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君の恋、雨の色  作者: 石戸龍一
第二章 恋心は若葉の如く
14/96

番外編 ブラジャー盗難事件

(今日も平和だな……)


裕一は机に突っ伏しながら、そう思っていた。良いことも悪いことも何もない退屈な一日である。学校にいれば何か起きそうなものだが、今日という今日は完全なる平穏無事ピースフルであった。裕一は放課後の自由時間をただぼんやりと過ごしてた。


だが、これは嵐の前の静けさに過ぎなかった。こんな無風日むふうびに限って、大事件が起きるものである。


裕一はスマホのランプが点滅していることに気がついた。メッセージが来ていた。送り主は愛海だった。


<助けて>


「ええ!?」


シンプルな文面であるがゆえに、逆に危機感がより一層伝わった。裕一は急いで姉に電話をかける。愛海はすぐに出てくれた。


『裕一?裕一なの?』


「お姉ちゃん、大丈夫?何かあったの?」


『そ、そのね、話すと長くなるんだけど……とにかく今は身動きが取れないの。申し訳ないんだけど更衣室まで来てくれる?』


「更衣室?えっと、もちろん女子更衣室だよね?」


『うん……。恥ずかしいかもしれないけど、体育の授業はもう終わってるし、今は私とみほちゃんしかいないから大丈夫。三年の校舎から行けるから、すぐに来て。お願い』


「わ、わかったよ!お姉ちゃん!」


裕一はダッシュで更衣室に向かった。三年の校舎と更衣室を繋ぐ廊下は閑散としている。人影一つ見えなかった。


裕一は誰かに見られないように周囲に注意を払いながら移動し、更衣室のドアを静かにノックする。愛海の『いいよ』という返事がすぐに返って来た。


がちゃり。裕一は扉を開けた。


「ごめんね、裕一。急に呼び出しちゃって」


「おっす!裕一くん!」


中には愛海と美帆子がいた。美帆子は既に制服に着替えていたが、愛海は裸にタオルを一枚羽織っただけの、セクシーな状態だった。裕一は姉の身体を見ないように目を背けた。愛海は弟の視線を意識して、胸の谷間を隠した。


「じ、実はね……私のブラジャー、盗まれちゃったの」


「お姉ちゃんの下着が?どうして?」


「そんなのお姉ちゃんに聞かれてもわからないわ。裕一に頼みたいのは、保健室に行って予備の下着を借りてきて欲しいの。保健室って体操着とか下着とか、何着かストックしてるのよ。知ってた?」


保健室には、衣服が濡れたり、汚れてしまった時用の備えがあるのだ。


「さすがに何もつけないで帰るわけにはいかないの。汗で透けちゃうかもしれないし、その……見えちゃいけないものが見えちゃうかもしれないし」


”見えちゃいけないもの”とはなんだろうか?少年の想像力は膨らむばかりである。しかし、美帆子は何の躊躇ためらいもなく具体的に述べようとする。


「たとえば、愛海のちく……」


「みほちゃん!裕一の前でそんなこと言わないで!怒るよ!?」


おっとりとした愛海の優し気な顔が、一瞬で般若のように変わった。親友に叱られて、さすがの美帆子も口をつぐんだ。普段怒らない人が怒ると怖いものである。


「と、とにかく事情はわかったよ。すぐに取って来るから、お姉ちゃんと美帆子さんはここで待っててね」


「いや、待ってくれ弟くん。君はそれでいいのかい?」


美帆子は裕一を呼び止めた。しかし、裕一は彼女の質問の意図がわからず、きょとんとした顔をしている。


愛海の親友は分厚いレンズの奥にある瞳をギラギラと輝かせて、いまいちピンと来ていない裕一に疑問を投げかけた。


「君は愛しのお姉ちゃんのブラを盗んだ不届き者を成敗したくないのかい?姉の下着が他人の手に渡ったままになってるなんて、悔しいとは思わないのかい?弟として、そんなことを許していいのかい?」


「うぅ……!それは確かに……!」


美帆子の意見にも一理あった。自分の姉の下着を盗まれるなんて屈辱だし、できることなら、犯人を叩きのめして下着を取り返したいと思っていた。保健室から代わりのブラを持って来て、はい終わりとはいかない。


裕一は保健室へは行かず、美帆子の言葉に耳を傾けることにした。


「あたしの推理に拠れば犯人はまだ校舎内にいる。授業が終わって、愛海がシャワーを浴びている数分の間に盗まれたんだ。まだ放課後になってからそれほど時間も経ってないし」


「今ならまだ間に合うってことですね。でも、たくさんの生徒の中から犯人を見つけ出すなんて、僕にできるかな」


「女子更衣室だから犯人は女性で確定。六時間目が体育だったのは、あたしたち三年一組と三年四組だけ。だいぶ候補が絞られてきたんじゃない?」


つまり、体育の授業の後に更衣室を使っていた、三年一組と四組の女子生徒の中に犯人がいるということだ。犯人候補はざっと三十人以下に限定された。しかし、それでも捜査には困難があった。


「でも、どうやって探せばいいんだろう?一人一人荷物検査するわけにはいかないだろうし……」


そんなことをしていたら夜になってしまう。現実的な方法ではないだろう。


だが、美帆子はこの点に関しては全く気にしていなかった。裕一の肩に手を乗せて、自信満々に親指を立ててグーサインをした。


「心配はご無用さ!ほら!愛海のブラのことを考えてごらん?」


裕一はすぐに合点がてんがいった。ぽんっと手を叩いた。


「そうか!あんなに大きいブラジャーなら、いちいち荷物検査しなくてもすぐに見つかりますよね!」


「そうそう!さすが弟くん!お姉ちゃんのことをよくわかってるね~!」


愛海の胸は常人のソレを遥かに超えたサイズをしている。ブラも巨大である。小さなものより大きいものの方が見つけやすい。自然のことわりだった。


ゴゴゴ!裕一と美帆子は背後に燃え立つ怒りの炎を感じた。愛海は胸がコンプレックスであり、そこをいじられるのが一番嫌いだった。今の愛海は般若を超えて鬼の形相だった。普段の菩薩フェイスは見る影もない。


「裕一?みほちゃん?今からじっくりと話しましょうか?」


「ご、ごめん!お姉ちゃん!僕、下着探しに行かなきゃいけないから!」


裕一は逃げるようにして更衣室を出て行った。置いてかれた美帆子がどんな目に遭ったのか、想像すらしたくなかった。



さて、ブラジャー盗難事件の犯人捜しをすることになった裕一だが、一人では心許こころもとない。とりあえず、裕一は友人の整を頼ることにした。彼女は自分の教室で友達と話している最中だった。


「整。ごめん、ちょっといい?」


「ん?裕一?あ、ごめん。今日は用事できたみたいだから、じゃあね」


裕一は整を連れ出して事情を説明した。そして、捜査に協力してくれるように整にお願いする。


「……というわけなんだ。いきなりで悪いけど、犯人探しを手伝ってくれないかな?」


「あたしは別にいいけど……。でも、なんでそんなもの盗んだんだろうね?あのサイズに合う人なんて、この学校でも愛海さんくらいしかいないと思うけど。ぶかぶかの下着なんて持ってても意味ないでしょうに」


犯人の動機は謎に包まれているが、とりあえず整が仲間に加わった。


二人はさっそく三年生の校舎に移動した。最後に女子更衣室を使っていた一組と四組の教室を覗いてみることにする。何か怪しい人物がいないかどうか探りを入れてみたが、なかなか見当たらない。


しかし、探索の最中に整が手掛かりを見つけた。


「ん?これって、愛海さんのブラがほつれたやつじゃない?ほら、この糸クズ……」


「え?どれどれ?」


整の優れた視力は、広大な廊下に落ちている一本の糸すら見逃さなかった。薄ピンク色の合成繊維の糸は、間違いなく愛海の下着に使われているものだった。貧乏な傘馬家では、糸が多少ほつれたくらいでは買い替えないのだ。犯人がブラを持ち歩いている時に、糸が千切れたか落ちたかしたのだろう。


「こっちにも落ちてるわね。方向的にはあっちか。行ってみよう?」


「うん。さすが整だね。小さすぎて僕には全然見えないや」


糸クズは等間隔を維持しつつ、連続的に床に落ちていた。二人は糸の落下地点を辿っていく。そのうちに校舎の外に出てしまった。糸クズは最終的に体育館の扉の前で途切れていた。


「ということは、愛海さんのブラも犯人も体育館の中にいるってことだよね?」


「うん。整の言う通りだ。さっそく中に入ってみよう……」


緊張感に満たされつつ、体育館の扉を開いた。


「こっちこっちー!ほら!もっと早くパスする!」


「はい!」


室内は女子バスケ部が使っており、練習に熱中していた。裕一と整のことなど全く気にも留めていないようである。はたして、この中に下着泥棒の犯人がいるのだろうか?


(見当違いだったかな?ただ女バスが練習しているだけだ……)


裕一が諦めて体育館を出ようとしたその時、整はあるバッグに注目した。


「ああ!?裕一、見て!あのバッグよ!」


彼女は紺色のスポーツバッグを指差した。一見すると普通のバッグだが、よく目を凝らしてみると、バッグの口から薄ピンク色の紐のようなものが飛び出していた。


「あれって愛海さんのブラじゃない?そうに違いないわ!」


「そうだね!確認してみる!」


裕一はバッグの中身をあさった。探していた愛海のブラがいよいよ見つかるのだろうか?犯人は女子バスケ部の中にいるのだろうか?


「ん?あれ?」


だが、出てきたのは愛海の下着ではなく、桃色のキャミソールだった。どうやら整の見間違いだったようだ。キャミソールの肩紐をブラの紐だと思い込んでしまったらしい。


裕一は期待外れの結果に、ガックリと肩を落とした。


「はぁ。なんだ……」


「おい。なにため息ついてんだよ、傘馬」


背後に裕一の天敵である上川佳澄が仁王立ちしていた。明らかに怒っていた。


「うげぇ!?なんで上川さんがここにいるの!?」


「理由を聞きたいのはあたしの方だ!人のバッグをなに勝手に漁ってんだよ!?」


なんということだろう。この紺色のスポーツバッグ、実は佳澄のものだったのである。


「じゃ、じゃあ、このキャミソールも上川さんの?」


「そうだよ!それはあたしの私服だ!部活が終わったら着替えようと思ってたんだよ!文句あっか!?」


裕一は急いで彼女のキャミソールを戻した。焦って戻したから、クシャクシャになってしまった。


「ご、ご、ごめんなさい!その、ホントに……ごめんなさい!えっと、あの、その……!」


急転直下、裕一は地獄に叩き落とされてしまった。運が悪いことに、普段から苦手にしている佳澄の私物を勝手に触ってしまったのだ。


怒った佳澄はいつもより十倍怖かった。裕一は死ぬほど萎縮してしまい、自分のことをアリのように感じていた。


さすがに可哀想だと思ったのか、整が助け舟を出す。


「へぇ。佳澄って意外と可愛い趣味してんじゃん。普段のイメージとは全然違うわね」


「な……っ!?あたしがキャミ着てたら悪いっていうのかよ!雨野に文句言われる筋合いはねぇ!」


佳澄は声を荒げたが、どう見てもただの照れ隠しだった。可愛いと言われたのが恥ずかしかったらしい。普段の強面こわもてが珍しく緩んでいた。


「雨野の馬鹿野郎!早く出て行きやがれ!」


佳澄のスナップの効いたビンタが炸裂する。整は持ち前の動体視力で易々とかわした。そして、ビンタは隣にいた裕一に当たった。


パァン!痛そうな音が鳴り響いた!


「うぎゃあ!?」


思わぬ流れ弾を食らい、裕一は床の上に倒れ込んだ。本来の敵は仕留め損なったが、気が清々(せいせい)したのか、佳澄は練習に戻っていた。整は哀れな幼馴染の姿に、ぷっと噴き出していた。



裕一の足取りは重かった。頬がジンジンと痛んでしょうがない。他方、ノーダメの整はさっきのビンタのことなど既に忘れているらしく、犯人の見つけるための次なる策を練っていた。二人はもう一度校舎の中に戻ることにした。


なんだか校舎が騒がしかった。生徒たちはある一定の方向を見て、スマホをかざしたり、わーわーきゃーきゃー叫んだりしている。一体何を見ているのだろうかと疑問に思い、裕一たちも同じ方向に視線を送った。


そこには、丸くてふわふわした物体があった。ソレはテクテクと歩いていた。


「にゃあ」


どうやら猫が校舎内に侵入したらしい。いたって普通の三毛猫で、短い尻尾が可愛らしかった。猫は我が物顔で廊下の中央を歩き、生徒たちの注目をものともせずに、自由気ままにお散歩中である。


それだけならば、ただの和やかな一場面に過ぎなかったかもしれない。だが、裕一たちはあの猫を見た瞬間、飛び上がるほど驚いた。なんと、猫が愛海のブラジャーを口に咥えていたのである!


「裕一!走るよ!」


「わかった!」


これであらゆる問題が氷解した。犯人は猫だったのだ。校舎内をうろつき回っているうちに更衣室に侵入し、大きくて柔らかそうな下着を見て、ひょいとくすねてしまったのである。


二人は猫の跡を追った。突然の猛ダッシュに驚いたのか、猫も駆けだした。二人と一匹は校舎中を追いかけっこし、つかず離れずのデッドヒートを繰り広げた。


だが、裕一たちはいよいよ猫を隅に追いやった。彼女(?)の逃げ道は壁が塞いでいる。裕一と整は二手に分かれてじわじわとにじり寄り、愛海のブラを取り返そうとする。


しかし、予想外の邪魔が入った。偶然、天堂あかりがその場を通りかかったのである。


「はぅわ!?鼠男と黒猫みたいな女が一緒にいるですぅ!?」


初対面の女の子に黒猫呼ばわりされて、整はカチンときた。犯人を放置して猛抗議を始める。


「誰が黒猫みたいな女よ!?あたしには雨野整っていうちゃんとした名前があるのよ!?裕一のことは好きに呼べばいいけどさ!」


「僕はいいのかよ!?」


「その猫のようなツリ目と真っ黒な髪!今日からお前のことは黒猫と呼ぶことにしました!決定ですぅ!」


あかりは他人にニックネームをつける癖があった。裕一は鼠男、整は黒猫といった感じである。あまりに面白みのないネーミングセンスだが、そこはご愛嬌だ。


「それにしても、いくら女にモテないからって野良猫が咥えた下着に夢中になるとは!鼠男も堕ちるところまで堕ちましたねぇ!」


「人を落伍者らくごしゃ呼ばわりするな!あれはお姉ちゃんのものなの!取り返さないといけないんだからさ!」


「問答無用ですぅ!やはり、お前のような不届き者をいおりんに近づけるわけにはいかないですぅ!今ここで成敗してやるですぅ!とぅ!!」


あかりは空中に飛び上がり、一回転した!回転エネルギーを得た彼女は、足を突き出し、斜め下方向に猛スピードでキックする!


「どりゃあああああ!あかりキックゥウウウ!!!」


物理法則を無視した激しい蹴りが裕一を襲う!彼は吹っ飛び、壁に背中を打ち付けた!この騒ぎに乗じて、猫は裕一たちの隙間を縫って逃げ出した。


「ここはあたしが食い止める!裕一はあの猫を追って!」


「ぐぅ……!整!僕、今蹴られたんだぞ!?割れるくらい背中が痛いんだけど!」


「あんたも男でしょ!それくらい我慢しなさいよ!」


完全な無茶ぶりである。しかし、裕一は気力を振り絞って立ち上がった。足はもうフラフラだが、必死になって猫を追いかける。


「はぅわ!?もしかして逃げるつもりですかぁ!?そうはいきませんよぉ!」


あかりは追撃を仕掛けようとしたが、整が彼女の前に立ちふさがった。第二のあかりキックは未然に阻止されてしまう。


「そこのちっこいの!今度はあたしが相手だ!」


「ぬぅ!あかりをチビ呼ばわりするとは許せませんですぅ!そもそも、お前だって割と小柄な方じゃないですかぁ!」


「あんたほどチビじゃないわよ!あんたなんか小学生くらいの身長じゃないの!」


団栗どんぐりの背比べとはまさにこのことである。一般的な身長と比べると、はっきり言って二人とも低身長である。要はダブルチビであった。


「このチビ!小学生一年生!ロリ体形!」


「ぬわんですとぉ~!?あかりをそんな風に罵倒するとは、もぉキレましたですぅ!この黒猫ぉ!今日は決着がつくまで帰しませんよぉ!ギャフンと言わせてやるですぅ!」


「上等じゃないの!かかって来なさいよ!」


整とあかりの決戦が、今まさに始まろうとしていた――!



さて、それはともかく裕一はどうだろうか?彼は整の命令通りに猫を追っていたが、既に身体がボロボロだった。一人と一匹の距離は開いていくばかりである。


「ま、待ってよ……!ぜぇぜぇ……!それを返せったら……!」


裕一は意を決して猫に飛び掛かる。だが、猫はするりと身をひるがえして、校舎の方へぴょんぴょん飛んで行ってしまう。本気で逃げる猫を捕えるのは、風を掴むのと同じように不可能なことだった。


(くそ……!結局、僕はあいつを取り逃がしてしまうのか……!)


疲労困憊ひろうこんぱいの肉体に、これ以上鞭を打つことはできなさそうだった。疲労と絶望で今にも潰れてしまいそうだった。だが、捨てる神あれば拾う神ありである。


「にゃう」


猫は歩みを止めて、少女の脚に頭を擦りつけた。それは涼風唯織だった。彼女に相当懐いているようで、喉をゴロゴロと鳴らし、地面の上に寝転んでお腹を晒した。


「フォルテシオン?これは下着ですか?なんでこんなものを持っているんです?」


唯織は猫が地面に落としたブラを拾い上げた。人並みならぬ大きなブラをじっくりと観察し始める。だが、地に伏せている裕一にすぐに気がついた。


「裕一くん!?なんで地面の上に倒れてるんですか!?大丈夫ですか!?」


裕一はもはや自分の力で立つ余力も無かった。唯織の肩を借りつつ、なんとか立ち上がった。二人は校舎の外壁を背にして、隣り合って座った。猫は唯織の膝の上で丸くなっている。


「ありがとう、涼風さん。あの猫は君の飼い猫?」


「いえ、飼ってるわけではありません。この子は学校の近くに住み着いている野良猫なんですけど、私が勝手に世話をしていたんです。餌をやったり、動物病院に連れて行ったり、飼い主を校内放送で募集したり……」


「そっか。涼風さんが世話してる猫だったんだね。それで名前もつけたんだ。その、ふぉる……なんとかって」


「はい。この子の名前はフォルテシオンです。私、小さい頃は音楽教室に通っていて、音楽用語に詳しいんです。フォルテッシモから取りました」


唯織は膝の上の猫を撫でていた。猫は喉をゴロゴロと鳴らし始めた。


「それにしても、この下着は一体誰のものでしょうか?フォルテシオンも悪い子です。人様のものを盗んで来ちゃうなんて」


「ああ!?忘れてた!それ、僕のお姉ちゃんのものなんだよ!」


裕一はすっかり姉のことを忘れていた。愛海はまだ更衣室でバスタオル一枚の状態で待機しているのである。


「こ、これが裕一くんのお姉さんの下着?随分とご立派なものを持っていらっしゃるんですね……」


唯織はこの下着の持ち主の胸を想像して、恐ろしい気持ちになってきた。この巨大なブラに収まる胸とは一体どんなものだろう?デカいの一言では言い尽くせないほどのブツに違いない。世の中にはこんな規格外のプロポーションを持った人間も実在するのかと思うと、唯織はゾッとした。


「詳しい経緯はわかりませんけど、私のフォルテシオンがご迷惑をおかけしました。これはお返しします」


「う、うん。ありがと」


ようやく当初の目的を達成することができた裕一だが、周囲の目を意識すると素直に喜べなかった。周りの生徒たちは二人を見つめて、ヒソヒソと話していた。


「あれって三組の傘馬だよな?なんで唯織ちゃんと一緒にいるんだ?」


「唯織ちゃんはなんでブラジャーを手渡したんだよ?一体どんな取引?」


「っていうか、あのブラでかすぎない?」


学園のアイドルである涼風唯織と、全く知名度の無い傘馬裕一がなぜか一緒にいて、しかもブラジャーを手に握っており、そのサイズは見たことも無いほど異常に大きいのである。


ツッコミどころ満載の謎の場面を見て、女子も男子も首をかしげるしかなかった。裕一は背中に突き刺さる視線の雨あられに耐えきれず、下着を持ってこの場から逃げ出した。


(は、恥ずかしい……!)


だが、好奇の視線はさらに増加するばかりだった。ブラジャーを片手に廊下を全力疾走する男子生徒を見れば、誰だって変に思うだろう。


裕一は顔から火が出るような恥ずかしさを抱きつつ、愛海が待つ女子更衣室を目指した。



もう既に夕方になっていた。愛海と整と裕一の三人は、夕陽を背に下校していた。もちろん、愛海は弟が取り返してくれたものをちゃんと装着していた。


「ありがとう、裕一。なんだか色々と大変な目にあったみたいだね」


「あ、あはは。ビンタされたり、キックされたり、怪しい目で見られたり……。散々な一日だったよ」


「あとで何か買ってあげるから、元気出してね?ふふ」


ぐったりしている裕一を見て、愛海は弟の頭を撫でてねぎらってやった。だが、整がすかさず悪口を挟んだ。


「あんたらしい一日じゃん?ヘタレにはぴったりよ」


「そんな言い方ないじゃないか。っていうか、天堂さんとはどうなったの?」


裕一は整とあかりのその後が気になった。彼が愛海にブラを手渡して合流した時には、既に二人の争いは終わっていたのだった。


「まあ、色々とあったわよ?あいつ、小さいくせにパワフルでさ、なかなか捕まえられなかったのよ」


あかりを押さえつけようとする整の姿と、必死になって抵抗するあかりの姿が容易に想像できた。大喧嘩だったに違いない。整は指をポキポキ鳴らし、次戦への意気込みを語った。


「次は絶対にぶっ潰す。あのちんちくりんめ。この整さんをわずらわせるなんて許せないんだから……!」


決着はつかなかったようだ。互角の実力らしい。


「まあ?整ちゃんったら誰かと喧嘩したの?ダメだよ?そんな乱暴なことしちゃ」


「愛海さんはいつだって平和主義者だねぇ?あんな口の悪いチビに会ったら、平和ボケした愛海さんだってキレちゃうと思うけど?」


「そ、そうかしら?」


愛海はよく事情が飲み込めていなかったが、とにかくあかりという子が相当アクの強い子であるということは理解できた。


(お姉ちゃんと天堂さんか。実際、会ったらどんなことになるんだろう?)


あかりはきっと愛海にも変なニックネームをつけるに違いなかった。裕一や整に鼠男だの黒猫だの名付けた様に。一体どんな名前をつけるのだろうか?


(僕が鼠で整が猫なら、お姉ちゃんは熊とか?いや、パンダかもしれないし……)


裕一は頭の中の動物を一体一体吟味していった。だが、愛海のイメージに合う動物は特に思いつかなかった。


「裕一」


「え?整?」


いつの間にか、整がすぐ隣に来ていた。彼女は裕一の首根っこを捕まえて、こっそりと耳打ちした。愛海には聞かれたくない話のようである。


「で?何カップだったの?ブラのサイズ、見たんでしょ?」


「は、はあ?」


「とぼけるんじゃないわよ。愛海さんに渡す前に、絶対に見たでしょ?」


整は実の弟からもトップシークレット扱いにされている、愛海のブラジャーのカップ数が気になって仕方が無かった。今この瞬間、情報を聞き出す絶好のチャンスだった。


「えっと、確か……」


裕一は記憶の糸を辿っていく。唯織から受け取った時にブラのラベルを見たはずだ。そこにはカップ数がアルファベットで記載されていた。


あの時は意識していなかったが、確かに一度は視界に入ったのである。裕一は頭をフル回転させて、朧げな記憶をはっきりさせようとする。そして、とあるアルファベットが形をして頭の中に現れた。


「あ!そうだ!思い出した!」


ぽんっ。愛海は裕一の肩に手を置いた。彼女は微笑んでいたが、引きった笑顔だった。裕一と整のやり取りは全部聞こえていたし、裕一が今から何を言おうとしているのかもわかっていた。愛海は怒っていた。


「裕一?他人のブラジャーのサイズなんて軽々しく言っちゃダメなのよ?あとでたっぷりお話ししましょうね?」


「お、お姉ちゃん!?怒ってるよね!?絶対に怒ってるよね!?」


「怒る?私が?そんなわけないよ?お姉ちゃんは平和主義ですもの。ねえ、整ちゃん?」


愛海は整の方をギロリと見た。整はびくっと背中を震わせた。


「ふ、ふひゅ~♪ふひゅひゅ~♪」


カスカスの口笛で誤魔化そうとしたが無駄だった。愛海は裕一だけではなく、整の腕も掴んで、二人を引っ張って行く。あらがえようのない物凄い力だった。


「おい!整!お前がなんとかしろよ!何もかもお前が悪いんだぞ!?お前がブラのサイズのことを聞かなければ、こんなことにはならなかったのに!」


「ハァ!?全部あたしが悪いってわけ!?こうなりゃあんたも同罪よ!いや、やっぱりあたしは無罪!あんたが一人で犠牲になればいいんだわ!」


「そんな無茶が通るか!」


往生際の悪い二人はごちゃごちゃと言い争いを始めた。だが、怒れる愛海の一言が二人を黙らせる。


「ゆーいち?せーいちゃん?喧嘩はダメ♪わかった?」


「あ、はい……」


「すんませんでした、愛海さん……」


そんなわけで、平穏な日に突如起こったブラジャー盗難事件は幕を閉じたのである。ついでに、裕一と整はこの後二時間も愛海に説教されましたとさ――。

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