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君の恋、雨の色  作者: 石戸龍一
第七章 激流する思い
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第二話 母は託す

愛海と水着を買いに行った日から数日前のことである。


退屈な熱海あたみ旅行から帰って来たばかりの整は、さっそく近所のおばさんに頼まれて、ゴールデンレトリバーを散歩に連れ出していた。日中は暑いので、夜のお出かけである。


月光を受けて、ワン子の毛は小金色に光っていた。ワン子は口から長い舌を垂らしながら、はっはっとあえいでいる。


近所の公園に差し掛かったところで、整はある人影に気がついた。もしかしてまた涼風唯織かと思って身構えたが、よく見ると全然違うシルエットだった。


大人の女性で、スーツ姿で、浅葱色あさぎいろの髪の毛を一つに結っている。間違いなく傘馬礼子だった。裕一の母は自動販売機の隣のベンチに座って、ゆったりと休んでいる。


「礼子さん。こんばんは」


「お、整か。ありゃ?その子はなに?整のペット?」


「違うよ。この子はね、近所のおばさんからあずかってるのよ。でも、あたしオリジナルの名前をつけてるんだ。なんだと思う?当ててみてよ?」


礼子は少し沈黙した後、自信たっぷりに答えた。


「……犬だから、ワン子とかでしょ?」


「イイッ!?なんでわかったのよ!?」


「馬鹿だねぇ。整のネーミングセンスなんてこっちはお見通しなのさ。ったく、そんなダサい名前じゃこの子が可哀そうだよ?トシコとかハナコとか、もっと普通の名前を付けてあげなよ?」


「それはそれで昭和臭過ぎるって……」


整は彼女の隣に座った。礼子は缶コーヒーをグビグビと飲んでいる。


「もう九時だよ?こんな遅い時間まで仕事?大変じゃない?」


「まあ、色々と立て込んでてね。本当は定時で上がりたいけど、そうはいかないのが社会人ってもんなの。上司の言うこと聞いて、こんな夜まで会社に居なきゃいけないわけ。あんたも大人になったらわかるよ」


「わかりたくないわよ、そんなの」


礼子のような社会人には絶対になりたくないと、整はぶすっとした顔で考えていた。高校一年生の遊び盛りの少女は、礼子の仕事人間っぷりを見るとちょっと嫌な気持ちになった。


これからもずっと遊んでいたいのに、将来は礼子のように夜遅くまで働かないといけないのかと思うと気が重くなるのである。


「でさ、裕一は元気にやってる?学校だとどんな感じなの?」


「ん?な~んにも進歩してないわよ?相変わらずあたしと愛海さん以外には心を閉ざしてるし、友達もできないみたい。あの事件があってから、あいつはずっとあんな感じだね。小学校の時も中学校の時も一人ぼっちでさ。母親としては頭が痛いって感じ?」


「馬鹿。整に心配されるほど落ちぶれちゃいないよ」


礼子は残りのコーヒーを一気に飲み干した。それを見て、『おばさんのくせに良い飲みっぷりだね』と皮肉でも言いたくなったが、これ以上からかうと礼子の拳骨げんこつが怖いので、整は口を閉ざしていた。


「でも、いつも裕一のことを見ててくれてありがとうね。愛海は学年が違うから、どうしても面倒見れないところもあるからさ」


「ま、裕一のフォローをするのは慣れてますから。この雨野整ちゃんにどーんとお任せあれ。ふふっ」


自信満々に胸を叩く整を見て、礼子は微笑んだ。だが、彼女にはまだ別の悩みがあった。


「整。本当に悪いんだけど、もう一つお願いしたいことがあるんだ」


「お願い?裕一以外に?なに?」


礼子は真面目な顔つきになって整の方を振り向いた。そんなシリアスな顔で一体何を言うつもりなのかと思い、整は緊張して唾を飲みこんだ。


「できたら愛海も支えて欲しいんだ……」


「愛海さん?そんな必要ないよ。愛海さんはあたしよりもずっとしっかりしてるし、むしろあたしが迷惑かけてるくらいだもん」


整は礼子が冗談を言っているのかと思った。愛海は料理が上手で、家事もこなせて、誰よりも優しい憧れのお姉さんだった。そんな彼女に、自分のようないい加減なやつのサポートなんて不要だと整は考えていた。


だが、礼子は本気だった。


「あの子も裕一と同じでね、もろいというか、不安定なところがあるんだよ。この前だって、あたし……あの子にビンタされちゃったんだ」


「え?愛海さんがビンタ?」


礼子は頬をさすり、この前発生した愛海との喧嘩について語り始めた。


「あれはあたしが全部悪いんだ。ちょっと酔い過ぎてて、裕一に変な悪戯しちゃったのさ。そうしたら、あの子ったら物凄く怒って、あたしの顔にビンタしてさ、こう怒鳴ったんだ。『裕一に触らないで』って……」


あのビンタ事件は母の胸に深く刻まれていた。礼子は泥酔して帰宅し、その後も飲み続け、出来心から裕一にちょっかいをかけた。それを見て激怒した愛海は、実の母に暴力を振るったのである。


礼子はあのことは覚えていないと愛海に言ったが、実は嘘だった。母は何もかも鮮明に覚えていたのだ。


「あの子、あたしに裕一を横取りされたって思ってるのさ。愛海はずっと裕一のことを世話してきて、それこそ、あの子のお母さん代わりって言ってもいいくらいにさ。そんな大事な裕一を、あたしがベタベタ触ったのが気に入らなかったんだよ。たぶん、あれは嫉妬なんだと思う。裕一に触って良いのは自分だけって思ってるんだよ」


「し、嫉妬って……!だって、親子なんだよ?血の繋がった母親相手にヤキモチするわけないじゃん!」


「普通の親子ならそうなんだけどね……。でもさ、裕一に対する愛海の愛情って凄いんだと思う。あたしや整が想像するよりも、ずっと深いんだよ、あの子の愛は……」


礼子はベンチから立ち上がり、空の缶をカゴの中に投げ捨てた。からんと音と鳴った。


「整は知らないかもしれないけど、愛海ってずっとお父さんっ子だったんだ。あたしが裕一の世話で構ってられない分、あの子はお父さんと一緒に遊んでたんだよ。でも、あんたの知っている通り、あたしはあの人と別れた。大好きなお父さんを失って寂しくなった愛海は、きっと裕一に愛情を注ぐことでその寂しさを解消しようとしてるんだよ。あたしはそう考えてる」


「愛海さんはそんなにお父さんのことを……。あたし、全然知らなかった……」


「だから、裕一に対しては人一倍敏感になってて、あたしが変なことしたからカッとなったんだと思う。愛海は表面上は気丈きじょうに振る舞ってるけど、あたしにはわかるんだ。あの子もあの子で心がもろいんだよ。何かすがるものがなきゃ生きていけないのさ。今の愛海は弟が心の支えなんだよ……」


整は今晩のようにワン子と散歩している時、愛海と偶然出会った時のことを思い出していた。ビンタ事件はまさにあの日に起こっていたのだ。


『実は、お母さんと喧嘩しちゃったの』


整に対しては、酔った母と喧嘩したとしか言わなかった。だがその裏には、傘馬家独特の事情が隠されていた。整にはとうてい理解できない母に対する嫉妬感情、そして父を失った愛海の悲しみが見えないところで根を張っていた。


「これも全部、愛海に裕一の世話を任せっきりにしたあたしが悪いんだ。本当は、母親としてもっと家庭のことをかえりみなきゃいけないのに。あたしがしっかりしてれば……」


「そんなに自分を責めないでよ!礼子さんはよくやってるよ。毎日こんな遅くまで働いて、頑張って家を支えてる。それだけで立派じゃん!」


「ありがとう、整。あんたは優しいね……」


礼子は整の頭を優しくでた。雨野家の母親からは決してもらえない愛情を礼子からもらって、整は心が温かくなった。


ふと、整は礼子の顔を眺めた。そこには、日々の苦労でやつれた中年女性の顔があった。目の下にクマが出来ていて、顔は青白く、唇は荒れていた。


一家を一人で支えなければならないというプレッシャー、母親らしいことができていないという不甲斐なさの意識が、彼女を精神的にむしばんでいることは明らかだった。


ワン子は礼子を労わるように、ふさふさの身体を彼女の脚にこすりつけていた。礼子は腰を曲げて、ワン子の頭もでてやった。


「わおん、わおん」


「ふふ。可愛いね、あんた」


丁寧で優しい愛撫あいぶに嬉しくなったのか、ワン子は礼子の足元でくるくると回り始めた。礼子は笑っていたが、どこか無理をしているような感じがあった。


「……だから、整だけが頼りなの。あたしが無理を言ってるのも、あんたに迷惑かけてるのも全部わかってる。でも、でもね……」


礼子は整の両肩を掴んだ。その手は微かに震えていた。怒りでもなく、悲しみでもなく、母は無念によって手を震わせていた。


「……仕事があるからどうしてもダメなんだ!一日が終わる頃にはもうクタクタで、愛海も裕一のことも構ってあげられないんだよ!だから、あたし、あんたに頼るしか……!」


わずか十六歳の少女に頼らなければならない自分が情けなかった。悔しくて仕方が無かった。


だが、既に限界だった。毎日の激務に加えて、子どもたちの面倒を見るなんて不可能だった。そんなことすれば、間違いなく礼子は倒れてしまうだろう。唯一の稼ぎ手である礼子がいなくなったら、本当に傘馬家は路頭ろとうに迷ってしまうに違いない。


だから、礼子は雨野整に全てを託すしかなかった。どれだけ無念でもそうせざるを得なかった。


「整、ごめん……!ごめんね……!」


「礼子さん……」


礼子は今にも崩れ落ちてしまいそうだった。整は礼子の手を取り、ゆっくりとベンチから立ち上がった。礼子の手はしわだらけで、びっくりするほどやつれていた。


整はそんな母の手を優しく包み込み、彼女の目を見て堂々と言った。


「わかった……。あたし、やってみるよ。裕一の世話も愛海さんの世話も、全部あたしに任せといて。それで礼子さんが喜ぶなら、引き受けない理由なんてないよ。だってさ、二人にも礼子さんにも、あたしはいっぱい世話になってるんだもん。たまには恩返ししなきゃね」


「整……!あんたって子は……!」


母は整を強く抱き締めた。まるで整が自分の子どもであるかのように、愛情を込めて抱擁ほうようした。


あの冷たい両親からは得られないぬくもりが整を満たして、胸の中から手足の先までじんわりと温かくなった。


「ありがとう、整……。でも、無茶はしないでね?ダメだって思ったら逃げていいからね?あとは全部、あたしがなんとかするから……」


「それはこっちのセリフ。礼子さんこそ無茶しないでよ?あたし、できる限りのことはやってみるからさ。愛海さんや裕一が幸せになれるように頑張る。だって、それが……」


整は小さな声でつぶやいた。それは独り言のようであり、礼子に伝えるために言ったわけではなさそうだった。


姉弟きょうだいの幸せが……あたしの幸せだから……」


傘馬愛海と傘馬裕一の幸せが、雨野整の幸せである――。


その言葉はまるで暗示みたいに心の中で響いていた。事実として、整はずっと姉弟きょうだいと共にあり、騎士のように姉弟きょうだいの幸せを守り続けてきた。それが雨野整の生き方だった。


だが、それを認めたくない自分もいた。もう一人の雨野整は、自分の存在を忘れ去られないようにするために、切実な声で繰り返し主張していた。


姉弟きょうだいの幸せよりも、あたしの幸せを……』


それは本音だった。整のいつわらざる本当の気持ちだった。

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