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君の恋、雨の色  作者: 石戸龍一
第九章 君を待ち望む
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第一話 血の祝福と血の呪い

整はカーテンの隙間から差し込むオレンジ色の光で目を覚ました。外では、静かに燃える夕陽が地平線の彼方かなたに沈みかかっていた。


もう夕刻ゆうこくのようだ。昨晩は空が白み始める頃まで愛し合い、そのまま倒れるように熟睡してしまった。十時間以上はぶっ通しで寝ていたらしい。


(いてて……。頭が痛い……。何か飲も……)


ワイシャツを一枚だけ羽織った状態の整は冷蔵庫に向かい、中からピッチャーを取り出して、コップに注がずに直接飲んだ。


冷たい麦茶が喉の渇きをうるおしていく。軽く脱水症状だったのかもしれない。水分を摂取したら頭痛がすぐに治った。


(裕一?)


裕一の姿が見えなかった。整は家の中を歩き回って裕一を探し始めた。ベッドの上にも風呂場にもいないようだ。


裕一は玄関に座って、鞄の中を整理していた。寝起きの整とは違って、服も髪もしっかりと整えてあり、すぐ出発できるように準備してあった。


「帰るの?」


「うん。もう五日もここにいるから。いい加減帰らないと、お姉ちゃんが心配しちゃう」


「裕一……」


整が永続に続くことを願った二人だけの時間はもうすぐ終わろうとしていた。せっかく手の届いた裕一の背中が、また遠くに離れようとしている。


整は裕一の背中に名残惜しそうに抱き着いた。帰って欲しくなかった。ずっとここに居て欲しかった。もっと彼の優しさに触れていたかった。


「整、離してよ。僕は帰らないといけないんだ」


「わかってるよ……。でもさ、最後に一つだけお願いしていい?」


「お願い?」


整は唇を噛んだ。このお願いをしなければならないということ自体が悔しかった。でも、それなしでは裕一を帰せなかった。


「好きって言ってよ……。裕一からあたしに……」


「整……」


「あんたさ、一度もあたしに好きって言ってくれなかったよ?ベッドの上で愛し合ってる時だって、一度も……。だからお願い。好きって言って。そうすれば、あたしはこの腕を離せるからさ……」


だが、裕一は沈黙していた。整の胸はきゅっと切なくなった。整の愛する人は、どうしても『好き』と言ってくれなかった。固く口を閉ざしていた。


整は腕の力を強めた。そして叫んだ。


「お願いだから言ってよ!あたしのことが好きだって!整のことが好きだって!愛海さんよりもあたしの方が好きだって言いなさいよ!!傘馬裕一ッ!!」


「ご、ごめん!」


裕一は整を突き飛ばした。整は廊下の上に倒れ込み、うらめしそうな目で裕一を見上げた。彼女の目は怒りと悲しみで血走っていた。


「あ、あんたねぇ……!一体どれだけ愛海さんのことが好きなのよ!?あたしがずっとそばにいたのに、こんなにも裕一のことが好きなのに、なんであたしを選んでくれないのよ!?愛海さんは血の繋がったお姉ちゃんなのよ!?お姉ちゃんに恋するなんて馬鹿みたいじゃないの!そんなのおかしいじゃん!絶対におかしいよ!」


「整……。君はそんな風にお姉ちゃんのことを……」


整の憎しみに満ちた言葉の数々は、この世界の理不尽さを呪っていた。整は裕一と一緒に長い時を過ごし、彼の友人として親しくしてきた。他にライバルになりそうな女の子はいなかった。裕一は整を好きになってしかるべきだった。


だが、運命は整に残酷な結末を与えた。裕一の心を実の姉に釘付けにして、整から引き離してしまったのだ。


意味がわからなかった。幼馴染を差し置いて、姉弟きょうだいの間で恋愛関係が成立するなんて、世のことわりから外れていた。


それでも、これが現実だった。裕一は禁断の愛に奔走ほんそうし、整の腕から逃れようとしている。整は絶望的な無力感の中で、打ちひしがれるしかなかった。


「あたしは裕一のカノジョになりたい……。ただそれだけなの……。たったこれっぽっちの願いなのに、全然叶いやしないんだね……。あたし、もう何もかも嫌になってきた……」


整はゆっくりと立ち上がり、裕一に背中を見せた。自分だけの力では立っていられないらしく、壁に身体を寄り掛からせていた。


「ごめん。引き留めたあたしが馬鹿だった。早く愛海さんに元気な顔を見せてあげなよ」


「整……」


「もう帰ってよ。さっきまであんなに帰りたがってたくせに」


裕一はまだ躊躇ちゅうちょしていたが、逃げるようにして外に飛び出して行った。


整のあの寂しい背中が、まぶたの裏にこびりついていた。いたたまれない気持ちでいっぱいだった。本当に申し訳なかった。でも、引き返すつもりは無かった。


「ごめん……!ごめん……!ごめんよ……!整……!」


走っている最中さなか、自然と謝罪の言葉が漏れて来た。裕一は整の気持ちに応えられない自分のことを情けなく思っていた。


でも、自分を偽って整と恋愛関係を続けたとしても、それは整のためにも裕一のためにもならず、結果的にもっと辛いことになるのは目に見えていた。だって、裕一の心は整ではなく愛海の方を向いていたのだから。


その導きに従って、彼は走り続ける――。



数日ぶりに自宅に戻って来た裕一は、靴を荒っぽく脱ぎ捨てて、愛海の待つ台所へ駆け込んだ。彼女は夕飯の調理をしていた。


久しぶりの弟の帰還なのに、愛海は振り返ることすらせず、電気のついてない薄暗い空間で裕一に背中を見せ続けていた。


「た、ただいま。お姉ちゃん」


「おかえり」


愛海の声は小さくて、鍋が煮える音に負けてしまいそうだった。彼女の冷たい態度と感情のこもってない声から、姉は怒っているのだろうと裕一は思った。


それもそのはずだった。裕一は一日どころか五日も愛海のもとから逃げ続けたのである。


姉はどんな心境で弟を待っていただろうか?想像するだけでも胸が痛んだ。きっと今日こそは家に戻るはずだと期待を抱きつつ、毎日二人分の食事を作り、夜遅くまで裕一の帰りを待っていたに違いなかった。


暗い部屋と冷えた食事、そして張り裂けそうな愛海の心――。


「お姉ちゃん……。ごめんなさい……」


「別にいいのよ。整ちゃんのところにいたんでしょう?なら、安心よ。あの子なら裕一のことを任せられるから」


「でも……!」


「裕一も楽しかったよね?整ちゃんの家にお泊りするなんて、本当に久しぶりのことだもの。ゲームをやったり、夜更かししたり、きっと色んなことをして遊んだのよね。それに……」


愛海は言葉に詰まった。お玉を持って鍋をかき回している手が止まった。


「裕一。整ちゃんのこと……抱いたでしょ?」


「お姉ちゃん……!?」


「隠したってわかるよ。だって、裕一から整ちゃんの匂いがするんだもん。でもね、私、怒って無いよ?それでいいと思う。やっぱり、姉弟きょうだいで愛し合うなんておかしいのよ。裕一と整ちゃんは幼馴染。理想的なカップルじゃないの。これで全部良かったのよ」


愛海は淡々と喋り続けていた。裕一の方には顔を向けず、まるでロボットのように抑揚よくようの無い喋り方をしていた。


今の愛海には心が無かった。より正確に言えば、心が表に出ないように無理やり抑えつけていた。そうでもしなければ、愛海はすぐに裕一の愛を求めてしまいそうになるから。そしてそれは、整のために自ら禁じたことだった。


「僕は整も好きだ……。大切な友人だと思ってるよ。でも、一番好きなのはお姉ちゃんなんだ!だから、ここに戻って来たんだ!」


「裕一……!?」


愛海は振り返って、今日初めて顔を見せた。彼女の顔はやつれ切っていて、目は微かに泣きらしていた。裕一が居なかったことが、どれだけ姉の心をむしばんだかを完全に証明していた。


「お姉ちゃん!」


「裕一!」


姉弟きょうだいは抱き締め合った。たった数日の別離べつりに過ぎなかったが、何年も会っていなかったように、二人はお互いの身体を強く切なく抱擁ほうようした。


たとえ鍋が沸騰ふっとうしようとも関係なかった。愛する人はこの世界の何よりも優先されるべきものだった。


「お姉ちゃん……!うぅ……!好きだ、大好きだよ……!」


「裕一……!私もよ……!」


それは自然の成り行きで、ほぼ無意識のうちに行われた。姉弟きょうだいは顔をゆっくりと近づけてキスしようとした。愛海は目をつむり、愛の奔流ほんりゅうに身を任せた。


その刹那せつな、整の言葉がフラッシュバックした。


『裕一をこれ以上苦しめないで!』


禁断の愛の代償とは心の傷だった。近親者同士の愛の営みは、遅効性の毒のように心を徐々に侵食し、いずれは完全に精神を破壊する。


『ずっと昔から裕一のことが好きだったんだもん!』


整の心からの叫びを愛海は意識の奥深いところに刻んでいた。雨野整は裕一のことが好きなのに、彼と結ばれる機会をずっと愛海に奪われてきた。それは今も変わらない。


(整ちゃん……!私、またあなたから裕一を奪おうとして……!)


唇が接触する直前に、愛海は裕一を押し止めて、彼から離れた。調理台の方に身体を向けて、鍋を温めていたコンロの火のスイッチを切る。沸騰ふっとうしてカタカタと鳴っていた鍋はしんと静まり返った。


「ごめんね……。でも、やっぱり弟と恋愛なんてできないの。整ちゃんのためにならないのよ」


「でも!僕は整よりもお姉ちゃんの方が……!」


「そんなこと言っちゃダメ!!!ダメなのよぉ!!」


愛海の絶叫が裕一を黙らせた。裕一は姉から本気で拒絶されて、ひどくショックを受けていた。


愛海は彼に近寄って、その可愛らしい頭を愛撫あいぶしてあげた。それは慰めだった。恋人になってあげられない代わりに、これで我慢して欲しいという姉からのメッセージだった。


「私も裕一も愛し合ってるのに、姉弟きょうだいだから許されない……。私たちが出会えたのも、恋人になれたのも、姉弟きょうだいとして生を受けたから……。でも、姉弟きょうだいだから、私たちは一つになれない……。こんなのおかしいよね……」


傘馬姉弟かさばきょうだいは生まれた時から一緒だった。他のどんな人よりも長く、一緒の時を過ごしてきた。共に笑い、共に支え合い、共に手を取り合ってきた。


そして、裕一は愛海を好きになり、愛海も裕一を好きになった。二人は姉弟きょうだいだからこそ恋人になれたのである。


だが、同時にそれは二人を引き裂く原因ともなった。この世界のルールとして、兄弟姉妹きょうだいが愛し合うことも、結ばれることも、決して許されない禁忌タブーなのである。


もし神というものが存在するならば、これは神の悪趣味なイタズラだった。神は裕一と愛海を姉弟きょうだいとしてこの世に生みだし、お互いに愛し合うように導いた。だが、その姉弟きょうだいという関係性が、今度は二人の運命を引き裂くことになるのである。


これは姉弟きょうだいという血の関係がもたらす、祝福と呪いだった。二人は姉弟きょうだいであるがゆえに愛の祝福を受け、姉弟きょうだいであるがゆえに別離べつりの罰を受けるのである。


「裕一……!どうして私たちは普通に愛し合えないんだろうね……!他の人たちには許されるのに、どうして私たちには許されないんだろうね……!こんなのってないよね……!ひどいよね……!許せないよね……!」


愛海は裕一を慰めながら、この世界とそれを創った存在を憎悪した。愛し合う者同士が愛し合えないこの世界の運命を、果てしなくうらんだ。


愛海は運命の試練しれんに直面していた。それを乗り越える方法は、裕一にも愛海にもまだわからなかった。

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