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君の恋、雨の色  作者: 石戸龍一
第一章 雨中の告白
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第二話 学園風景

一年三組の教室――。それは、傘馬裕一にとっては戦場と同じである。とにかくこの扉が重い。たかが厚さ数センチの板が、彼にとっては重厚な鋼の門のように感じるのである。ちょっとやそっとじゃ動かない。全身全霊をかけて、押し開かねばならない。


なぜそんな馬鹿げたことになっているのか?アンサーは簡単である。クラスに馴染めていない彼にとって、教室は嫌で嫌でたまらない空間だからだ。


「お、おはよ……」


消え入りそうな声で挨拶をする。クラスメイトの誰も彼の存在に気づいていなかった。同じ歳の少年少女たちは友達との会話に勤しんでいる。彼に視線を投げかける者は一人もいない。


裕一は壁に沿って歩く。たとえ遠回りでもそうする。真ん中を通ると注目を集めそうで怖いのだ。そして裕一は、床に注いでいた視線を持ち上げる。その心は祈りで満ちていた。


(どうか、僕の席に上川佳澄かみかわかすみがいませんように……!)


はたして、祈りは天に届くのか――?


「……てか、あちーな。まだ五月なのに。由美もそう思うだろ?」


(あちゃー……。今日もダメだったか……)


誠に残念なことに、本来は裕一が座るべき場所にクラスメイトの佳澄が座っていた。しかも、椅子じゃなくて机の上にお尻を乗せて。


裕一の席の真後ろに彼女の友達がいるのだ。佳澄は彼の領地を勝手に占領して、ご友人と楽しいお喋りタイムなのである。こんな横暴、許されていいものだろうか?声を上げてこの不法を正すべきではないのか?今こそ、反逆の時だ!


『おいコラァ!僕の席からその汚いケツをどけろよ!!何様のつもりなんだ!あぁん!?』


こんな風に言えたら、裕一は幸せだったろう。だが、無理である。佳澄は裕一の一番苦手なタイプだった。彼女は生粋のギャルである。ブロンドに染めた長髪と濃い目の化粧で、これだけでも近寄りがたいのに、ピアスの穴も開いているときている。見た目がいかつすぎるのだ。


性格もオラついていた。クラスの女番長と言った感じで、どの男子も彼女に頭が上がらない。声も大きくて威圧的な喋り方をする。しかも、佳澄は女子バスケ部の期待のエースで、入学してすぐにレギュラーの座を勝ち取ったスーパースターだ。逆らえるわけがない。身長だって裕一より高いし……。


(あともう少しでチャイム鳴るし、まあいっか。しょうがないよね……)


こういう時、裕一は壁に寄り掛かって、時間が過ぎるのをひたすら待つのである。たかが数分の我慢だ。反旗を翻して逆に粛清されるよりは、我慢する方を選ぶのだ。


キンコンカンコーン。朝のホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。裕一にとっては救いの音である。佳澄がようやく彼の領土から出て行ったので、裕一は安心して席に座ることができる。机が生暖かくてなんとも不愉快だった。裕一は斜め後ろに座っている佳澄を、ほんの少しの間だけ、キッと睨んだ。


(覚えてろよ、上川佳澄!君は僕にとって不倶戴天の敵なんだからな!ただじゃおかないぞ!)


「よし、朝のホームルームを始めるぞ。日直、号令してくれ」


こうして、傘馬裕一の学園生活は始まるのである。入学してから一ヵ月、だいたいこんな感じで毎日を過ごしている。決して快いとは言えないが、そうかといって痛めつけられているわけでもない。愛海の問いにはっきり答えられないほどの、微温的な高校生活だった。


クラスメイトは基本的にいい奴である。裕一は佳澄のことを勝手に敵視しているが、彼女も話せばわかるタイプで、本当は任侠的な優しさを持った女である。ただ、裕一が思い込みで怖がっているだけだ。


傘馬裕一は気弱で臆病な少年だった。友達を作らず、人間を信じず、心も開かずである。素直に話せるのは姉の愛海と幼馴染の整だけなのだ。そんな性格の暗いクラスメイトを、周囲もどう扱っていいかわからず、とりあえずそっとしている状態である。


(僕はみんなからいないも同然にみなされている。亡霊みたいだな、ホント……)


自分は存在しているのか、存在していないのか、それすらも分からないくらい裕一は孤独だった。だが、それでもどこか楽観的なところがあって、勉強だけしていればいいやと開き直ってもいた。


(もうどうせ馴染めないよね。ちゃんとテストでいい点取って、留年さえ避けられればそれでいいんだ。でも……)


裕一はシャーペンを手放した。今は授業中である。ノートはほとんど真っ白で、黒板の内容をまともに書き写していなかった。最近は頼みの綱である勉強すらも、身が入らない状態であった。


(お姉ちゃん……)


裕一は窓の向こうに見える校舎を眺めた。あれは三年生の校舎だった。あの教室のどこかに、傘馬愛海がいるに違いない。優しくて、綺麗で、いつもそばにいてくれる姉がいるのだ――。


彼はポケットからスマホを取り出して、膝の上に置いた。電源をつけて写真フォルダを開封する。人差し指は愛海の写っている写真を迷いなく選択した。


それは何でもない写真だった。場所は玄関で、扉を背にしてセーラー服姿の愛海が、お腹の上に手を重ねて、こちらに微笑みかけている。たくさん保存してある姉の写真の中でも、これが一番のお気に入りだった。シンプルゆえに魅力がよく伝わる、良い写真である。


(お姉ちゃん……。誰よりも可愛くて、綺麗で、素敵な僕のお姉ちゃん……)


一度愛海のことを思い始めると、目の前のことに集中できなくなった。胸がカーッと熱くなる。自分の中で蒸気機関がフル回転しているようで、熱と蒸気が頭から噴き出すんじゃないかと思うほど、今の彼は燃えていた。


(これってやっぱり恋だよね。僕、お姉ちゃんのことが好きになっちゃったんだ)


裕一には悩みがあった。実の姉に恋してしまったという悩みが――。


彼だって物の分からない子どもではない。姉弟間の恋愛が禁じられていることは理解していた。弟は姉を愛してはならない。それは社会が決めたルールで、絶対に破ってはならないのだ。


ここ最近、何度もこの致命的な思いを捨て去ろうと努力してきた。でも、できなかった。どうしても愛海を一人の女性として意識してしまう。正常であれば、近親者相手に抱くはずのない欲望が、狂おしいほどに増殖していく……。


お姉ちゃんに口づけしたい、身体を抱き締めたい、本気で愛し合いたい――!


イケナイ思いがどんどん湧いてきて、裕一の頭はいよいよボッと着火してしまった。気弱とはいえ彼も男の子である。そんな妄想がよぎらないわけでもない。罪悪感を抱きながらも、あの柔らかで美しい姉の肉体を、特にあの豊満な胸を、想像の世界でもてあそぶのであった。


(僕はお姉ちゃんが好きだ……。本当に好きなんだ……。うぅ……。でもこんなこと、整にも言えないよ……)


この異常とも言える恋は、たった一人の友人である雨野整にも隠されていた。彼女は裕一にとって心を許せる相手ではあるものの、さすがに『お姉ちゃんを好きになったんだけど、どうすればいい?』とは相談できなかった。


あの整のことである。裕一の本心を知ったら、こんな風に馬鹿にするだろう――。


『へぇ。裕一って愛海さんのことが好きなんだ~。ふぅーん……って、馬鹿じゃないのッ!?実の姉が好きなんてマジで無理だし!ガチであり得ないったらあり得ない!あんたのシスコンもいよいよ終末レベルに達したってことね!?』


(整はいつものように早口で喋りまくって、僕に弁解の余地すら与えない。そして最後は……)


『っていうか、愛海さんが可哀想だよ!こんなド変態を弟に持っちゃってさ!あーあ!裕一の本心を知ったら、愛海さんショックで泣いちゃうだろうな~!あの優しい愛海さんを、裕一は悲しませちゃうんだ~!?あーやーまれっ!あーやーまれっ!あーやーまれっ!……』


(な、なんで整にそんなこと言われなきゃいけないんだよ……!)


空想上の整にしつこく罵倒されて、ようやく裕一は現実世界に戻って来た。既に授業は終わっていた。先ほどまでの姉への恋慕も、爆発のような激しい妄想も、すっかり落ち着いていた。


(ふぅ。こんな状態でこれから先もやっていけるかな……)


裕一は真っ白なノートを携えて、次の授業を受けるために教室を出て行った。



さて、こちらは裕一の片思いの相手である愛海の教室である。弟の激しい恋心など露ほども知らず、彼女はゆっくりとした足取りで席に着いた。三時限目が終わって次は世界史である。愛海は教科書を出してぼーっとしていた。


一年生の教室と違ってこちらはかなり静かで、ピリピリとした緊張感が場を支配していた。彼らは高校三年生である。受験に備えて、ほとんどの生徒が分厚い参考書を相手に戦っていた。まだ春なのに気が早いと思われるかもしれないが、ここで頑張らないとライバルに差をつけられてしまう。既に受験戦争は始まっているのだ。


「愛海、シャーペンの芯貸して」


「みほちゃん。いいよ」


愛海の後ろの席の女の子が、こっそりと呟いた。彼女の名前は手塚美帆子てづかみほこ。太縁の眼鏡をかけた女の子で、地味な見た目をしているが、サバサバした性格の頼りになるお姉さんである。入学してすぐにできた愛海の親友で、三年になった今でも厚い友情を維持している。


「みほちゃん、気合入ってるね。また参考書買ったの?」


彼女も受験という戦争に参加する兵士だった。机の上は非常に散らかっていて、何冊もの試験対策本が防壁のように彼女を囲っていた。


「へへっ。当たり前よ。金を惜しむくらいだったら、あたしは点数を取るね。コレ、本番に強いって評判なのよ~!ネット通販ですぐに買っちゃった!」


「へぇ~。流石だね。やっぱり難関大学目指してるんだ?」


その瞬間、美帆子は席から立ち上がり、激しく燃えた!そして野獣のように吠えたけった!


「うぉ~~~!!目指せ一流大学!勝ち抜け学歴社会!あたしは絶対に合格してやるぅ~!!」


「わ、わかったから。みほちゃん、落ち着いてよっ」


周囲の冷ややかな視線を感じ、美帆子は小さくなって椅子に座った。ちょっと暴走気味ではあるが、頑張り屋な美帆子のことを愛海はとても尊敬していた。誇りに思える親友である。


「ねえ、みほちゃん。私、邪魔してない?実は話しかけないでって思ってたりする?」


「全然!むしろ、愛海のタヌキ顔見てるとね、勉強の疲れが癒されるんだ~!」


タヌキ顔と聞いて、愛海は珍しくカチンと来た。


やや太めの眉、誰が見てもわかるタレ目、ぷっくらとした唇……。人間の本質について、こんな教訓がある。事実こそ、人は指摘されるとイライラするものなのだ――。


「みーほちゃん♪次、言ったら怒るよ?」


「アハ、アハハ……。ただのジョークだよ。あんたは怒ると怖いんだから、もう……」


美帆子は乾いた笑い声をあげて、やはり禁句は言わぬほうが得策だと肝に銘じた。普段はおとなしい人ほど、怒らせると大変なことになるのだ。彼女は話題を変えようとする。


「にしてもさ、愛海は高校出たらすぐに就職か。大変だよね、そっちも」


「ウチは生活苦しいから、仕方が無いよ。お母さん一人にずっと任せられないし、私も働いてちょっとは稼がなきゃ」


傘馬家は父親がいない。愛海が小学三年生の時に両親は離婚し、父は家を出て行った。それから父とは全く疎遠になってしまっている。今は母親一人で家計を支えている状態なのだ。


「裕一くんも支えないといけないしね」


「うん、裕一も……」


愛海は頭の中で、いつもおどおどしている臆病な少年の姿を思い浮かべた。やはり裕一のことが心配だった。彼は学校でちゃんとうまくやれているのか、クラスで浮いていないだろうか、もしかしていじめを受けていないだろうか、こんな悩みが次々と浮かんでくる。


美帆子は席を立ち、窓を少しだけ開けた。眼鏡を取り外して、寝不足気味の眼を風に晒した。疲労で熱くなった眼球が、どんどん冷やされていくのがわかった。


「裕一くん、友達できたって?その……雨野整って子以外でさ」


「できないみたい……。裕一からそういう話、全然聞かないのよ。はぁ。根はいい子なんだけどなぁ」


春の陽気を孕んだ風が、愛海の外ハネの茶髪をそよがせた。風は愛海のうなじ辺りを通って、セーラー服の後ろ襟を微かに膨らませる。まるで風を受けた帆のようだった。


「本当はね、とっても優しい子なのよ……。ただ……ちょっと臆病なだけで……」


「あ、ちょ、タンマ。愛海のアレがまた始ま……」


しかし、時すでに遅し。愛海は人が変わったように饒舌になる。


「まったく不思議なのよねぇ。だって、裕一って、お料理も手伝ってくれるし、お掃除もしてくれるし、今時の男の人ならそれくらいするかもしれないけど、でも裕一は高校一年生でこれだけのことをしてくれるのよ?それにね、お買い物に行った時は荷物を持ってくれるし、肩も揉んでくれるし、色々と気が回るところもあるし、百点満点をつけたいくらい優しいのよ。でも、やっぱり一番嬉しいのは誕生日には必ずプレゼントしてくれることかなぁ?去年なんか『お姉ちゃんの言うことを何でも聞く券』なんて手書きで持ってきたのよ?そりゃ、ちょっと幼稚な贈り物だったかもしれないけど、貰った時は思わずボロボロ泣きそうになっちゃって……っていうか泣いたわ。うん、私、泣いちゃったのよ」


「ちょっとストップ!ターイム!タイムったらターイム!」


美帆子は窓を閉めて、親友のマシンガントークを止めようとする。しかし、愛海は心ここに在らずで、ぺちゃくちゃと喋り続けている。


「それでね?一昨年の誕生日プレゼントは手作りハンバーグ、二年前は家庭科の授業で作ったワッペン、三年前は……」


(あ、ダメだこれ。一年ずつさかのぼって、愛海の記憶に残ってる原初のプレゼントまで辿りつくパターンだ)


これが傘馬愛海の悪癖であった。裕一の現状をうれえるあまり、逆に彼の良い点をぶっ通しで話し続けてしまうのである!


本人はちょっとした愚痴のつもりらしい。しかし、一定のリズム、一定の声色、一定の音量で、延々と言葉を垂れ流すその姿は恐怖以外の何物でもない。美帆子はこの状態の愛海のことを壊れたスピーカー、もしくは呪文を唱える呪術師だと形容している。


この前など、喫茶店でこの病気が発動してしまい、一度も休憩することなく、三時間もぶっ通しで愛海の話を聞かされた。はっきり言って、ただの苦行である。その日は親友の声がずっと頭に残り続けて、美帆子は一睡もできなかったらしい。


(こうなりゃ奥の手だ……!受験生をナメんじゃねぇぞ……!)


美帆子は速攻で愛海の背後に回り、そのたわわに実った両の乳房を揉みしだいた。


「ひっ……きゃあああああっ!!?みほちゃん!?いきなり何するの!?」


「こうでもしないと、あんたが正気に戻らないからいけないんでしょうが~!この巨乳め!また大きくなったんじゃないの!?ほれほれっ!おりゃ~~~!」


美帆子はパン生地をこねるような手つきで、指をせわしなく動かした。呪術師は呪文の詠唱を中止し、その代わりに、周りの男子生徒をドギマギさせるような色っぽい声で喘いだ。


「ひゃ、ああっ……ちょ、ちょっと……やめ……いやぁ……!そんな風に……指を動かさないでよぉ……!変な声出ちゃうから……あ……ひゃ……んぅ……!」


だが、二人はすぐさま周囲の冷たい視線に気づいた。ここは三年生の教室で、今年は受験なのだ。二人のじゃれ合いは勉強の邪魔になっていた。


「あ、はい。すんません……」


「もぉ、みほちゃんったら……」


愛海も美帆子もシュンとなった。愛海はくしゃくしゃになった制服を伸ばしつつ、乱れた髪の毛を櫛でいた。


その時、彼女のヘアピンが少し光った。美帆子は分厚いレンズを通して、その反射光を見た。


「それ……ずっと着けてるよね。お気に入りなの?そのヘアピン?」


桃色のヘアピンが愛海の前髪の一部を留めていた。プラスチックの安物の髪留めで、黄色の貝殻がデザインされていた。愛海はヘアピンを大事そうに指ででた。


「うん。これはね、裕一が初めて私にプレゼントしてくれたものなの。私の生涯の宝物で……」


「……ハッ!?」


またアレが始まる――!そう思って、美帆子は両手の指をワキワキと動かし始めた。愛海は腕で胸をガードして、親友の誤解を解こうとする。


「だ、大丈夫。別に長く話すつもりはないから。ただ……本当に大事なモノなの」


「モノを大事にするのは結構なことだけど、いい加減治した方がいいよ?そのブラコン病」


愛海は唇を尖らせて叫んだ。


「ブ、ブラコンッ!?私が?」


「いやいや、誰がどう見てもそうだろーがっ。なに寝ぼけたこと言ってんだか……おりゃ」


美帆子は愛海の頭を軽くチョップした。コツンと音がした。


愛海はひどく驚いていた。だって、自分はただ弟を大事にしているだけだし、それを兄弟偏愛ブラコンと言われると、なんか違う気がした。


「あんたたち、なんか距離が近すぎるのよねぇ?そりゃ小さい時はそれでいいのかもしれないけど、この歳になれば自然と離れていくもんよ?あたしだって歳の離れた兄貴がいるけど、別に愛海みたいなことしないもん。子どもの頃にもらった贈り物をいつまでも大事に身に着けるとかさ?」


「で、でも……」


キンコンカンコーン。休み時間が終わった。次は四時間目である。


「とにかく、愛海ってさ……ちょっと過保護なんじゃない?別にあんたらの関係に口挟みたいわけじゃないけど、さすがにねぇ?」


そう言って、手塚美帆子は再び参考書の山の中に戻って行った。すぐに教師がやって来て、授業開始の号令がかかった。


「きりーつ、れーい……」


淡々と授業は進んでいく。愛海は授業に集中できずに、ただ流れ作業的に板書を書き写していた。彼女の頭は全く別のことを考えていた。自分と弟の関係性について、つまり愛海が本当にブラコンなのかについてである。


(みほちゃんから見れば仲が良すぎるのかもしれないけど……)


愛海には弁解の余地があった。父親は既に家におらず、母親は毎日仕事に従事している。両親はいないも同然だった。家事も全部二人でこなさなければならなかった。ならば、姉弟はお互いに支え合って生きていくしかない。距離が近くなるのは必然だった。


姉は母親のように振舞い、弟も頼りないところがあるが、長男として母親代わりの姉を一生懸命に助けた。そんな弟を大事に思うのは当たり前ではないか。一体それのどこが悪いと言うのだろう?どこがブラコンなのだろう?


愛海はむしろ、この姉弟の関係性を誇りにすら思っていた。姉弟の絆と断言しても良かった。愛海と裕一は、姉弟愛という名の絆で結ばれているのだ。


(裕一……。今ごろ何してるんだろう?ちゃんとクラスに馴染めたかな?今日こそ友達できたかな?幸せな高校生活を送れているのかな?)


彼女の意識は弟の方へいざなわれた。やっぱり彼のことが心配で落ち着かない。世界史の授業など頭に入らなかった。だって、世界で起きたどんな出来事よりも、弟の方が大事だから。


「おい、傘馬!ちゃんと授業聞いてるのか?中間テスト近いんだぞ?」


「ふぇ?あ、はいっ!すみません!」


愛海は顔を真っ赤にして俯いてしまう。弟のことを考えるあまり、ほうけていたらしい。まさか教師に注意されるほどとは愛海も思っていなかった。


(私、裕一のことばっかり考えてた。こんなんじゃ、まるで私……)


ツンツン。後ろの席の美帆子が、シャーペンの先で愛海の背中をつついた。振り返ると、美帆子は声に出さずに、唇の形だけで愛海に言葉を伝えていた。


――『ブ・ラ・コ・ン』、と。


(も、もぉ~!みほちゃんったら~!)


愛海は頬をハムスターみたいに膨らませた。そして、ぷいっと前を向く。


シャーペンを強く握って、ノートに文字を書き込んでいく。心の乱れがそのまま表れたような、識別不能な汚い字だった。愛海は腹を立てていた。親友に姉弟の関係性を揶揄われて悔しかった。モノに八つ当たりするように、乱雑な字をノートに次々と刻んでいった。


(みほちゃんはなんにもわかってない!私たち姉弟はずっと支え合って来たんだから!それも知らないで、ブラコンなんて……!)


パキンッ。シャーペンの芯が折れて、愛海の右腕は勢いそのままに紙の上を滑った。小学生じみた汚い文字の海の上に、長い斜め線が引かれてしまった。愛海は消しゴムを使い、線を周囲の文字ごと消し始めた。


(はぁ……。裕一……)


愛海はため息をついた。そして、まったく同じタイミングで、一年三組の教室でも――。


(はぁ……。お姉ちゃん……)


悩みの種類は違っても、やはり姉弟は姉弟であった。まさか、ため息のタイミングまで揃っているとは。

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