第五話 姉はカノジョ
結局、涼風唯織は合流することができなかった。もう一度立ち上がる気力は残っていなかったのである。彼女はあかりに寄り掛かるようにして、裕一の前にやつれた姿を晒していた。
彼女の顔に生気は無かった。一生懸命笑顔を作っていたが、たくさん泣いたためだろう、彼女の目は赤く腫れていた。すっかり暗くなった今でも、げんなりとした顔がよく確認できた。
「今日はありがとうございました。その……楽しかったです。良かったらまた一緒に遊んでくださいね……」
「うん、ありがとう。僕も楽しかったよ……」
二人のやり取りはたどたどしかった。お互いに嘘をついていたのである。唯織は全然楽しくなかったし、裕一も唯織とは楽しい時を過ごせなかった。彼は愛海とデートしたのである。
「ふん!お前が楽しいと思うのは当たり前のことですぅ。なんといっても、いおりんとのデートなんですからねぇ。でも、調子に乗らないでくださいですぅ。この程度でいおりんと仲良くなれたなんて思わないでくださいですぅ。ほら、いおりん?帰るですよぉ?」
「え、ええ。それじゃあ、裕一くん、愛海先輩。また学校で」
唯織とあかりは去って行った。二人の姿が見えなくなるまで、姉弟は遊園地の門の前に立っていた。
「じゃあ、私たちも帰ろうか?」
「うん。お姉ちゃん」
二人は電車に乗って、家を目指す。辺りは完全に暗くなっていた。夜である。
愛海は弟の疲労が気になった。普段話さない人間と長時間一緒にいたので、裕一は気疲れしてしまっているようだ。彼は口を一切開かずに、高速で通り過ぎる夜の景色を眺めていた。
「ねえ、裕一。家に帰る前に、ちょっと近くの公園に寄って行こうか?一休みしてから帰ろう?クタクタなんでしょ?」
「え?なんでわかったの?」
姉の神通力に、裕一は白旗を上げざるを得なかった。愛海には何でもお見通しなのである。
「ふふ。お姉ちゃんに見抜けないことなんてないの。どうする?公園に寄る?それとも、真っすぐ家に帰りたい?」
「いや、お姉ちゃんの言う通りにするよ。喉も乾いたし、ジュースでも飲もうかな」
二人は家に最寄りの駅で降りて、星ヶ崎公園で休むことにした。公園には誰もおらず、閑散としている。元々ひと気のない小さな公園だが、今はもっと寂しい感じがする。
裕一はベンチに座り、ホットの缶コーヒーを飲んだ。この甘ったるい味が、疲れ果てた今の身体によく沁みた。気持ちが落ち着いて来る。
裕一はふと空を見上げた。今日は朧月夜だった。煙のような薄い雲に覆われて、月は鈍い光を発していた。
「今日は楽しかったね。遊園地なんて久しぶりだったし」
「うん。でも、まさかお姉ちゃんが絶叫系が得意なんて、知らなかったよ」
人生初のジェットコースターに乗って、裕一は腰を抜かしそうになっていた。降りた直後は、まるで生まれたての小鹿のように足がガクブルしてしまった。
だが、愛海は怖がるどころか、むしろ大好物だったらしく、その後にもう一回乗ったのである。もちろん、隣に裕一を乗せて。
「お姉ちゃんのこと、トロくて頼りないって思ってたでしょ?これでも意外と度胸あるのよ?」
「あんなに怖い乗り物に乗ってるのに、ゲラゲラ笑ってる人なんて初めて見たよ。度胸とかそういうレベルの問題じゃないと思うけど、やっぱりお姉ちゃんは凄いや。僕の自慢のお姉ちゃんだよ」
弟に褒められて、愛海は恥ずかしそうに笑った。彼女の朗らかな表情が、より一層緩んだように見えた。
「それにしても、今日は一緒に来てくれてありがとう。お姉ちゃんがいなきゃ、今日のデートは乗り切れなかったよ」
裕一は愛海のサポートに感謝の言葉を捧げた。唯織との会話に詰まった時、愛海はすぐ助太刀をして場を持たせてくれたのである。彼女が居なければ、デートは悲惨なことになっていただろう。
「まあ、裕一の面倒を見るのは慣れてますから。えっへん!お姉ちゃんにはいっぱい感謝して欲しいな。あとで肩でも揉んでもらおうかしら?」
「あはは。お姉ちゃんったら整みたいなこと言うんだね。全然いいよ。十回でも百回でも揉んであげる」
裕一は飲み干した缶を捨ててベンチから立ち上がる。背筋を伸ばしながら、疲れた身体を夜風に晒す。ひんやりとした風が気持ちいい。
「でも、どうして来てくれたの?お願いした僕が言うのも変なのかもしれないけど、やっぱり僕のことが心配だった?」
「もちろんよ。だって、裕一が整ちゃん以外の女の子と長く一緒にいれるわけないじゃない?でも、それだけじゃない。私が一緒に来たのは、それだけじゃないの……」
愛海は言葉に詰まった。これ以上、自分の素直な気持ちを話していいものか、まだ迷いがあった。
そしてこれは最後の迷いだった。この一線を踏み越えたら、二人はもう二度と元の関係には戻れないかもしれないと、愛海は直感していた。
童顔の裕一は、幼い頃から変わらない、優しそうな瞳で姉のことを見ていた。彼女の次の言葉を静かに待っていた。
彼のこの無邪気な目を見ていると、自分の本当の気持ちを隠して、適当な嘘で誤魔化す気にはなれなかった。愛海は一歩前に進むことにした。引き返せない領域に突入する覚悟を決めたのである。
「私ね……嫌だったの」
「嫌?何が?」
「私がいないところで裕一が他の女の子と二人っきりになるの……。最初は気づけなかったけど、途中で自分の気持ちがわかったんだ。こんなのおかしいよね。私たち姉弟なのに、そんな風に思っちゃった……」
「お姉ちゃん……!?」
裕一は姉を驚愕した面持ちで見つめた。手を後ろに回した彼女は、恥ずかしそうにもじもじしていた。
「この前の返事、してあげる。私も裕一のことが好き。好きになっちゃったの」
愛海は前に進み出て、裕一の唇に接吻した。花びらのような愛海の唇は、裕一の唇を掴んで離さなかった。姉弟しかいない公園で、男と女は愛し合っていた。
愛海の方から仕掛けるのはこれが初めてだった。それは愛海の思いそのものを表していた。今まで裕一の求愛に流されるがままになっていた彼女は、ようやく一人の女として、彼の思いに応える決意を固めたのである。
「……んっ」
愛海はやっと唇を離した。二人の甘美な時間は、一瞬のように短く、同時に、永遠のように長かった。数字で測ることのできない時間が、今ここに流れていた。
「私の中にも、裕一を異性として思う気持ち、あるよ?自分でもびっくりしちゃうんだけど、確かにある。裕一を愛する気持ちが、ここにあるの……」
愛海は自分の胸に手を当てて、激しく疼く心の音を感じていた。それはせわしないリズムだったが、決して不快な感じではなく、むしろ心地よかった。この激しい動きに全てを委ねたいとすら思っていた。
裕一は歓喜した。心の雨が止み、全てが晴れやかになっていくのを感じた。
「お姉ちゃん!」
裕一は愛海の柔らかい身体に腕を回して抱擁した。胸同士がくっついて、お互いの鼓動の音を聞き合った。
裕一も愛海も激しい音楽を奏でていた。二人の音は共振し、一つに融け合って、完全に同じタイミングで響いていた。
「で、でもね、これは裕一に本当のカノジョが出来るまでよ?わかった?」
「お姉ちゃん以外の女性なんか、好きになるもんか」
「裕一……」
「お姉ちゃんは世界で一番優しくて、一番可愛くて、一番素敵なんだ。他の子じゃ代わりにならないよ。僕はお姉ちゃんだけが好きなんだ。好き、好き、好きだよ……。お姉ちゃん……」
裕一は切なそうな声で鳴いた。自身の愛の言葉を証明するように、彼は愛海の背中に回した腕に力を入れて、もっと強く抱き締めた。苦しいくらいの力で愛海は抱かれていた。
愛海も裕一に姉以外のカノジョができるなんて露ほどにも思っていなかった。先程の逃げの言葉はただの建前に過ぎない。裕一に本当のカノジョができる日など、永遠に来ないのだ。だって、弟は他者に心を開くことができないから。
「うん、お姉ちゃんも裕一のことが好きよ?あなたの代わりは誰もいないわ」
「本当?僕、自分で言うのもあれだけど、情けないやつだから……」
愛海はお返しとばかりに、裕一の背中に回した腕にぎゅっと力を入れた。姉からの精一杯の励ましだった。弱音を吐く弟を鼓舞しようとしていたのだ。
「馬鹿なこと言うんじゃないの。いくら裕一が臆病だからって、お姉ちゃんが他の男の人を好きになるわけないでしょ?この世界で私と同じものが流れているのは、あなただけじゃないの」
「同じもの?」
「私たちはこの世の他のどんな人にもないあるものを共有している。それは、血よ。私たちは血を分けた姉弟……。同じ血が流れているのはあなただけよ……」
裕一は自分の体内で二十四時間動いている血の流れを意識した。それは父と母から与えられた、二人を結び付ける永遠の絆だった。
この世には、裕一よりも素敵な男性や、愛海よりも美しい女性はごまんといる。だが、父と母の血を分けたのは、この世でたった二人だけなのだ。
「血……」
「要は姉弟の絆ってことよ。だから心配しないで?この先、どんなかっこいい男の人が現れたって、私は心を奪われないよ。だから、裕一も約束して?どんなに素敵な女の人が現れても浮気しちゃダメだよ?」
「も、もちろん!絶対に浮気しないよ!」
裕一は自分の胸を叩いて、一途であり続けるという決意を表明をした。だが、愛海は揺さぶりをかけてみる。
「じゃあ、涼風唯織さんに告白されても、ちゃんと断れる?ノーって言えるの?」
「言えるよ!もともと涼風さんのことは好きじゃないし、簡単だよ!」
「本当?じゃあ、整ちゃんにも言える?」
「整にはそういう気持ちは持ってないって、この前言った通りだよ!整に殴られたって、絶対に断るから!」
裕一は顔を真っ赤にして叫んだ。明らかに無理をしていた。臆病な弟のことだから、ちゃんと断ることができずに、また姉に助けを求めるに違いない。
だが、虚勢でも嬉しかった。愛海は裕一のことを、一応は信用することにした。
(うふふ。男の子の背伸びってなんだか可愛いな)
愛海は裕一と手を繋ぐ。人生で初めてできた彼氏の手は、男にしては線が細かったが、それでも頼りがいがあった。よく知っている、なじみ深い手だった。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか?お母さんも心配してるだろうし」
「うん、お姉ちゃん」
二人は手を繋いだまま歩き出した。彼氏彼女となった愛海と裕一は、家に着くまで手を離すことなく、歩き続けた。