表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の恋、雨の色  作者: 石戸龍一
第一章 雨中の告白
6/96

第六話 暗闇の一撃

夜になっても雨は止まなかった。むしろ激しくなる一方である。テレビは大雨注意報を発し、画面をL字型に区切って危険地域を知らせていた。雷の音も遠くで響いている。どこかで落雷したに違いない。


裕一は姉の帰りを待っていた。夕方のシフトは九時で終わる。そろそろ愛海が帰宅する時間だった。


がちゃり。扉が開く音がする。裕一は姉を出迎えようと玄関に走った。


「おかえり、お姉ちゃん」


「ただいま~。外、凄い雨だよ。お姉ちゃん、びしょびしょになっちゃった」


愛海は傘を持って行ったにも関わらず、かなり濡れていた。特に肩やズボンの裾りが水分を大量に吸っていた。横殴りの雨が傘の隙間から入ったのだろう。裕一は姉にタオルを持ってきてあげた。


「裕一はお母さんからの連絡、もう見た?」


「ううん。僕は見てないよ。何かあったの?」


「今日も遅くなるんだって。だから先に食べちゃおう?」


傘馬家を一人で支える母・礼子れいこは中小企業で事務員をしていた。早く帰れる日もあれば遅くなる日もある。今日は仕事が立て込んでいるのだろう。こういう日は十時過ぎにならないと帰ってこないのだ。


愛海はチラシの束から一枚取り出して、机の上に広げた。それは出前の一覧表だった。


「出前取ろうか?お母さんもお金使っていいって」


今日はパートで疲れたし、出前で済ませてしまおうと愛海は思っていた。だが、弟は違うものを望んでいた。


「……お姉ちゃんの料理がいい」


「ええ?今から作るの?夜遅くになっちゃうよ」


「僕も手伝うから。だから、お姉ちゃんのご飯が食べたい」


「裕一……」


愛海は過去の出来事を思い出した。彼女が中学生だった時のことである。その頃の愛海はまだ料理が上手ではなくて、失敗して焦がしてしまったことがあった。


だが、裕一は黒焦げの料理を頬いっぱいに詰め込んで、美味しい美味しいと言ってくれたのである。絶対に苦くてまずいはずなのに、不満一つこぼすことなく完食までしてみせたのだ。愛海はその時のことを強烈に覚えていた。裕一は姉の料理が大好きなのである。


(私の料理……そんなに食べたいんだ……)


愛海は弟から自分の手料理を求められて嬉しくなった。キッチンからエプロンを引っ掴んで、きゅっと背中の紐を縛る。弟の望みを叶えるために、姉はもう一仕事する決意を固めた。


「……は、張り切っちゃうぞ!」


愛海は気合を入れて台所に立つ。その隣に裕一が控え、姉の助太刀に入る。姉弟一緒にキッチンに立って料理をすることは、傘馬家で幾度となく繰り返されてきた日常の一コマだった。当初は愛海だけだったが、いつの日からか、裕一も姉と同じ場所に立って仕事を手伝うようになったのだ。


「裕一。お野菜切っちゃって」


「わかったよ、お姉ちゃん」


切るのは弟、味付けと調理は姉が担当していた。裕一は姉を待たせないように、手早く具材を切り終わらせておく。愛海も愛海で、裕一好みの味付けを分量を量ることなく実現してみせる。


何年間もやってきた動作で、まさに阿吽あうんの呼吸だった。父親のいない家庭で、母親が家事に時間をけない分、姉弟の一心同体の動きが磨かれてきたのだ。


(裕一とこうやってお料理するの……なんだか楽しいな)


愛海はちらりと弟の方を見た。確かに傘馬裕一は気弱で頼りない弟である。なかなか社会に馴染めないし、お話するのだって下手くそだ。それでも、彼が愛おしい弟であることに変わりは無かった。こうやって心を通わせながら、一緒に同じ作業をしている時、愛海は心が幸せになるのを感じた。



さて、家事も一通り終わった頃である。二人ともパジャマ姿で、スマホ片手にテレビをぼんやりと眺めていた。裕一も愛海も完全にリラックスしていた。


一瞬、世界が真っ白に光った。夜なのに、真昼ように部屋の中が明るくなったのである。その直後に、地鳴りのような重々しくて迫力のある音が響き、家を揺らした。近くで落雷したのである。


「あ、停電?」


照明もテレビもプツンと消えてしまった。家の中は完全な闇に満たされる。愛海はスマホのライトを点灯し、物置にあるブレーカーを調べに行く。やはり停電だった。ブレーカーが落ちていたのである。


(確かこのレバーを持ち上げればいいんだよね)


愛海は赤いレバーを持ち上げた。だが、反応しない。何度か上げたり下げたりしたが、家に明るさが戻ることはなかった。どうやら故障したらしい。この古い家は自然災害に弱いのだ。


「お姉ちゃん、ダメそう?」


「うん。漏電はしてないみたいだけど……故障かな。しょうがない。明日になったら修理業者さんを呼ぼう?今日は諦めるしかないね。お母さんもまだ帰って来ないし」


復旧を断念した二人は二階に上がった。二階は正方形のワンフロアで、姉弟の部屋として二人で共有している。入り口から見て、左が裕一のスペースで右が愛海のスペースである。姉弟で同じ部屋を使うとは、なんだか狭苦しい感じだが、他に部屋が無いのだから仕方がない。ついでに、母親の部屋は一階の奥にある。


愛海と裕一は丸テーブルを囲んで畳の上に腰を下ろした。スマホを机の上に置いて、ライト代わりにしている。二つの丸い光が低い天井を照らしていた。


愛海は小説を読んでいた。ブックカバーで隠されているのでタイトルはわからないが、おそらく最近流行っている恋愛小説だろうと裕一は予測した。彼は本なんて全く読まないが、愛海は読書家だった。寝る前に数ページ読むのが彼女の習慣だった。


裕一は頬杖しながら愛海を見ていた。彼女の視線は手元の本に注がれていて、小さな文字を追っていた。


(お姉ちゃん……)


好きな人がすぐそばに居るのに、裕一は何もできなかった。本当は愛海に自分の思いを全て伝えたかった。『好き』だと言ってしまいたかった。しかし、そのどれも彼には許されていなかった。


なぜなら、傘馬愛海が裕一の姉だからである。姉相手にそんなことはしてはならないのだ。


裕一は悔しい思いでいっぱいだった。行き場のない悔しさで満たされて、裕一はテーブルの下で拳を固く握った。彼の手は微かに震えていた。


そして、そのもどかしさが彼に普段させないような質問をさせた。


「……なんでお姉ちゃんって彼氏作らないの?」


「え?どうして?」


愛海は裕一の方を見た。彼の顔は微かに曇っているように感じられた。今朝、愛海に違和感を覚えさせた、あの暗い表情だった。愛海はすぐに視線を紙の上に戻した。


「整に言われたんだ。年頃の男女が誰かを好きにならないのはおかしいんだって」


「整ちゃんが?」


「うん。お姉ちゃんも高校三年生なんだし、そういう人が一人くらいいる方が普通だなって思ったんだ」


愛海は本を閉じた。そして、薄暗い天井を見つめて理由を探し始めた。どうして自分は彼氏を作らないのだろう?どうして男の人を好きにならなかったのだろう?散々考え抜いたあげくに、導き出した答えはひどく陳腐なものだった。


「……モテないから、私は」


「そ、そんなことないよ!お姉ちゃんは優しいし!美人だし!」


裕一は身を乗り出して姉に抗議した。それを聞いて愛海は照れてしまった。たとえ弟からであっても、そんな風に褒められたら嬉しいに決まっている。愛海は照れを誤魔化すかのように、謙遜のつもりで顔の前で手を振った。


「それは言い過ぎよ、裕一。ふふ。嬉しいけどね」


「でも……」


「それにしても彼氏さんかぁ。どうして作らなかったんだろう?まあ、ウチは色々と忙しいし、私にもその気はなかったし。そういう子だってたくさんいるよ?例えばみほちゃんなんかは、色恋よりも勉強の方が大事ってタイプだしね。整ちゃんの考えが偏ってるのよ」


「で、でもさ!もしお姉ちゃんが誰かから告白されたらどうするの?お姉ちゃんにその気が無くても、試しに付き合ってみようとか思ったりするんでしょ?」


「そ、そりゃあ……どうなんだろうね?今日の裕一なんか変よ?どうしたの?」


愛海には裕一の必死さの訳が理解できなかった。どうして今日の弟はこんなにも姉の恋愛事情について聞いて来るのだろう?いくら整に何か言われたにしても、ちょっと様子がおかしかった。


姉弟はお互いに沈黙した。窓を叩く激しい雨の音だけが、薄暗い部屋に鳴っていた。傘馬裕一と傘馬愛海は、不思議な緊張感に満たされて、何も言わずに見つめ合っていた。


「……じゃあ、僕がお姉ちゃんの彼氏になってもいい?」


「え?ゆうい……きゃあ!?」


裕一は愛海に飛び掛かった。丸テーブルは弾き飛ばされ、照明代わりにしていたスマホもひっくり返った。部屋は完全な暗闇に包まれた。


愛海は自分の上に何か重いものが乗っているのを感じた。間違いなく弟だった。彼は愛海の両肩を押さえつけて、身動きできないようにしていた。愛海の抵抗も虚しく、弟の凶行のなすがままになっていた。


「な、なにするのよ!?裕一!やめて!お姉ちゃんを離して!」


「……お姉ちゃん!好きだっ!」


愛海は頭が真っ白になった。今、裕一はなんと言ったのだろう?全然わからなかった。いや、わかりたくなかった。


「い、今……なんて……?」


「お姉ちゃんのことが好きなんだ!愛しているんだ!」


聞き間違いではなかった。幻聴でも無かった。今まさに愛海は聞いたのだ、実の弟から愛の告白を――。


「ゆ、ゆういち……んぶっ!?」


愛海は唇に何かが接触するのを感じた。それは裕一の唇だった。血の繋がった弟からもたらされた、不意のファーストキスだった。裕一の唇は冷たくて、乾燥していて、細かく震えていた。


唇を離された時、愛海は頬にぽたぽたと落ちるものを感じた。裕一は泣いていた。彼の心の雨が現実のものとなって、姉の頬を濡らしていたのである――。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ