第五話 気づいて、お願い……
夏休みを目前に控えて、学校全体が浮足立っていた。一年生は高校生になってから初めての夏を、二年生は最も自由気ままな夏を、そして三年生は最後の夏を、それぞれが色々な思いや願望を抱きつつ、ワクワクしながら待ち望んでいた。
その雰囲気は教員勢にも伝播しているらしく、彼らも長い休暇を楽しみにしているようだった。
だが、傘馬裕一は普段と何も変わり無く、一人ぼっちで廊下を歩いていた。周囲の高揚感なんてどこ吹く風である。
彼は大して夏休みに期待してなかった。どうせいつもの二人と一緒に過ごすことになるだろうし、金銭面の問題から豪勢に遊ぶこともできない。彼は早々と例年通りの夏になるに違いないと決めつけていた。
(ただ家でダラダラするしかないよなぁ。お姉ちゃんはパートの予定をぎっちり入れたって言ってたし。整とは遊べるかもしれないけど、どうせ遠くにはいけないからなぁ。つまんないの)
裕一は心の中で愚痴を呟いていた。すると、裕一は上級生に呼び止められる。
「君って一年だよね?これ、放送部の涼風唯織さんに渡してくれない?」
「え?何ですか?」
上級生は一束の原稿用紙を裕一に渡した。薄っぺらい紙も何十枚も集まるとこんなに重いのかと裕一は思った。
「それ、唯織さんにチェックを頼もうと思ってた原稿なの。でも、渡しそびれちゃって。ごめんね?それじゃ」
「え?あの、待ってください」
裕一の制止も虚しく、放送部の先輩はさっさとどこかに行ってしまった。
雑に委ねられて、裕一はため息をついた。唯織はきっと教室か部室にいるのだろうが、そこまで足を運ぶのはなんだか面倒くさかった。
まずは一年五組の教室にやって来た。普通の人ならば堂々と扉を開き、『涼風さんいますか?』とハキハキとした声で尋ねるのだろうが、裕一にそんな勇気はない。人前で大声を出すのが苦手なのだ。
扉の隙間から教室の中を覗き、薄紫色の髪を生やした少女を探す。
「覗きだね。現行犯逮捕ですよっと」
ぽすっ。軽いチョップが裕一の頭頂部を叩いた。
視線を上げると、そこには雨野整がいた。彼女は呆れた顔して、挙動不審な覗き魔のことを観察していた。
「年齢は十六、いかにも冴えない感じの中肉中背の男で、お先真っ暗なダメ男オーラがはっきりと見えますなぁ」
「整、怒るぞ?」
「きゃははっ。その言い方、マジギレした愛海さんにそっくり。さすが姉弟だね」
整は小悪魔らしい笑顔を浮かべつつ、裕一から原稿用紙を取り上げた。
「お?これは放送部の台本?この前も涼風さんと一緒に校内放送してたし、万年帰宅部の裕一もいよいよ放送部に入部するって感じ?いやぁ、同じ帰宅部仲間としては悲しいねぇ?」
「ただ頼まれただけだよ」
そう言って、裕一は整から紙の束を取り上げた。
「どうせ涼風さんにこれを渡せって押し付けられたんでしょ?裕一らしいよねぇ?断ればいいのに」
「よくわかったな……」
「何年あんたの幼馴染やってると思ってんのよ?あんたのことなんか全部お見通しなんだから。にしても、涼風さんは教室にはいなさそうだし、部室の方に行ってみない?あたし、行ったことあるから場所わかるんだ」
「そうだね。移動しよう」
二人は放送部の部室の前にやってきた。
さて、突然ではあるが、皆さんは入室時のマナーをご存じだろうか?二回か三回かノックするのが礼儀というものだ。
なぜかと言えば、いきなり部屋に入るのは失礼だし、色々と見られたくないものが散らかっている場合もある。だから、入室前の確認は大事なのだ。
しかし、そんなマナーに無頓着な裕一は、さっさと扉を開けてしまった。整は彼を止めようとしたのだが、既に遅かった。
「え……?」
部室の中には着替え中の涼風唯織と天堂あかりがいた。さっきまで体育をしていたのだろう。更衣室は非常に混雑するので、唯織たちは部室で着替えることがあった。
なんて運が悪いんだろう。なんてタイミングが悪いんだろう。扉を開けた側も開けられた側も石のように固まっていた。
「あの、裕一くん……?」
裕一はいけないと知りつつも、唯織の下着姿を食い入るように見つめていた。彼女の瞳と同じ色のパンツとブラジャーは、まだ新品みたいに綺麗で、飾りリボンがアクセントとしてついていた。
片思いの裕一に半裸状態を見られて、唯織は沸騰したみたいに顔を赤くした。若干、満更でもないような雰囲気も出ていたが。
「……はぅわあああ!!必殺のあかりキックぅうう!!お前の股間にダイレクトアタックですぅうう!!」
突如部屋に現れた痴漢を退治するべく、鋭い金的キックが裕一を襲った!
ばきんっ!鈍い音とともに裕一は散った。股間を抑えながら床の上にうずくまり、ぶくぶくと口から泡を吹いている。
「お、おご、おごご……!」
「この鼠男めぇ!死ぬ手段を選ばせてやるですぅ!ギロチンですか!?出血多量ですか!?それとも銃殺刑ですか!?いおりんの下着姿を見るなんて、万死に値するですぅ!!」
あかりはお気に入りの熊さんパンツが丸見えの状態のまま、激痛に悶える裕一の前に腕を組んで立っていた。
裕一は思った。どうして金的攻撃をしてからそんなことを言うのだろう?もう処刑されたみたいなもんじゃないか、と。
「なぁにイキッてんのよ?この熊パンツ幼女め」
「はぅわ!?あ、あかりは幼女じゃありません!十六歳の立派な大人の女性ですぅ!」
あかりの抗議を軽くいなしつつ、整は床に落ちた原稿用紙の束を唯織に渡した。
「これ、頼まれたんだってさ。涼風さんに渡すようにって」
「これは放送部の原稿……。ありがとうございました、裕一くん、雨野さん」
整は唯織の肉体を凝視した。無駄のないシュッとしたスタイルは整に似ていたが、整よりも若干ふっくらとしていた。
そして、整の嘗め回すような視線は唯織の胸部に移った。大きな差はないが、明らかに整の方に優位があった。整は一人で優越感に浸り、自信満々な顔つきになった。
「な、なんですか?あんまりジロジロ見ないでくださいよ……」
唯織は恥ずかしそうに胸を隠した。整のいやらしい視線が気になって仕方が無かった。
さて、用事を済ませた整は手負いの裕一を立たせて部室から去ろうとする。唯織はフォローの言葉を裕一に伝えるのを忘れていなかった。
「あ、あの、何も気にしないでくださいね?ただの事故なんですから」
「でも、いおりん!ノックしないあいつがどう考えても悪いですぅ!」
普段は破天荒で常識破りなあかりから飛び出した完全無欠な正論に、整は思わずぷっと噴き出した。
(あははっ。あんなやつに正論言われてるよ、裕一のやつ。こりゃ、一から教育しないとダメだねぇ。夏休み前に何やってんだか、この馬鹿裕一は……)
整の肩を借りながら内股で歩く裕一は、弱々しい哀れな声で彼女に請うた。
「ご、ごめん……。もっとゆっくり歩いて……」
「はいよ。あんたの大事な場所、まだ痛いんだ?あとで氷でもズボンの中にぶち込んだら?すぐに腫れが引くかもよ?あはははっ」
殻が弾けるように、整は爆笑し始めた。青色吐息の裕一は何も言い返すことができず、ただ股の辺りをきゅっと握り締めていた。
裕一の股間の痛みが無くなって来た頃である。二人はいつもの道を歩いていた。太陽は背後で輝き、整と裕一の影を長く伸ばしている。
二人は夏休みのことで盛り上がっていた。整は毎年必ず実行される家族旅行について、うんざりしている様子である。
「今年の夏は熱海に行くんだってさ。なんか微妙よね。どうせ行くなら北海道とか沖縄とか、滅茶苦茶遠いところに行きたいんだけどなぁ。あ、それなら海外がいいかも」
「贅沢言うなよ。毎年旅行に行けるだけで十分じゃないか。どこにも行けないウチと比べれば幸せなものだよ」
「なにが幸せよ。あたしは全然楽しくないし、そもそも行きたくもないのよ?お父さんとお母さんと一緒にいたってつまんないもん。どうせいつもみたいに、あたしは熱海でも放っておかれるに決まってるんだからさ」
整はイライラして、道端の小石を蹴った。石は用水路に落ちて、ぽちゃんと水音を立てた。
「所詮は親も義務でやってんのよ。夏くらい家族でどこかに行かなきゃって思いこんでるわけ。あたしからすればいい迷惑よ。あんたの家で遊んでた方が楽しいのにさ。裕一も愛海さんもいるし、礼子さんだっているし」
「そうかなぁ?僕は旅行の方がワクワクすると思うけど……」
ここに貧乏な傘馬家と中産階級の雨野家の差が現れていた。手の届かない遠地への旅行を夢見る少年と、何回も行って旅行に飽きた少女では、価値観に差があった。
「だから、夏休みの序盤は一緒にいれないよ?長期旅行じゃないし、すぐにこっちに戻って来るけどさ。寂しくて泣かないでね?『整が離れると僕はダメなんだ~。早く会いたいよ~』ってね。ぷくく」
「泣くわけ無いだろ。僕は高校生なんだ。ガキじゃないんだよ」
裕一はふくれっ面になって顔を逸らした。不機嫌になった時の裕一の仕草は、小学生の頃から何も変わってないなと整は思った。
「寂しくないなら、こっちに帰って来てもあんたの家に行ってあげないわよ?それでもいいのかな?」
整は挑発的な目つきで裕一を見た。だが、裕一は整の言葉に惑わされず、冷静に反撃する。
「いいや、整は頼まれなくても自分から来るね。どうせ宿題が終わんないって僕のところに泣きついてくるんだろ?毎年のことじゃないか。だから、整は来るよ、必ずね」
「むぅ……。それはそうなんだけどさ……」
今度は整が頬を膨らませた。してやったりと、裕一は勝者の笑みを顔に浮かべた。
「毎年のこと、か。なんだかあたしたちって変わらないよね。あたしには面倒くさい家族旅行があって、裕一はずっと家にいて、結局はあんたの家で時間を潰すことになる。高校生になったっていう実感が湧かないのよね。去年も一昨年も同じことしてるから」
「別にいいじゃないか。無理に変えなくても」
「それもそっか。うん、そうだよね……」
同意しながらも、整の声は虚ろな調子を帯びていた。整は本当はこのいつもの日常を変えたかった。裕一の幼馴染として過ごす夏はもううんざりだった。その先に進みたかった。
今年の夏は今までと同じように過ごすわけにはいかない。裕一のカノジョになりたい、それができなくても、せめてもっと距離を縮めたかった。
整はふと、そろそろ裕一と別れる交差点の近くまで来ていることに気がついた。このまま別れたら、昨日の繰り返しである。昨日と同じ今日にまたなってしまう。それはまさに停滞した日々と言えるだろう。
変化が欲しかった。裕一との距離を縮めるきっかけとなる、何かしらの変化が――。
「裕一。この後、時間空いてる?」
「え?うん。大丈夫だけど、急にどうしたの?」
「行きたい場所があるの。ちょっと歩くけど、ついて来て」
整は道をUターンして、裕一を連れて郊外の方に向かった。整は一体どこに自分を導くつもりなのかと、裕一は少し心配だった。
彼女の歩みは力強く、とても早足だった。裕一と離れないように、整は彼の手をしっかりと握っていた。
歩き続けて、いよいよ山の中に来てしまった。整と裕一は高木に囲まれた獣道のような道を歩いていた。
もう時刻は夕方で、辺りが少し暗くなり始めていた。背の高い樹で太陽光が遮断される分、余計に暗かった。もはや夜と言ってもいいくらいである。
裕一は何度も整に質問した。
「おい。どこに行くんだよ。もう山の中じゃないか」
「……いいから。黙ってついて来てよ」
整は行先も目的も告げずに、ひたすら歩いて行く。普段はうるさいくらいお喋りなくせに、急に物静かになってしまって、裕一は目の前の少女のことを少し不気味に思った。
さて、整は”祈りの場所”にやってきた。扉を開き、裕一を中に招く。天井の穴からは炎ように赤い夕陽が射し込んでいた。
「……覚えてないよね」
「え?」
「覚えてるわけないよね。この場所のことも、ここであったこともさ。だから、ずっと黙ってたのよ。だってさ、そんな覚えても無いようなところに行きたいわけないじゃん。あんたが引き返すんじゃないかと思ってさ。だから、喋んなかったの……」
しかし、それならどうして整は裕一を廃倉庫まで連れて来たのだろうか?。覚えているはずがないと確信しているのに。
整は嘘をついていた。本当は裕一がこの場所を覚えていることを誰よりも願っていた。それを確かめるために、裕一を半ば強引にここまで連れて来たのだった。
「ごめん。帰ろ?あんまり遅いと愛海さんも心配しちゃうから」
彼女の声は凛と響いた。裕一は天井の辺りを見上げながら、一歩も動かずにいた。
「……覚えてるよ」
「え?」
「覚えてる。僕、ここに整と一緒に来たよ。あの時は整の髪も短かったよね。整は冒険しよって言って僕を連れ出して、林の中を歩き回って、最終的にここに行き着いたんだ」
裕一は天井の穴の真下に立った。何年も前に少女が見ていた手の届かない空を、彼も同じように見ていた。
「結局、僕たちは帰れなくなって、警察に捜索されたんだよね。あの時はすごく怒られたのを覚えてる。それに確か、ここに名前を彫ったはず……」
裕一は壁に立てかけてあったトタンの板をずらした。そこにはこう刻んであった――。
『かさばゆういち』
『あまのせい』
彼は過去を懐かしみ、幼い二人が彫った文字がまだちゃんと残っていることを嬉しく思った。
「消えてなくて良かったよ。僕も整も字が下手くそだな。あはは」
「裕一……!」
整は裕一の後ろで涙ぐんでいた。彼女は感動していた。絶対に忘れられたと思っていた。
でも、裕一はちゃんと整の大切な思い出を記憶に残してくれていた。その事実が嬉しすぎて、自然と涙が溢れ出てしまった。
「お、おい。整?泣いてるのか?」
「ば、馬鹿じゃないの……。ぐす……。この雨野整が……あんたなんかに泣かされるわけないじゃないの……。子供の時は……あたしがあんたを泣かせてたんだから……」
精一杯強がって見せた整の元に裕一は近寄った。ポケットからハンカチを取り出し、幼馴染の濡れた頬を拭いてあげた。
整は何も言わず、裕一の慰めを受けていた。今日ほど裕一と心が繋がった日はないと整は思った。
(裕一……あたし……)
このままキスしたいと整は思った。彼の唇はすぐ近くにあった。整が求めてやまないものは、少し背伸びをすれば手が届きそうだった。
そうだ、このまま告白もしてしまおうと整は思った。この場所には告白してから来るつもりであり、順序が逆になってしまったが、そんなことはもうどうでもよかった。
雨野整は目を閉じて、全てを変えるために前に進むもうとした。その時、どこかで聞いたことのある声が響いた。
「整ちゃん」
愛海の声だった。裕一の背後から愛海の声が聞こえてきたのだ。
整ははっとして、少し退いた。先程までは心が熱く燃えていたのに、今は凍えるような悪寒を感じていた。
(な、なんで愛海さんの声が聞こえるの?ここはあたしと裕一だけが知っている場所なのよ。愛海さんがいるわけないじゃない。なのに、どうして……?)
それは整が無意識のうちに作り出した幻聴だった。結局、整は裕一にとっては愛海以下の存在に過ぎない。彼が好きなのは姉であって、幼馴染ではない。
このような自信の無さが整にだけ聞こえる愛海の声となって、彼女の歩みを押しとどめてしまった。
結局、整は怖かったのだ。もしかしたら拒絶されるかもしれないと思うと怖くて、自分で自分の勇気を殺してしまった。
既に彼女の頬は乾いていた。沸き立つような胸のときめきも静まっていた。
ふと、整は裕一を困らせるようなこんな質問をしてみたくなった。
「裕一って……私と愛海さん、どっちの方が好き?」
「え……?」
「もちろんラブって意味じゃなくて、ライクっていうか、フレンドリーって意味でさ?」
裕一は何も答えられなかった。ただ俯いて表情を暗くするだけだった。
だが、彼の沈黙は整の質問に対して明確な回答を与えていた。整には既にわかっていたことだが、やはり自分が愛海以下の存在なんだと再認識して、奈落の底に突き落とされたような気分になった。
「ご、ごめん。こんな質問、急にされても困るよね。でも、本当は愛海さんの方が好きなんでしょ?あたしと裕一は幼馴染だけど、愛海さんとは生まれた時から一緒だもんね。言わなくてもわかるよ。あたしなんかより、大好きなお姉ちゃんの方を選ぶよね……」
「でも、僕は整のことだって大切に思って……!」
「それ以上言わないで!!!」
整は絶叫し、裕一の言葉を遮った。彼女の切迫した声が、がらんどうの廃倉庫の中で響いた。
「裕一は優しいからそう言ってくれるけど……。でも、却って辛くなるから……。だから、言わなくていい……」
「整……」
「それにしてもさ、あんたってどんだけシスコンなのよ?こっちがいやになっちゃうくらい、あんたはお姉ちゃんのことが好きなのね。あんたってやっぱり変な男の子だわ。あははっ。」
幼馴染は明るく振舞おうとして、あははと笑ってみせた。でも、それは乾いた笑いだった。心の籠ってない笑いは、逆に整を悲惨そうに見せた。
本当は、整よりも愛海を選ぼうとする裕一を前にして、崩れ落ちてしまいそうなほどのショックを受けていた。
だが、整は膝を折らなかった。彼女のプライドが許さなかった。悲しんでいる姿を見せて同情を誘うなんてことは、死んでもやりたくなかった。
「じゃ、帰ろうか?裕一」
思い出の場所を去りつつ、整は心の中で裕一に呼びかける。
(気づいてよ、裕一……)
少女の内心の声は哀切を極めていた。彼に届いて欲しくて、ひたすら祈っていた。
(お願い、あたしの気持ちに気づいて……)




