第三話 姉弟の海
打ち寄せては引いていく波のリズムを見ていると、いよいよ本当に海に来たのだという実感が裕一を満たしていた。砂の上に二本の足で立ち、果てしなく続く水平線を確かに見ている。夢でも無ければ幻でもない。
裕一は手で海を掬ってみた。海水は意外にぬるくて、小さな気泡が裕一の手を覆った。
「これが海か……」
「何が『これが海か』よ。あんた、海を見るのは初めてなの?」
そばに整が立っていた。彼女はスポーティーなハイウェストの黒の水着を着用していた。整らしいスタイリッシュなチョイスである。整の引き締まった肢体と均整の取れたボディラインが強調されていた。
「あれ?お姉ちゃんは?」
「もうすぐ来ると思うけど……。ほら、あれ。あのてるてる坊主みたいなやつよ」
身体に長いタオルを巻きつけた”てるてる愛海”がやって来た。常にビクビクと怯えており、何だか挙動不審だった。
「愛海さん、いい加減観念したら?その状態で一日過ごすつもり?」
「でも、整ちゃん……。恥ずかしいよぉ……」
愛海は周りの人の視線がある中で、自分の水着姿を晒すことを躊躇していた。どうやらよほど大胆な水着を選んだらしい。
整は勢いよく地面を蹴って、ダッシュで愛海の背後に回った。力ずくで愛海をこの場にふさわしい姿にするつもりなのだ。
「くぉら!いつまで恥ずかしがってるつもりなのよ!?その魅惑のボディを弟に見せてあげなさい!」
「ひゃう!?整ちゃん!?」
ばさっ。呆気なく愛海はタオルを剥ぎ取られてしまった。
そこに現れたのは、一つの芸術品とも言っていい程の魅惑的な女体だった。ふっくらとしていて柔らかそうで、どこまでも優しく包んでくれそうな包容力を兼ね備えている。
純白のビキニは太陽光を強く反射し、愛海の肉体を白く輝かせていた。だが、このほぼ紐でしかない装身具は愛海の巨大な胸を支えるにはあまりにも頼りなさげだった。今にも豊満な胸がそこから飛び出してきそうである。
でかい、あまりにもでかい――。普段は衣服に守られている巨大な物体は、今日はわずかな布にのみ覆われて、裕一の前に晒されていた。その存在感は圧倒的であり、妖艶な魔力でもって彼の視線を釘付けにしていた。
感動的なほどのボリューム感に、裕一は一人の男として素直に興奮していた。思わず生唾をごっくんしてしまう。
「ゆ、裕一……。お姉ちゃん、変じゃない?」
「へ、へ、変というか……凄いというか……。あはは……」
裕一も愛海も顔を真っ赤にして見つめ合っていた。二人とも砂浜の上で見事に固まっており、そのまま日が暮れるまで棒立ちしていそうだった。
しびれを切らした整は二人に水をかけた。ばしゃばしゃ。
「ひゃあ!?つ、冷たいよ!」
「整!いきなりなにするんだ!」
「海に来たのに水の中に入らなくてどーすんのよ!?ほら、愛海さんも裕一も早くこっちに来なさい!来るつもりがないなら……これでも食らえ!」
整はさらに水をぶっかけた。これで吹っ切れたのか、姉弟は海の中に勢いよく突っ込んで、お互いに水の掛け合いを始めた。
「そら!裕一!やったわね!えい!」
「わぶぶ!?お姉ちゃんこそやったな!反撃だ!そりゃ!」
久しぶりの海に、二人ともテンションが上がっているようである。整は楽しそうな姉弟を見届けると、一人で海から出て行った。二人の時間を邪魔してはいけないと思ったのだ。
「ん?これ……」
愛海の帽子が落ちていた。染み一つ無い純白の帽子である。整はフリスビーを投げる要領で、帽子を愛海にパスした。
「愛海さん!忘れ物だよ!」
「ありがとう!整ちゃん!」
再び、姉弟の水遊びが始まった。それは傘馬姉弟で完結した世界であり、整の入り込む余地は無さそうだった。
整は浮き輪を担いで、姉弟が遊んでいるところから少し離れた場所まで移動し、ゆったりと海の中に進みだした。足がつかなくなる深さのところまで行き、大きい浮き輪に身体を乗せて、あとは波の動くままに任せた。
整の身体はどんどん沖の方に流されていく。浅瀬で遊ぶ姉弟の姿は親指サイズまで小さくなった。
整は空を見上げた。海から見る太陽は地上で見るよりも強く輝いていて、まるで銀色の光沢を帯びているようだった。整は空に向かって手をかざして、指の間から漏れる光に目を細めた。
(あたし、何やってんだろ……)
少女の心はひどく沈んでいた。せっかく裕一と海に来れたのに、姉弟の幸せな時間に水を差さないために、整は自分から一人ぼっちになっていた。
これでは彼と恋仲になるなんて絶対に無理だった。今だって、裕一は愛海のことだけを見て、整の方に振り向く気配さえ見せない。
(今年はやっぱり無理なのかな……。愛海さんが社会人になって、裕一のシスコン病が治らないとどうにもならないのよ。来年……。あたしの恋は来年から……)
裕一のそばに愛海がいつもいるから、裕一は整の存在に気づかない。この構造が壊れるには、愛海の卒業を待たねばならなかった。まだ半年以上の時間がある。気の遠くなるような待ち時間だった。
だが、やはり姉弟の仲睦まじい姿を見ていると、整も嬉しくなった。裕一も愛海も本当に楽しそうにはしゃいでいた。あんな二人を見るのは久しぶりだった。
(海に来てよかった……。なんだかあたしまで嬉しくなっちゃうな。世界でもなかなか居ないんじゃない?あんなに仲の良い兄弟姉妹はさ……)
整は一度砂浜の方に戻ることした。浮き輪を脇に挟みつつ、華麗なクロールであっという間に浅瀬まで戻って来た。
喉が渇いたので、自動販売機で飲み物を買って飲んだ。だが、整は向こうからよく知っている人物がやって来るのに気がついた。
「……ぶぅ!?涼風唯織と天堂あかり!?なんであいつらがここにいるのよ!?」
ジュースを噴き出してしまった。なんたる偶然なんだろう。同じ場所、同じ時間帯に、三人の少女たちは集結したのだった。
「あれって……雨野さん?」
「はぅわ!?なんで黒猫がここにいるんですぅ!?」
向こう側も整に気がついたようだ。唯織は胸元にフリルをあしらったクリーム色の水着、あかりは学校指定のスクール水着を着用していた。
「誰が黒猫よっ!ってか、それはあたしのセリフ!なんであんたたちがここにいるわけ!?」
「ふっふっふ。放送部の秘密の自主トレーニングのために来たんですぅ。まあ、帰宅部のお前にはわからん話だと思いますが」
でたらめを言うあかりに対して、すかさず唯織がツッコミを入れる。
「……課題に嫌気がさして、気分転換に海に行きたいと騒ぎ出したんですよ。あかりが、昨日、急に」
唯織は最後の言葉を一言ずつ区切って言った。どうやらあかりの我儘に付き合わされたらしい。
他方、整はあかりに親近感を覚えていた。勉強が嫌で海に行きたくなったのは彼女も同じだったからだ。
「それにしても……」
唯織は整の背後や周囲をキョロキョロと見回し始めた。あたかも、誰かを探しているようだった。
「雨野さんはどうして海に?一人なわけないですよね?もしかして、裕一くんと一緒なんですか?」
(やば……!裕一がここにいるってばれちゃう……!姉弟のせっかくの楽しい時間を、こいつらなんかに邪魔されてたまるかっつーの!)
整は裕一と愛海がいる方向に立って唯織の視線をブロックしつつ、それとは逆方向の開けた場所を指差した。その先にはビーチバレーのコートがあった。ちゃんとネットも張ってある。
「あ、あそこのコートで勝負しようよ!ビーチバレーでさ!いや~!さっきからずっと対戦相手を探してたんだよね~!」
「勝負ですか?」
「そうそう!この前のテニスの続きってことで!」
だが、唯織はいまいち乗り気ではなかった。この前は勘違いではあったものの、整の彼氏である裕一を奪うという確固とした目的があった。だが、今回は戦う意味が特にないのだ。
それに加えて、整の様子がおかしいことも気になっていた。ソワソワしているし、目も泳いでいる。
あかりは見るからに怪しい整にズバッと切り込んだ。
「黒猫、お前何か隠していませんかぁ?ビーチバレーをするために、わざわざ一人で海に来ますかねぇ?やっぱり、鼠男と一緒に遊ぶためにここに来たんじゃないんですかぁ?」
あかりは小さな体を俊敏に動かして、整が自分の身体で隠そうとしているものを盗み見しようとした。整は追いつめられていた。裕一と愛海が見つかるのも時間の問題だった。
(このチビっ!ウロチョロするんじゃないわよ!えーと、えーと!こういう時はどうすれば……。そうだ!何か適当なことを言って、こいつらをやる気にさせればいいのよ!)
整は唯織の方を見た。彼女もあかりと同様に疑っている様子で、背伸びして整の後ろを眺めようとしていた。
「す、涼風さん!あんたが勝ったら裕一との仲を取り持ってあげる!この条件ならどう?」
「ゆ、裕一くんと!?本当ですか!?」
「もちろん!なんつっても、あたしは裕一の幼馴染なんだからさ!それくらい楽勝ってわけよ!ビーチバレー勝負、受けてくれる?」
「ぜひとも受けさせていただきますっ!」
唯織は手をパンと鳴らして、気合を入れた。今度こそ勝利を手にして、裕一との距離を縮めてやろうと意気込んでいる。
(ふぅ……。よかった。これであの二人が邪魔されることは無くなったわね……)
窮地を脱して、ほっと胸をなでおろす整であった。だが、これからが本番である。打倒雨野整を掲げて、あかりはメラメラと燃えていた。
「ぬおー!これはリベンジマッチですねぇ!いおりん!あいつをズタボロにぶっ倒してください!あかりも熱を入れて応援しますからねぇ!!」
「ありがとうございます、あかり!では、雨野さん!さっそくコートに移動しましょう!」
唯織とあかりはコートのある方向へ走り出す。整は後ろを振り返った。傘馬姉弟はこちらの騒動に全く気がつかずに、二人だけの時間を満喫していた。
(裕一、愛海さん。あんたたちの思い出はあたしが守ったよ?これは貸しなんだからね……)
姉弟の無事を確認して安堵した整は、唯織たちが待つコートを目指して駆けて行った。
知らぬ間に危機を切り抜けていた裕一と愛海は、相変わらず浅瀬で遊んでいた。水を掛け合ったり、水の中から珍しい形をした石を拾ったりして、二人だけの楽しい時間を過ごしていた。
整が望んだ通り、裕一と愛海は姉弟として夏休みの思い出を作っていた。だが、二人は恋人としてもひと夏の思い出を作ろうとしていた。
裕一は恋人の水着姿に感動していた。本当に綺麗だったし、女性として魅力的だった。愛海も愛海で、裕一の視線を独り占めできて、確かな喜びを感じていた。とどのつまり、二人はお互いのことを男と女として意識していたのだ。
ふと、裕一は砂浜の端っこの方を見た。黒くて大きな岩の塊が砂浜を区切るようにして陣取っている。あの岩の裏側に回れば、他の人の視線から逃れることができるだろう。
裕一は岩の方を見ながら、姉に語り掛けた。
「お姉ちゃん。あそこ、人いないよ……」
愛海は弟が見ているのと同じ方角に顔を向けて、一度だけこくんと頷いた。
「うん、わかった……。私も裕一と同じこと考えてた……」




