪魔がささやいた。幼い少女に悪魔に抵抗できるほどの力はなく、すぐに言いなりになってしまった。


整はリコーダーを包みから取り出して、先端を口に含んだ。すると、大好きな裕一の味と香りが一気に広がった。少女は唇にしびれるような悦楽えつらくを感じ、誰もいない教室で恍惚こうこつとしていた。


「誰か来る……!?」


授業が終わって、教室に戻って来る生徒の足音が聞こえて来た。整は裕一のリコーダーを自分のランドセルの中にしまって、何食わぬ顔で着席した。


一人、また一人と教室に生徒が戻って来る。そして、ついに裕一もやって来た。裕一は机の上に置いてあったリコーダーが無くなっていることに気がついた。引き出しの中にも、ランドセルの中にも無かった。


「あれ?あれ?僕のリコーダーが無くなってる。なんで?なんでよぉ……。うぅ……。ぐす……」


裕一は泣きだしてしまった。私物を盗まれたショックで、心に雨が降ったに違いなかった。


泣きじゃくる幼馴染を見ることさえできず、整はうつむいていた。自分のしでかしたことの罪の重さに、ただうち震えるばかりだった――。


愛海は整が落としたリコーダーを拾った。そこには『三年二組かさばゆういち』と、小学生らしい下手な字で書いてあった。


「あたし、我慢できなくて、裕一の持ち物が欲しくて、それであんなことしちゃって……!でも、裕一に嫌われるのが怖くて、ずっと言い出せなくて……!あたし……!あたし……!裕一の人生を壊しちゃったのよぉ~~~!!」


整は床の上に身を投げ出した。声がり切れるほど泣き叫び、何度も地面を叩いた。手から血がにじんできても、整は叩き続けた。あたかも、自分を罰しているかのようだった。


「ごめんなさい!ごめんなさい!愛海さん!!うわああああーーー!!」


「整ちゃん!!もうやめて!そんなことしないでぇ!」


愛海は整がこれ以上自分を傷つけることがないように、彼女の両腕を強く抑えた。整の指からは血がしたたり落ちていて、そでにまで染み込んでいた。


「こんなことしておいて、裕一のことが好きなんて言えるわけないじゃん!全部わかってたのよ!罪を犯したあたしは、絶対に裕一の恋人になっちゃいけないのよ!神様は全部お見通しで、あたしの罪をさばくために、裕一があたしのことを好きにならないようにして……!全部……全部……自業自得じごうじとくなのよ!」


「整ちゃん……。そうだったのね……。過去にそんなことをしてたから、今まであなたは……」


愛海は今までの整の行動がようやく理解できた。


なぜ整は自分の恋心を打ち明けられなかったのか?なぜ整は姉弟きょうだいのために、ある意味では自己犠牲的な行動を取り続けたのか?なぜ一度は否定した愛海と裕一の関係を復活させたのか?


結局、整が過去に犯した罪のせいなのだ。罪があるからこそ、整は裕一を正面から愛する資格が無いと思い込み、自分の恋心を裏切るような矛盾した行動を取り続けたのだ。


「あたしのせいで、あいつは人を信じられなくなって、心が不安定になっちゃって……!今回のことだって、あたしがあいつにトラウマを負わせなければ、裕一があんなに傷つくことは無かったんだ……!あたしがあいつのことを不幸にしちゃったのよ……!」


今回の唯織の事件も、いじめによる過去の挫折ざせつが無ければ、裕一は毅然きぜんと断れてたかもしれない。どれだけ周囲から責められようが、強い心でもって、自分の気持ちを貫き通すことができたかもしれない。


整の罪は裕一の人生に暗い影を落としていた。決してつぐなうことのできない、致命的な損傷を裕一に与えていた。



愛海と整は物静かな倉庫の中で、雨がむのを待っていた。雨脚あまあしは徐々に弱まり、あと少しで完全にみそうだった。雲間くもまからは微かに太陽の光が見え始めている。


「愛海さん。あたしがしたこと、裕一に言ってもいいよ」


「でも、そうしたら整ちゃんが……」


「あたしは別にどうなってもいいの。それで裕一に絶交されたとしても、仕方が無いよ。だって、それだけのことをしたんだから……」


整は何もかも諦めていた。自分がやったことは取り返しのつかないことであり、そのむくいとして最愛の人から軽蔑けいべつされることになるとしても、その運命を受け入れるつもりだった。たとえそれが、整にとっては死ぬよりも辛いことだとしても。


そして、弟がいじめられる原因を作った整を、愛海は断罪だんざいする資格があった。その罰として、彼女の罪を包み隠さず裕一に話して、整と裕一の仲を永遠に引き裂くという手もあった。


(私が整ちゃんがやったことを全部裕一に話したら、きっと整ちゃんは二度と裕一と恋人になれなくなる。それどころか、友達関係すら続けられなくなるかもしれない……)


愛海はしばらくの沈黙の後、裕一のリコーダーを握り締めながら、力のこもった声で言った。


「……ううん。言わない」


「愛海さん?」


「だって、整ちゃんは私と裕一の関係を黙っててくれたでしょ?なら、私も言わない。整ちゃんの過去のあやまちは、私たちだけの秘密するの」


「で、でも……!あたしは裕一に本当にひどいことをしたんだよ?それなのに、どうして愛海さんは言わないでいてくれるの?」


愛海は整の手を取った。愛海の手は温かった。この手に包まれているだけで、心がやすらいでくる。


愛海は微笑ほほえんでいた。その笑顔は慈母じぼのようであり、絶大な愛で満ちあふれていた。


「だって、整ちゃんは家族みたいなものだから。それにね、私だって整ちゃんに悪いことをしたよ?整ちゃんの気持ちを何も考えないで、裕一と勝手に恋人になって、それを整ちゃんに隠し続けた。整ちゃんが裕一に罪があるなら、私だって整ちゃんに罪があるよ。私は自分のことを棚に上げて、整ちゃんのことを一方的に責められないの」


「愛海さん……!」


愛海は整の全てを許すことにした。だって、愛海は整のことが大好きだったから。血を分けた弟と同じくらい大切な存在だったから。


愛海は海のように深い慈愛じあいの心で整を許し、その証拠としてリコーダーを返却した。この縦笛たてぶえをこれからも隠し続けても良いということである。整の罪は不問ふもんとされたのだ。


「ありがとう、愛海さん……。あたし、これからも裕一の友達でいてもいいんだよね?そうなんだよね?」


「整ちゃん、それは違うよ。整ちゃんは……」


愛海は一呼吸置いてから、ゆっくりと言葉をつむいでいく。


「裕一の恋人になるの……」


「え?」


「私、ずっと思ってたんだけどね?私は裕一のことが好きで、整ちゃんも同じくらい裕一のことが好き。だったら、何も私と整ちゃんのどちらかが裕一を諦めなきゃいけないってわけじゃないと思うの。三人で愛し合おう?私も整ちゃんも、裕一のカノジョになるの」


「そ、そんなの普通じゃないわよ!できるわけないじゃない!」


「できるよ。私たちならできる。ずっと一緒だった、私たちならできる……」


愛海は整に手を伸ばした。愛海は整のことを真っすぐ見つめて、この手を取ることを求めていた。


「でも、愛海さんはそれでいいの!?あたしが裕一のカノジョになるってことは、その、そういうこともするかもしれないのよ!?」


「いいよ。他の人なら嫌だけど、整ちゃんならいい。だから、逆に整ちゃんも許して欲しいの。私と裕一がまじわることを認めて欲しい」


「愛海さん……」


「昔に戻ろうよ?私と整ちゃんと裕一しかいなくて、嫌なことも苦しいことも無くて、ただ楽しかったあの頃の私たちに。裕一をめぐって私たちが争い合うなんて、そもそもが間違ってたのよ。三人で愛し合えばいい。だって私たちは、深い絆で結ばれているんだから」


整は一瞬の躊躇とまどいがあった。愛海が提案した新しい関係は、姉弟きょうだいの恋愛よりもはるかかに背徳はいとく的で異常だった。彼女の中の良心が、愛海の手を取ることをとどまらせたのだ。


しかし、罪を犯した少女はそれでも裕一の恋人でいたかった。彼の愛が欲しかった。彼と触れ合っていたかった。彼に抱き締めて欲しかった。


(裕一……。ごめん……)


雨野整は愛海の手を取った。そして、愛海と共に裕一のカノジョになることに同意した。

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