第六話 いおりんの企み
街の中に聳え立つタワーマンションは、あたかもこの辺り一帯を統べる王のように、眼下にある小さな家々を睥睨していた。最上階にもなると月に届きそうなほど高く、窓から手を出せば雲に触ることもできそうだ。
そんな高級タワーマンションの一室に、星ヶ崎高校のアイドルである涼風唯織は暮らしていた。ちょうどお風呂から出たばかりで、上にはパジャマを羽織っていたが、下はパンツだけだった。自室ではラフな格好をするようだ。
唯織はベッドの上に身を投げ出し、巨大なクラゲ型のクッションに後頭部を埋めた。部屋のカーテンは完全に閉められており、せっかくの高所からの夜景は少しも見えなかった。どうやら興味ないらしい。
(あかりから着信?何でしょうか?)
親友である天堂あかりから不在着信が入っていた。唯織はさっそく折り返す。
『あー、もしもし!あかりですけどぉ!』
「どうしたんです?もしかして、またあの件に文句をつけるつもりなんですか?」
『その通りですぅ!あんなやつ誘っても絶対楽しくないですよぉ!やめたほうがいいと思いますぅ!』
またその話かと思って、唯織はうんざりした。あかりの説得はもうこれで十三回目だった。
スマホを持っていない方の手で、クラゲの触手を自分の方に手繰り寄せた。クッションのツルツルとした感触が気持ちよかった。
「楽しいとか楽しくないとか、そういう理由で彼を誘うわけではないんです。あかりもいい加減わかってください。私がしたいからするんです」
『でも、なんだか気が進みませんよぉ!せっかくのいおりんの休日を、そんなことに使ったら損じゃありませんかぁ?どうしてあいつに拘るんですぅ?』
あかりはガミガミと大声で話すので、耳がキーンとしてしまった。まるで耳元で怒鳴られているかのようである。唯織は耳からスマホを少し離した。
「今日、確信しました。やっぱり裕一くんは中学の時と何も変わらない優しい子でした。あかりは知ってますか?裕一くん、当番でもないのに倉庫の片付けをしてたんですよ?しかも自分から進んで」
先日のことである。ゼッケンを元に戻そうと体育館倉庫の扉を開けたら、傘馬裕一が散らかった室内を自主的に掃除していたのだった。授業も終わってお昼の時間になっていたのに、である。
この光景は唯織を深く感動させた。あんな良い子と一緒の時間を過ごすことが、そんなに無駄だとは思えなかった。
『いおりんは人を簡単に評価し過ぎですぅ。そんなことくらい、みんなやってますよぉ』
「じゃあ、あかりは裕一くんみたいに居残り掃除したことあるんですか?先生から言われて、ではなくて自分からですよ?」
『むぅ……』
あかりはうんともすんとも言わなくなってしまった。どうやら図星を突かれたらしい。
「ないですよね。だって、あかりは散らかすのは上手ですけどお片づけは下手なんですもの。どちらかと言えば、散らかしてそのまま帰っちゃうタイプですよね?」
唯織はベッドから降りた。薄紫色の髪がふんわりと腰の中頃辺りまで流れていた。普段はツインテールに結んでいるが、今はほどいていた。
「だから、やっぱりあの計画は実行します。あかりも頼みますよ?私がやることに対しては、何でもサポートするっていう約束でしたから」
『それは親友として当たり前のことを言ったまでで、まさかこんなことになるなんて思ってもみなかったんですよぉ』
あかりの泣き言を聞いて、唯織はクスリと笑った。誰に対しても物怖じしない破天荒なあかりがここまで嫌がるとは、傘馬裕一のことがよほど気に食わないらしい。
「とにかく、もう決めましたから。あとは真っすぐ突き進むだけです」
『もぉ!いおりんは昔っからそうですよぉ!一度決めたら頑固になっちゃうんですから!もしかしたら、裏では物凄い悪いやつかもしれないんですよぉ?考え直した方が身のためですぅ!』
「裕一くんは信用できますよ。あれほど心の綺麗な人なんて他に見たことありませんから。逆に、あかりは裕一くんのことをどうしてそんなに疑っているんです?もし証拠があるなら教えていただけますか?」
あかりの手元に証拠など無かった。彼を悪人だと決めつけているが、罪を犯した現場を見たわけではないのだ。
窮地に追いやられたあかりは、裕一に悪属性を盛りに盛って、彼の人格を捏造することにした。
『ああやって、いつも一人でいるやつは性格がねじ曲がっているに違いないですぅ!金に汚いかもしれないですし、もしかしたら女癖も悪いかもしれません!それに、実は異常性癖持ちの変態かもしれませんよぉ!?なに考えてるかわからない顔してますし!きっと脳内はヤバいことでいっぱいですぅ!』
「異常性癖って……。あかりは裕一くんの何を知ってるんですか?そんなわけないでしょ?」
唯織はあかりに心底呆れてしまった。ただの決めつけでよくもそこまで言えたものだ。あかりの想定では、傘馬裕一は守銭奴、色狂い、そして変態ということになっていた。いくら嘘でも彼が可哀想である。
『はぁ。いおりんの決意はもう翻せないみたいですねぇ。どうしてそう意志が固いんですかぁ?真面目過ぎますよぉ』
「ふふ。そんな風に短所みたいに言わないでください。一度決めたらやるのが私の良い所ですから。あかりもいい加減諦めてくださいね?じゃあ、また明日……」
『ああっ!?電話を切るつもりですねぇ!?ダメですぅ!話したいことがもっとたくさん……!』
ぷつん。唯織は半ば強制的に通話をシャットダウンした。あかりはあれからが話が長いのである。このまま会話を続けていたら、日を跨いでしまう危険性があった。そろそろ眠くなって来たし、夜更かしは唯織の趣味ではなかった。
唯織は机の上を見た。そこには遊園地のペアチケットが二枚置いてあった。彼女はチケットを手に取って眺めて、顔を綻ばせた。雪のような白い顔に、微かに赤味が差していた。
(男の子をデートに誘うなんて初めてですし、上手くいくでしょうか?ちょっと心配ですね……。いや、ここで迷ったらダメです!さっきまでの涼風唯織はどうしたんですか!一度決めたらやる!やるったらやる!それが私です!裕一くんと仲良くなるんですっ!)
ペアチケットを元あった場所に戻し、唯織は再びベッドに倒れ込んだ。クラゲ型クッションの触手をマフラーのように首に巻き、微笑みを隠せないでいる口元を覆った。
(ふふ!とっても楽しみです!あの傘馬裕一くんとデートするなんて、考えただけでワクワクしちゃいます!)
唯織は今回のデートが心底楽しみだった。ずっと気になっていた彼と、じっくりとお話することができるのだ。
彼は一体どんな風に笑って、どんな風に喋るのだろうか?おそらく口下手だろうが、それでも自分のことを少しは話してくれるだろうか?デートのことを考えると、少女の乙女心はときめいて止まらなかった。
(裕一くん……)
唯織は中学時代を回想する――。
その華やかなルックスと優しい性格から、唯織の周りには男女関係なく自然と人が集まった。それは、美しい花がたくさんの虫を引き寄せるのと同じである。涼風唯織は教室に咲く一輪の花だった。
だが、唯織の中学生活はそれほど楽しいわけでは無かった。多くの”お友達”に囲まれながらも、少女は孤独だった。
誰も彼もが唯織のことを好いていたけれども、所詮は興味本位か、もしくは唯織を自分を飾るための道具としか思っていなかった。相手を思いやる真正の友情がそこには欠けていた。ただのエゴだったのだ。
『唯織ちゃんって可愛いよねー!一体どうやってメイクしてるの?教えて!』
『ホントホント!唯織ちゃんみたいな可愛い子、他にいないよ~!』
取って付けたようなお追従の言葉に囲まれて、彼女は苦笑いを浮かべるしかなかった。言葉では優しいことを言っているが、ただの表面的なお世辞に過ぎなかった。本音で話してくれるのは天堂あかりだけだった。
そんな物寂しい教室の隅っこの方に、傘馬裕一が座っていた。彼は誰とも打ち解けないでいた。たまに黒髪の女の子と会話するところを見たことがあったが、基本的に一人ぼっちだった。唯織は裕一とは三年間も同じクラスだったのに、彼と交わした言葉はほぼゼロだった。
だが、唯織は裕一の小さな優しさをずっと見守って来た。放課後に居残って掃除したり、先生の荷物を運んであげたり、荒れた飼育小屋を修復したり……。
どれもスケールの小さい善行だったが、それでも率先してやろうとする彼のことを、唯織は尊敬の念を込めて眺めていた。
(確かに裕一くんはスターでも無ければヒーローでもありません。物凄い才能があるわけでも、抜群の勇気があるわけでも……。でも、人を好きになるのに、そんなもの必要ないじゃないですか)
唯織はベッドの上で身体をねじった。それに合わせて、唯織の身体に巻き付いていたクラゲの足も、くの字に折り曲がった。
(きっとあかりも彼の良さをわかってくれるはずです。だから、あかりもデートに誘ったんですよ。二人っきりだと心許ないというのもありますし)
唯織は裕一とあかりと一緒に遊園地を周ることを想像し、ウキウキする気持ちが抑えられなくなる。きっと素晴らしい一日になるだろうと唯織は確信した。
(でも、気になるのはあの子……。雨野整さん……)
唯織は整のことを知っていた。同じ中学だったし、あの神がかり的な運動神経もあって、整は唯織に負けず劣らずの有名人だった。なによりも、裕一が親し気に話すことができる唯一の人物として、昔から整のことを意識していた。
裕一と整――。あの二人の仲が良いことは火を見るより明らかだった。
(もし裕一くんが雨野さんのことを好きだったら……どうしましょう?)
その場合は唯織の企みはご破算となる。最悪のシナリオだった。
(そうではないことを祈るばかりですね……。ああもう!私ったらまたネガティブになってます!私はあかりが言うほど意志の強い女性ではないのかもしれません!ちょっとした心配事でうじうじしちゃってます!)
唯織は頭を振って雑念を追い払った。裕一を遊園地に誘うことはもう決めたのだ。一度決めたことは最後までやり切るのが涼風唯織なのである。
唯織はすぐに本来の自分を取り戻した。両頬をぺちぺちと叩いて気合を入れる。
(よし!頑張りますよ!裕一くんとデートして、まずはお友達になるんです!絶対に成功させるんですから!)