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君の恋、雨の色  作者: 石戸龍一
第三章 僕と姉と恋と
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第一話 姉妹のように

新築が立ち並ぶ街の一画に、小さなボロ家が建っていた。あたかも周りの新しくて立派な家々に遠慮しているかのように、その家の背は低く、外装も貧相なもので、慎ましやかに己の存在を主張していた。


これが裕一と愛海の住む家だった。今日は土曜日で、母は休日出勤で家にいない。裕一もおつかいを頼まれて外出中である。家にいるのは愛海だけだった。


「ふんふ~ん♪ふふふ~♪」


愛海は昼食のうどんを作りながら、ご機嫌な気持ちで鼻歌を歌っていた。がらら。扉が開く音がする。


「お邪魔しまーす……って、あれ?裕一は?」


弟の親友の雨野整だった。暇を持て余して、傘馬家に遊びに来たようだ。


「裕一はお買い物だよ。整ちゃんはどうしたの?」


「あたしはね……ふふ!やっぱりジャストタイムだね!ちょうどお昼時だと思ってたんだ!」


整の目的は愛海の料理だった。家に入った瞬間から、醤油とだしの良い匂いが漂っていた。整は台所に入って、きつね色に輝くうどんのスープを見る。ごくり。思わず喉が鳴った。


「やっぱり私の料理目当てだったのね?そう思って三人分作っておいたの。一緒に食べよ?」


「その言葉待ってましたー!さすが愛海お姉さま!気が利くったら利きまくってるぅ!」


整は手を叩いて喜んだ。愛海の料理は彼女の大好物だった。味付けはやや薄めだが、その薄さがまさに絶妙で、もっと味わいたくなるような奥ゆかしさを持っている。こんな素晴らしい味は、他のどの定食屋でも味わえなかった。傘馬家でしか楽しめないグルメなのだ。


「でも、整ちゃんはいいの?ご両親を放っておいて勝手にお昼食べちゃって大丈夫?」


「そんなの別に気にしなくてもいいのよ。あたしの家は、いつものコレだからさ」


整はポケットから一枚の紙幣を取り出した。千円札だった。これで好きなものを食べて来いという意味である。なら、大好物を食べさせてもらおうと、整はこの家に来たのだ。


雨野家は良くも悪くも放任主義だった。お金を与えて整の好きなようにさせてやるが、その代わりに、自分の娘に関わりを持つつもりもない。お互いに不干渉であるべきだ。そういう独特な教育方針を採っている家庭だった。


整は別にそれで構わなかったが、本音を言うと少しだけ寂しかった。なんだか親に見捨てられたような気分になることがあった。


そういう気持ちを抱くと、自然と傘馬家に足が向いた。なぜなら、ここには家族同然の、いや家族以上に親しい傘馬姉弟がいるのだから。


「ねぇ、愛海さん。あたしもちょっと手伝おうか?」


「いや、いいのよ。もうすぐ完成するから。整ちゃんにも悪いし」


愛海は丁重にお断りした。客人の手をわずらわせるわけにはいかない、というのは建前である。本当の理由は別の点にあった。


(整ちゃんが料理するとなんでも辛くなっちゃうんだもん……)


整はクッキング・クラッシャーとして愛海を恐れさせていた。彼女が少しでも料理に手を加えると、なんでも激辛料理に変貌してしまうのである。プリンを作っていたはずなのに、気がついたら真っ赤なスライム状の物体が出来ていた時もあった。


刺激が足りなくて、辛味調味料をしこたまぶち込んでいるに違いなかった。こんな料理オンチを厨房に立たせるわけにはいかない。


さて、遂にうどんが完成した。裕一はまだ帰って来ない。


(あの子ったらどこで道草食ってるのかしら……)


愛海は携帯を見た。連絡は何も来ていない。もしトラブルに巻き込まれていたら、電話の一本や二本、来ているはずだろう。きっとお店が混んでるとか、その程度のことに違いなかった。


「整ちゃん。先に食べちゃおっか?麺が伸びちゃうかもだし」


「りょーかい!いや~!お腹がペコペコでもう待ち切れなかったんだよねぇ!裕一なんか待ってたら飢え死にしちゃうよ!」


「ふふ。整ちゃんったら大袈裟ね」


二人は食卓につき、うどんをすすり始める。机の上には読みかけの愛海の本が置いてあった。『星空の恋』というタイトルのようだ。


「それって恋愛小説?有名?」


「え?あ、ああ。これね。図書館で見つけたんだけど、タイトルに惹かれてなんとなく借りて来たの。別に大した内容じゃなかったけど……」


愛海は照れながら本を鞄の中にしまった。それは織姫と彦星の逸話を現代風にアレンジした純文学だったが、内容も陳腐だし、なんだか固い文章で読みづらかった。愛海は駄作とみなしていた。


「恋愛……か」


今まで止まらなかった整の箸が、ぴたりと止まった。愛海も箸を止めて、悩ましい顔をしている整を心配そうに眺めていた。


「裕一ってさ、最近好きな人できたって言ってる?」


「え……!?」


和やかな休日のお昼時が、一挙に緊張感溢れるものに変貌した。今の愛海にとって、弟の恋愛事情は敏感にならざるを得ないテーマだった。


「ど、どうしてそんなこと聞くの?」


「いや、だって裕一ももう高校生でしょ?あたし、好きな人できたのってこの前聞いたんだ。そうしたら、あいつなんて答えたと思う?全然いないなんて言いやがってさ。逆に心配になるじゃん?いい年した男子高校生が、好きな人どころか気になる人もいないなんてさ」


整は再び食事を再開した。ちゅるりと麺をすすった。


「ただの照れ隠しなのか本当にいないのか……。愛海さんはどっちだと思う?」


「さ、さあ……?あの子、友達も全然いないし、恋愛とかはまだ早いんじゃないかな……」


「そんなことないと思うけどなぁ。あたしのクラスでも、誰が好きだとか誰に告ったとか、そんな話題ばっかりだもん。やっぱり恋愛あっての高校生活だと思うし、それは裕一だって同じことじゃん?」


愛海は裕一の告白を思い出した。バイト帰りの時、夜空の下で裕一は勇敢に叫んだ――。


『僕はお姉ちゃんのことが好きなんだ!愛しているんだ!』


整の言う通り、やはり裕一にも好きな相手がいた。だが問題は、その相手が()()()()()()()()()()()――。


あの告白劇は姉弟だけの秘密だった。長年の付き合いのある雨野整相手でも、決して言えない秘密だった。


愛海は一人で悩み、食欲が失せるほどショックを受けていた。今だって、裕一の告白のことを思い出して、箸が一ミリも動かなくなっている。


「愛海さん?どしたの?うどん、伸びちゃうよ?」


「え?あ、ああ。そうね。早く食べないと、伸びちゃうよね……」


愛海も麺をすすり始めた。さっきまで美味しい味がしたのに、今のうどんは粘土みたいな味だった。冷たい汗がぽちゃりと器の中に落ちた。


「裕一も男の子だからねぇ?あたしも愛海さんも知らないところで勝手にカノジョでも作ってるのかなぁ?少なくとも、気になる子くらいは絶対にいるに違いないし。親しいからこそ逆に言い辛いのかな。まあ、あたしに隠れてカノジョなんて作ってたらマジでめるけどね。にしし♪」


整はいつもの悪戯っぽい笑顔を浮かべた。他方、愛海の顔は蝋人形ろうにんぎょうのように青白かった。


「もしかして、逆に女の子の方から告白されてたりして?もしそうだったら、愛海さんも動揺する?大事な弟を他の女に取られちゃう~ってさ?」


「動揺もなにもあり得ないよ。あの子、モテないもん」


姉の残酷な一言に、整はゲラゲラと笑いだした。


「あははっ!愛海さんも意外とはっきりと言うねぇ?今の聞いたら、裕一傷つくよぉ~!?がっつりヘコむと思う!下手したら二度と立ち上がれないかも!愛海さんもそう思うでしょ?」


「どうだろうね……」


憂鬱ゆううつな愛海とは違って、整はハイテンションで喋り続けていた。同じテーブルを囲みながらも、二人の間には明確に境界線が引かれていた。愛海は整が自分とは違う世界に住んでいるなと思った。


(整ちゃんは私と裕一のことを何も知らない。だから、そんな風に明るくいられるのね……)


まだ裕一が告白する前の、普段通りの日常の世界にとどまっていられる整のことを、愛海は羨ましいと思った。あの出来事を無かったことにして、愛海もそっちの世界に戻りたいと願っていた。だが、それは不可能な夢だった


「ねえ、お代わりしてもいい?どうせ麺も伸びちゃうしさ、裕一の分も食べちゃっていいよね?」


「いいよ。好きにして」


「おっしゃあ!いただきまーすっ!」


整は器を持って台所に駆け込んだ。あまりに元気発辣げんきはつらつな整を見て、暗く沈んでいた愛海の心も少しだけ明るくなった。


(こうやって話してると、なんだか整ちゃんのことを妹みたいに思っちゃう。長くずっと一緒にいるからかな……)


お代わりを持ってきたご機嫌の整は、頬杖ほおづえをついて、微笑を浮かべながらこちらを見る愛海のことが気になった。今日の愛海の様子はちょっとおかしかった。今も箸が動いていない。


「愛海さん?やっぱりどうしたの?なんか今日は様子が変だよ」


「ううん。なんでもないの。整ちゃんみたいな子が妹だったら嬉しいなぁって、そう思ってただけ」


「あたしが愛海さんの妹?」


「そう。私の勝手なイメージなんだけどね、整ちゃんって妹みたいな性格してるなって思うの。ハキハキしてて、甘えん坊で、年下らしくて……。まさにザ・妹って感じなの」


「それ、遠回しにあたしが幼稚だって言ってる?」


「ち、違うの。そういう悪い意味で言ったんじゃなくて……」


愛海は整に誤解させてしまったと困っていたが、これは彼女の策略だった。


言葉巧みに相手を誘導し、自分が悪いことを言ったと相手に思い込ませて、冤罪えんざいなすり付ける。整の悪戯心いたずらごころが編み出した話術だった。毎回見事にはまってくれる愛海は、整にとって貴重な存在だった。


オロオロと困った愛海を見て堪能して、整は満足そうに笑った。


「あはは。わかってるって。愛海さんは純粋な気持ちでそう言ってくれたんでしょ?」


「そ、そうよ!もう!わかってるなら変なこと言わないでよ。整ちゃんったら性格悪いんだから。ふふ」


こういうやり取り自体がどことなく姉妹のようだった。毒舌で小悪魔な妹と、それに振り回される姉の構図である。


「でもさ、あたしにとっても愛海さんはお姉さんみたいな感じかな。昔からそう思ってたよ?」


「え?整ちゃんもそうなの?」


「あたしがまだ小さかった頃はさ、両親の帰りが遅い時とか、この家で面倒見てもらってたじゃない?そんな時、自分の家にも愛海さんみたいなお姉ちゃんいればいいのにっていつも思ってたのよ」


「そんなこともあったね」


傘馬家と雨野家は昔から親しく付き合っていた。父母の帰りが遅くなる場合、一人っ子の整は傘馬家に預けられていた。愛海が裕一と一緒に整の面倒も見ていたのである。当時は本当の姉妹のような関係だったのだ。


愛海はまだ小学生くらいの整を思い出した。あの頃の整は腕白わんぱくなガキ大将で、いつも裕一と喧嘩ばかりしていた。勝つのはいつも整だが、友達に手をあげてしまったことがちょっとショックで、一人で物陰で泣いていた。そんな時、愛海は整を優しく抱き締めてあげたものだった。


あの頃と比べると、雨野整は急成長した。悪戯っぽいところは昔と変わらないが、心も体も年相応の強さを身につけていた。まだ、他者に心を開けないでいる弟とは対照的である。


(整ちゃんが裕一のカノジョになってくれたらいいのに……)


愛海は心の底からそう思った。二人はいつも仲良くしてるし、長い付き合いもある。この元気な幼馴染が裕一のそばに居てくれれば、姉としても十分に安心することができる。


もし整と裕一の間で関係が成立すれば、今の自分と弟との関係よりも遥かに健全且つ望ましいことだろう。


(整ちゃんにその気があれば、だけどね)


整自身の気持ちも重要だった。愛海は思い切って尋ねてみることにした。


「さっきの好きな人の話の続きなんだけど、整ちゃんはどうなの?」


「え?あたし?」


「うん。整ちゃんは好きな人できた?」


「げほげほ!きゅ、急に変な質問しないでよ!」


喉にうどんを詰まらせた整は、自分の胸をドンドンと叩いた。


「年頃の男女に好きな相手ができるのは普通のことなんでしょ?ストレートに言うわね?整ちゃん、裕一のこと好き?」


「な……!?」


整は胸がカーッと熱くなるのを感じた。彼女は裕一のことが好きだった。だが、まさか姉の方からそうなのかと尋ねられるとは予想さえしてなかった。不意を突かれた彼女の胸中は、一気に大荒れとなった。


(あたしは……!)


愛海の顔は普段通り優しそうだったが、真剣な調子を帯びていた。整のようにジョークのつもりで言ってるわけではなかった。彼女の眼差しは本気だった。


「そ、そんなわけないじゃん!あははっ!裕一は幼馴染で親友だけど、恋人とは違うの!そういうのとは全然違う!」


整は愛海の言葉を否定した。だが、その声は震えていた。心と言葉が一致しない時、人はこうなるのである。整は嘘をついていた。本心とは裏腹の言葉を喋っていた。


「だから、その、愛海さんの期待は嬉しいけど、あたしは裕一とそういう関係になるつもりはないから……」


「そっか……。残念。整ちゃんみたいなしっかりした子と一緒なら、裕一も幸せになれると思うんだけどなぁ」


愛海はがっかりした。もし整にその気があるなら、裕一の恋心を彼女の方にらせることができるかもしれない。そうすれば、このあやうい関係も終わらせることができたのに。


「あれ?裕一からメッセージが来てる」


愛海は携帯を見た。どうやら頼んでいたものが品切れで、隣町のスーパーまで行っていたらしい。あと十分くらいで家に着くとのことだった。


愛海は裕一を待ちながら、整としばらく談笑する算段でいた。だが、彼女は突然席を立った。


「あ、あたし……帰る!」


「え?でも、あと少しで裕一も戻って来るって言うし……」


「ごめん!用事思い出してさ!ごちそうさまでした!」


整は逃げるようにして傘馬家から出て行った。顔を上げられずに、足元だけ見て大股で歩いていく。


(あたし、愛海さんの前でも嘘ついちゃった。裕一のこと好きなのに……)


自分に腹が立ってしょうがなかった。実の姉のように親しくしている相手にすら、自分の気持ちを打ち明けられない小心さが許せなかった。整は逃げたのだ。愛海の問いかけを前にして、尻尾を巻いて逃げ出したのである。


(あたしは愛海さんが言うようなしっかり者じゃない!自分の気持ちに正直になれない馬鹿野郎なんだよ!ああ!もう!あたしの馬鹿!なんで逃げたのよ!あたしの臆病者!弱虫!いじけ虫!)


自責の言葉が止まらなかった。早足が駆け足にグレードアップする。どんっ。誰かとぶつかってしまった。


「あ、整」


「裕一……」


肩をぶつけた相手は裕一だった。彼はきょとんとした顔で整を見ていた。彼は手にビニール袋を持っており、その中には今日の晩御飯の材料が入っていた。


「僕の家の方角から来たけど、さっきまでいたの?ゆっくりしていけばいいのに」


何も知らない裕一は微笑を浮かべていた。整の好きな表情だった。のほほんとしたオトボケ顔だが、どこか憎めなくて、ほんわかとした優しさを伝えてくれる、そんな顔である。


「いやぁ。今日のお昼はうどんって聞いてたから楽しみなんだよね。お姉ちゃん、料理してなかった?整も食べてく?」


「裕一、愛海さんのこと……好き?」


「え?もちろん好きだけど、それがどうかしたの?」


「そっか。なら、いい」


「あ、おい。整?」


整は裕一とすれ違い、彼の家とは逆方向に進んでいく。裕一は幼馴染から意味深な質問を受けて、頭上にクエスチョンマークを浮かべていた。


整は振り返って、裕一を呼び止める。


「あと、帰りにコンビニにでも寄っていきなさいよ!あんたのうどんはあたしが頂いたからさ!」


「げげ!?嘘だろ!?」


「嘘じゃありませんよーだ!あはは!じゃあね!裕一!」


整は再び歩き出す。彼女の頭の中には、愛海と裕一が楽し気に会話しているイメージが浮かんでいた。


(そうだ。これでいいんだよ。だって、あたしなんかが邪魔しちゃいけないじゃん)


彼女が自分の思いを披歴ひれきできない理由は、ただの照れ隠しだけではなかった。自分の思いを優先することで、愛海から裕一を奪ってしまうのではないかと心配していたのだ。


(仲良し姉弟はあのままでいい。少なくとも愛海さんが仕事に就くまでは……)


愛海は高校三年生で、今年で卒業となる。当然大学に進学するような家計の余裕など傘馬家にはなかった。愛海は高卒のまま就職することになる。整もそれを知っていた。


そうしたら、裕一は大好きな姉と一緒にいれる時間が少なくなる。社会人になれば弟に構う暇も無くなるだろう。今までのような仲良し姉弟でいられるのは、今年が最後なのだ。


そんな貴重な一年を、自分の恋心を優先して台無しにするわけはいかなかった。姉弟の異常な関係など露ほども知らず、”妹”は姉のことを気遣っていたのだ。

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