第五話 あたしを見ないで
整はほぼ毎日一人で夕飯を食べていた。父と母は自分の娘にさほど興味が無いらしく、家族みんなで食事を取ることにも拘ってないので、整にお金だけ渡して好きなものを買って食べるようにと言いつけていた。
だが、今日は珍しく食卓に父母が揃っていた。どういう気まぐれかわからないが、整は嫌な気持ちはしなかった。
白髪混じりの頭で、眼鏡をかけているのが整の父親である。口を堅く結んでいて、気難しそうな顔をしている。そして、小柄で痩せているのが整の母親である。滅多に喋ることはなく、いつも夫の聞き役に徹している。
そしてもう一つ、普段の雨野家では見られないことが起きていた。幼馴染である傘馬裕一が食卓についているのである。
裕一自身は愛海の待つ自宅に帰ろうとしていたが、整が『居づらいでしょ?』と説得して、半ば無理やり家に連れて来たのだ。
裕一は整の両親を前にして、少し萎縮していた。
「あの、また泊まりに来てしまってすみません。。それにお食事まで……」
「別にいいんだよ。裕一くんのご家族とは長い付き合いだからね。私の子どもみたいなものさ。お前もそう思うだろう?」
「ええ」
整の母の素っ気ないドライな返事に慣れていない裕一は、夫婦の仲が悪いのかと勘違いしてドキッとしてしまった。だが、これが雨野夫妻の通常通りのコミュニケーションなのである。母は父に対して、『ええ』とか『はぁ』とかしか言わないのだ。
「それにしても、整も嬉しいだろう?裕一くんとお泊りなんて久しぶりじゃないか?昔はよくやっていたな」
「あ、あたしは別に嬉しくなんかないわよ。こいつがどうしても『泊まりたい~』ってうるさかったから、しょうがなく泊めてあげただけだし」
「僕はそんなこと言ってないぞ。泊るように言ったのは整じゃないか。むしろお前の方がしつこかっただろ」
「ちょ、ちょっと!親の前でそういうこと言わないでよ!それじゃあ、あたしが我儘言ったみたいじゃない!恥ずかしいからやめてよ!」
「はっはっは。整は昔から変わらないなぁ。裕一くんが絡むといつも素直じゃなくなる。正直に裕一くんと泊まりたかったと言えばいいのに」
「も、もう!お父さんも恥ずかしくなるようなこと言わないでよ!」
雨野家の食卓はどっと笑いに包まれた。和やかな家族団欒に参加して、裕一は居心地の良さを感じていた。
整の両親は裕一に優しく接してくれて、彼は家族の一員のように大事にされていた。ここには何一つ不自由が無かった。裕一は気を遣うことなく、素の状態でいられた。
だが、愛海がいなかった。彼女が居なければ、どれだけ整の両親が温かくしてくれても意味が無かった。
(お姉ちゃん……。きっと家で一人で寂しくご飯を食べてるんだろうな……。僕、戻らなきゃ。お姉ちゃんが僕を待ってる)
一刻も早く愛海のもとに帰らなくてはならなかった。急なことで失礼かもしれないけれども、裕一にはここを立ち去るべき理由があった。愛する人が家で待っているのだ。
裕一は箸を置いて、立ち上がろうとした。しかし、立てなかった。
雨野整が裕一の手を握っていたのである。親からは見えないテーブルの下で、整は裕一を逃がすまいと彼の手を強く握っていた。
整はそっぽを向いていたが、微かに頬が赤くなっていた。彼女のメッセージは明確だった。裕一を帰すつもりは微塵も無いらしい。
食事を終えて、整はベッドの上で仰向けになっていた。裕一はお風呂に入っている。
整は今日ほど人生が楽しいと思ったことは無かった。ずっと好きだった裕一が家にいて、夜になっても一緒にいられる。蜜のように甘い時間だった。
(あたし、幸せだなぁ。裕一とこうやって一緒に過ごせるなんて、まるで夢みたい。ちっちゃな頃からずっと夢見てたんだ。裕一と結婚して、毎日毎日幸せに暮らすの。誰にも邪魔されずに、二人で同じ時を過ごす。別に結婚したわけじゃないけど、でも、あたしは裕一と一緒にいる。夢じゃなくて、現実の世界で……)
整は棚の奥にしまってある小学校の卒業文集に目を留めた。あの文集に隠した思いは、少しずつ現実のものになろうとしていた。まだ誰にも心を打ち明けられなかった頃と比べると雲泥の差である。
思いを伝えて、愛を確かめ合って、共に暮らすこと――。少しずつ、でも確かに、実現しつつあった。
(ふふ。あの祈りが効いたのかな?運命の女神様が微笑んでくれたのかも……)
枕を腹の上で抱いて、整は嬉しそうに足をバタバタとさせた。あの思い出の場所でした孤独な祈りが、もしかしたら効いたのかもしれなかった。
今まで全く報いてくれなかったくせに、急に微笑むもんだからびっくりしちゃうなと整は思った。
(裕一……。好きだよ、本当に好き……。このままずっとあたしの家にいればいいよ……。帰らないで……。お願いだから、あたしのそばにずっといてよ……)
整は幸せの絶頂の中で、裕一への想いを確かめていた。中学生の頃も、小学生の頃も、思い返せば、ずっと裕一のことが好きだったんだなと整は再認識していた。いつどんな時でも、裕一への想いが通奏低音として響いていた。
(小学生の頃に、ノリで好きって言っちゃえばよかったのに。冗談っぽく、軽い感じでさ。なのにずっとやせ我慢して、気がついたら十六歳だよ?一体何年片思いやってんのよ。本当に馬鹿みたい……)
好きだけど、言い出せなくて、我慢するしかなくて、時間だけが虚しく過ぎて行く。それが整のこれまでの人生だった。
だが、今はもう違うのだ。裕一がそばにいる。夢は叶った。これまで無駄にしてきた時間を取り戻さなくては――。
整は身体を起こして、壁に背を預けた。反対側には整の勉強机があった。小学生の時に買ってもらったもので、今も現役である。
机には三つ引き出しがついていて、最上部の引き出しは鍵付きだった。あそこには何を入れていただろうか?
「……ッ!?」
少女は電撃に打たれたかのように飛び上がった。滝のような汗が一瞬で出て来た。整は胸を抑えて、ベッドの上にうつ伏せに倒れ込んだ。
(あ、あたし、思い出さないようにしてたのにどうして……?あたしは忘れたままでいたいのよ。そうじゃないと、あたし、裕一のことを正面から愛せなくなる……)
がちゃり。扉が開いた。裕一がタオルで頭を拭きながら部屋に入って来た。
「整?」
裕一は整の様子がおかしいことに気がついた。彼女はひどく怯えていて、顔も真っ青だった。整は勉強机を見つめて、まるでそこに幽霊でもいるんじゃないかと思うくらい怖がっていた。
「どうしたの?」
「な、なんでもないわよ。平気……」
裕一は整の異変の理由がわからないまま、なんとなく棚に飾ってある雑貨を鑑賞し始めた。フィギュア、置物、時計などが特にまとまりもなく並べてある。大雑把な整らしい並べ方だなと裕一は思った。
(ピラミッドの模型、ミニカー、エイリアンのおもちゃ、小さな食品サンプルみたいなやつ、お笑い芸人のフィギュア……。本当に何にも考えずに集めたんだな)
統一感のない雑多なラインナップだった。手当たり次第集めたことがわかる品揃えである。
「それにしても、整もよくこんなにたくさん集めたね。こういうおもちゃとか雑貨とか、買い集めるの趣味だもんね」
「ま、まあね。ガチャポンでゲットしたやつとか、ゲーセンの景品とか、適当にそこに置いてあるの。ただのガラクタだけどね」
裕一はカエルの指人形に興味を持った。あまり可愛らしいものに興味が無い整にしては、キュートでポップなおもちゃを持っているなと思った。これは貰い物かもしれない。整がお金を払って買うような物とは思えなかった。
「これはどこで買ったの?近所のおもちゃ屋?それとも、これもやっぱりゲーセンの景品?」
「それは……たぶんあんたの家からパクッてきたやつだと思うわ。ごめん。返すの忘れてた」
まさか盗品を堂々と展示しているとは思ってもみなかった。整がこんな可愛いおもちゃを持ってるなんておかしいと疑ったのは正解だったわけだ。
裕一はしっかりと自分のものを回収し、ポケットにしまいこんだ。
「わかった。さっきから様子が変なのは、このカエルの指人形のことを思い出したからでしょ?いくら整でもちょっとは良心が残ってたかな?盗んだことを今更申し訳なく思ってたんでしょ?ねえ、整。僕に言うことがあるんじゃない?」
普段から整にからかわれている分、裕一は復讐のつもりで、なるべく嫌味ったらしく、整が怒るような言い方で挑発した。
しかし、整はベッドに座り込んだまま、呆然とした様子で虚空を見つめていた。まるで、裕一の言っていることが少しも耳に入っていないようだった。
「整?どうしたの?さっきから変だよ」
「裕一……。あんた、神様って信じてる?」
「随分と急な質問だね。うーん……。よくわからないな。神社でお参りはするけど、信じてるかって言われると難しいよ」
裕一の答えはいかにも平凡で、一般的な日本人なら誰でもそう答えそうだった。他方、整の考えは裕一と全然違っていた。
「あたしは信じてる……。あたしたちを雲の上から見ている神様がいることを……。その人からすれば、あたしたちのことは全部お見通しで、心の中のことだって隠せない……」
整の声は途切れ途切れで力が無く、まるで誰かに喋らされているみたいで、なんだか不気味だった。それに、彼女が喋っている内容もいまいち理解できなかった。
裕一は整のこんな不自然な姿を見たことが無かった。いつもの雨野整はもっと自信家で、こっちが怯んでしまうくらいハキハキと元気に喋る子のはずだった。
「裕一……。あたしのこと、隠してよ……。あんたの全てで、あたしを見えないようにして……」
整は扉の鍵を閉めて部屋の電気を消した。彼女は裕一を抱き締めて、そのまま絡みつくようにして押し倒した。
整の身体は小刻みに震えていた。言葉に出さなくても、その肢体のわななきだけで、どれだけ彼女が怯えているのかがわかった。
「やっぱり今日の整はおかしいよ。こんなの、いつもの整じゃない。君はそんなに怖がりじゃなかったはずだ。一体何を怖がっているの?」
「裕一はあたしのこと全然わかってないのね……。あたしは怖がりだよ……。世界で一番の臆病者……」
「整……」
整は裕一の胸に耳を当てた。彼女は裕一の鼓動を求めていた。彼の心臓の音を聞いていると、怯えた気持ちも静まって来るような気がした。
整は力の入っていない弱々しい声で裕一に尋ねた。
「あたしがとんでもなく悪い人だったら、裕一はあたしのこと嫌いになる?」
「なんでそんなこと聞くんだよ……」
「いいから答えてよ。どっちなの?嫌いになるの?それとも、まだ好きでいてくれるの……?」
「……整には色々と酷いことをされてきたからね。今更嫌いになんかならないよ。整が悪人だってことはとっくのとうに知ってるから」
「まぜっかえさないでよ、馬鹿……。あたしは真剣に聞いてるのに……」
整は身体を起こして、たとえ彼女が悪人であっても嫌いにならないでいてくれるという、優しい裕一の唇に軽くキスをした。
裕一のその言葉だけで十分だった。嘘でも構わなかった。冗談でも構わなかった。ただ、『嫌いにならない』と言ってくれただけで、整の心は救われていた。




