第六話 貝殻と波の音
アスタロスとエリーゼは、冷酷な運命によって別々の惑星に引き裂かれてしまった。だが、二人は決してお互いのことを忘れなかった。宇宙に捨てられた人工衛星が彼らを通信で繋ぐことができる、そのたった一日を待ち望んで、来る日も来る日も恋人の無事を祈り続けた――。
これは『星空の恋・イン・フューチャー』から引用した一節である。
愛海は二階で読書に勤しんでいた。この前に読んだ『星空の恋』の、まさかの続編が最近出版されたのだ。前作は彼女のお気に召さなかったが、今作はどうだろうか?
ページをめくる愛海の手はどんどん遅くなって行く。ついに、ぴたりと止まってしまった。愛海は本を畳の上に投げ出し、眉間の辺りを指で押さえて、天を仰いだ。
(やっぱりこれもつまらないよ!登場人物とか時代設定は変えてあるけど、展開自体は前作と全く同じだし!こんなのただの焼き直しじゃない!あーあ!時間を無駄にしちゃったよぉ!)
はっきり言って、完全なる駄作である。第一作目から百年後を舞台にしているが、基本的なストーリーラインは何も変わっていない。前作同様、織姫と彦星の話を下敷きにした悲劇的な恋愛物語だった。
主人公とヒロインはとある事件によって別々の惑星に住むことになるが、一年に一日だけ、つまり、宇宙空間を漂う人工衛星の軌道が地球の軌道と丁度よく重なる時だけ、二人は互いの声を聴くことが出来る。
ついでに、前作では地球の近くを漂う謎の小惑星に、主人公とヒロインを繋ぐ役割が与えられていた。
愛海はふと、こんなことを思った。
(私が作者だったら、二人が毎日会えるようにしちゃうのに。なんで別れさせようとするんだろう?)
創作において、ラブロマンスは悲劇的な展開が好まれていた。恋人が病気で死んでしまったり、誰かに奪われたり、別の国に移住してしまったりする。
恋路には多くの障害と容赦ない運命が用意されているものだ。そしてそのために、二人の恋は実らず終わる。
そういう展開の方が盛り上がるし、読者を惹きつけるから仕方がない。ストレスフリーで展開する恋愛物語などつまらないに決まっている。たとえ作家でなくても予想できることだ。
でも、愛海は納得がいかなかった。恋愛なんて現実でもなかなか上手く行かないものだ。それなのに、どうして想像上の世界でも同じことをするのだろか?しかも、大概は創作の方がもっと悲劇的なのだ。
(せめてお話の中では、ラクに幸せにしちゃってもいいと思うんだけどなぁ。好きって告白して、すぐに結婚して、二人はずっと幸せに暮らしましたとさ、ちゃんちゃん……。あれ?もう終わっちゃった)
愛海の思う通りにしたら、五ページくらいで終わってしまいそうである。そんな小冊子以下のラブロマンスなど、一体誰が読むのだろうか?
愛海は考えを修正した。やはり、ラブロマンスにはある程度の障壁が必要なようだ。何もかも順風満帆の小説では、そもそも一冊の本にならないだろう。
そんなことを考えていると、裕一が二階に上がって来た。
「お姉ちゃん。何してるの?」
「うん?読書だよ?」
彼は自分の居場所を見つけて、そこに落ち着いた。彼が安らいだ場所は愛海の膝の上だった。愛海に膝枕してもらって、床の上に寝転がる。姉の膝はモチモチしていて、なんだか懐かしい匂いがした。
「もう。甘えん坊なんだから」
「えへへ。お姉ちゃん」
愛海は裕一の頭を撫でた。弟はもう高校生だが、こういう風に甘えてくるところは昔と全く変わっていない。姉の身長を追い越すほど成長しても、心はまだ幼稚で、ついつい姉の愛情を欲してしまうのだ。
愛海はそんな幼いところも愛していた。自分を求めてくれることが素直に嬉しかった。だが、裕一の将来のことを思うと、愛海の胸中は複雑になる。
(でも、裕一はもう十六歳の男の子……。この子もいずれは自立しなきゃいけない。でも、このままでいて欲しいって思う気持ちもある。私は裕一にどうなって欲しいんだろう?この子にどんな大人になって欲しいんだろう?)
愛海はどっちの裕一を望んでいるのか、自分でもわからなくなってしまった。姉離れして立派に成長した裕一と、姉の後ろに隠れてモジモジしている裕一が頭の中にいる。どちらも愛おしくて、選ぶことなんてできない。
ならばと、愛海は開き直ることにした。
(どっちでも構わない。だって、私と裕一は恋人なんだもん。愛し合ってるなら、もうそれで十分……)
膝の上でウトウトしている男の子は、ただの弟では無かった。彼は愛海の恋人なのだ。弟なのに、恋人なのである。
(それにしても、姉弟で恋人なんて、我ながらどうかしてるな。ふふ)
この異常な関係のことを思うと、愛海は自嘲を込めた笑みをこぼした。後悔はしていない。それを望んだのは愛海自身だったし、今はとても幸せだった。
だが、他言無用な関係であることは間違いない。たとえ、長年の付き合いがある整にも、実の母である礼子にも、バレてはいけないのだ。
もし秘密が漏れてしまったら、愛海が読んでいた本の登場人物の如く、二人は引き裂かれてしまうだろう。
幸福感に陶酔しつつも、愛海は気合の帯を引き締め直すことを忘れなかった。
「ん?裕一?どうしたの?」
裕一は愛海を見上げていた。彼の視線は、姉の前髪を留めているヘアピンに注がれていた。プラスチック製の安物で、貝殻の絵がプリントしてあった。
「お姉ちゃん、まだそれつけてくれてるんだ。僕がずっと昔にプレゼントしたやつ」
「ああ、これ?裕一からもらった大切な誕生日プレゼントだもん。毎日欠かさずにつけてるのよ?」
この髪留めは裕一から貰った初めてのプレゼントだった。中学生になっても、高校生になっても、そのヘアピンはずっと愛海の前髪をまとめていた。もはや身体の一部と言っても過言では無かった。
愛海はピンに指を当てて、目をつぶった。姉の意味深な行動に、裕一は首を傾げた。
「何やってるの?」
「耳に貝殻を当てると波の音がするって言うでしょ?私の場合は、この貝殻のヘアピンを触って目を閉じると……裕一との思い出が蘇るの。どんなに昔のことでもね、波みたいにぶわっと押し寄せてくるの」
このヘアピンは、裕一との思い出を呼び起こしてくれる、言わば魔法のアイテムだった。忘れてしまった過去の出来事でも、こうしていると、記憶が突然復活することがあった。
この小さなアクセサリーには、姉弟の何年にも渡る思い出がつまっているのだ。
「このヘアピンを貰った時のこと、思い出してきたよ?裕一は一生懸命お母さんのお手伝いして、お小遣いを溜めたのよね。私にプレゼントするために、裕一は毎日頑張ってた。あの時は泣いちゃうくらい嬉しかったな……」
幼き日の裕一の姿が、目の前にありありと浮かんでくるようであった。紙の小袋を持って、姉の前に立つ少年は緊張しているのか、声が震えていた。
『お、お姉ちゃん!これ、あげる!』
『わあ!ゆーいち、ありがとう!これ可愛い!』
さっそく少女はヘアピンをつけて、鏡に自分の姿を映した。少女は前よりも少しおしゃれになっていた。その後ろで、極度に恥ずかしがり屋の弟がモジモジしていた。
「そう言えばそんな感じだったね。もう忘れてるのかと思ってたよ」
「ううん。私は忘れないよ。裕一との思い出は絶対に忘れない。もし仮に忘れちゃったとしても、こうやって指を当てれば何もかも思い出せる。だから、裕一の思い出はずっと私の中にあるの。これから何十年経ってもそれは同じ……」
愛海はヘアピンから指を離して、過去の世界から戻って来た。あの時と比べて大きく成長した少年は、微かに笑っていた。
「お姉ちゃん……。僕、凄い嬉しいよ」
姉弟は見つめ合って笑った。二人とも頬が赤くなっていた。
裕一はさっきまで愛海が読んでいた本を手に取った。ハードカバーの三百ページくらいの本で、中身を読まなくても恋愛をテーマにしていることは、すぐにわかった。タイトルを見れば一目瞭然である。
「それにしても、お姉ちゃんってロマンチストだよね。恋愛小説ばっかり読んでるし」
「あら、言ったわね?裕一だって、恋愛小説の登場人物みたいに『好き』って何回も私に言ってたくせに。あなたもロマンチストよ」
姉にやり返されて、裕一は怯んだ。事実を指摘されて恥ずかしくなってしまった。
「だって、本当に好きなんだからしょうがないじゃんか。そんなに言うなら、もう『好き』って言わないよっ」
「ふふ。拗ねないでよ。これで許してくれる?」
愛海は弟の顎に手を添えて、軽くキスした。それは裕一に許しを請うためになされたものだったが、同時に、弟に対する愛情がどれほど深いものかわからせるためでもあった。
裕一は姉のメッセージを即座に理解した。お返しとばかりに、彼は愛海を抱き締めた。
「お姉ちゃん……」
「裕一……」
二人は再び唇同士をまぐわせた。さっきよりも激しく、深く、切なく――。
愛海は裕一のカノジョになったことを全身で感じていた。彼に触れられると、愛海の意志に関係なく、嬉しそうに肉体が疼くのである。まるで身体の中で電気が流れているみたいだった。鋭敏になった神経は、裕一との接触に歓喜していた。
(私、弟とキスしちゃってる……。夢じゃないんだよね?現実なんだよね?)
小説よりも空想じみた世界に愛海はいた。血の繋がった弟とキスしているのである。愛海が現実を疑うのも無理な話ではなかった。
(裕一……)
彼女はこれがリアルであることを確かめるように、裕一をしっかりと抱き締めた。彼の存在は幻ではなくて、そこに実在していた。いくら力を入れても消えてしまうことはなかった。
「……ふぅ。そろそろお夕飯の準備しようか?」
「うん。僕も手伝うよ」
甘美な時は終わり、日常が戻って来る。二人は一階に降りた。愛海は台所に立ち、鍋に水を入れて煮立て始める。裕一は冷蔵庫の中を物色している。
愛海は調理しながら、これからのことを考えていた。
(お母さんは大丈夫。お仕事でほとんど家にいないし、私たちのことを疑う暇はないはず)
となると、やはり懸念材料は雨野整だった。こうやって料理している間を狙って、窓からひょっこりとこちらを覗いているかもしれない。
愛海は窓の外を見た。誰もいなかった。
(いるわけない、か……。でも、整ちゃんならそういう悪戯しそうだもん。私と裕一を驚かせるために)
だが、愛海が恐れているのは整の神出鬼没な振舞いだけではなかった。彼女の勘の鋭さも恐れていたのである。
今までも、こちらの考えていることをぴたりと当たられたことが何度かあった。彼女の動物的本能が、僅かな変化を察知し、相手の心を読んでしまうのである。
(パートで失敗して怒られちゃった時も、すぐにばれたのよね。『愛海さん、落ち込んでる?』って。私も裕一も気をつけなきゃ。やっぱり整ちゃんだ。整ちゃんには特に注意しないと)
愛海は弟にも念を押すことにした。
「裕一。わかってると思うけど、私たちの関係は整ちゃんにも秘密よ?明日の朝も普段通りでいてね?疑われちゃうから」
「もちろんだよ。あいつ、読心術でも使ってるんじゃないかと思うくらい勘が鋭いからね。お姉ちゃんこそ気をつけてよ?整の口車に乗せられて、喋っちゃうかもしれないから」
「だ、大丈夫よ。整ちゃんに乗せられたことなんて一度も無いし……」
とぼける愛海に、裕一は呆れかえった。
「今朝だって、整に騙されて自分のパンツの色、言っちゃったじゃんか」
それはこんな次第である――。
『愛海さん!今、頭の中にある色を言ってみて!簡単な心理テストだよ?』
『え~?うーん、赤色かな?』
『赤ぁ!?うわ!愛海さんって意外と大胆だね!これはね、実は下着の色を暴いちゃうテストなんだよ?ほら、朝って着替えてからまだ時間が経ってないから、頭の中に下着の色の印象が残ってるんだって!うわぁ~!愛海さんは赤パンツかぁ!アダルトなワインレッドカラーって感じ?』
『全然心理テスト関係ないじゃないの!それに、赤じゃなくて水色よ!』
『ふーん……。今日の愛海さんは水色ですか。ふっふっふ』
『せ、整ちゃん……!』
愛海は今朝の失態を思い出して、気恥ずかしくなった。裕一の言う通り、粗相をするのは自分の方かもしれないと思った。
「……気をつけます」
「まあ、本当に注意してね。あいつの口の上手さは悪魔級だから」
「悪魔って……。ふふ。裕一も結構言うじゃないの」
裕一と愛海は再び顔を見合わせて笑った。愛海の頭の中では、鋭い牙と長い尻尾を持った可愛らしいミニデーモンが、こちらを見て目をキラリと輝かせていた。




