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君の恋、雨の色  作者: 石戸龍一
第二章 恋心は若葉の如く
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第五話 心、夜風に吹かれて

自宅から歩いて行ける距離に愛海の勤め先があった。どこにでもある一般的なスーパーである。そこで彼女はレジ打ちの仕事を任されていた。勤務時間は主にお昼から夜までで、週に三日ほどシフトを入れられている。


仕事の覚えは早いし、朗らかな人柄もあって、愛海は同僚からとても評判が良かった。一緒にレジ係をしているおばあさんからも、『愛海ちゃん』と名前で呼ばれて親しまれていた。


もうすぐ業務終了時刻である九時半を迎えようとしていた。さすがにこの時間帯になると、店内はガラガラである。愛海は手持無沙汰てもちぶさたの状態で、時が過ぎるのをじっと待っていた。やることはないし、仕事の疲労もあって、愛海の頭はぼんやりとしていた。


がたっ。買い物カゴが置かれた音で、愛海ははっと我に返った。数十分ぶりの客である。


「い、いらっしゃいませ」


すぐにお仕事モードに切り替えて、顧客対応しようとする。だが、客の姿を見て思わず手が止まってしまった。買い物カゴを置いたのは弟だった。今まで裕一が仕事中に来ることは滅多になかった。


「こんな夜遅くにお買い物?どうしたの?」


台中央のバーコードリーダーに商品を通しながら、愛海は裕一に尋ねた。彼におつかいを頼んだ記憶はなかった。


「整にジュースを飲まれたからね。その分、欲しくなっちゃったんだ」


「ふふ。それでわざわざ買いに来たのね」


電話越しに、整が裕一の飲み物を拝借したことは知っていた。あの時の裕一の焦りっぷりは面白かった。愛海は二人のやり取りを思い出して、自然と笑みがこぼれた。


「もうすぐ上がりでしょ?僕、外で待ってるよ」


「え?悪いわよ。先に帰ってて」


「別にいいんだ。お姉ちゃんと一緒に帰りたいから」


裕一は会計を済まし、スーパーの外に出て行った。一人残された愛海は、最近の裕一について考えていた。


愛海はなるべく平然と振る舞おうとしていた。あの雨中の事件などまるでなかったかのように、普段通りの傘馬愛海を演じていたのである。だから、整との電話でも動揺した所など少しも見せなかった。


だが、裕一の様子はずっとおかしかった。あの日以降、弟は何度も姉に接吻を求め続け、距離感だって前よりもずっと近くなったような気がする。


今日の裕一も変だった。いくらシスコンの裕一でも、わざわざ仕事場まで姉を迎えに来たことなんて今まで無かった。


(裕一……本当にどうしちゃったの?あの日からずっと裕一は変……)


愛海の心の整理は全くついていなかった。あの日の出来事は夢だと思いたいし、できることならすぐに忘れたかった。告白の返事だって、イエスもノーも何も伝えていなかった。


あれはただの一時いっときの気の迷いなのだ。だから、こちらも気にしてない素振りを続けていれば、裕一は自然と元に戻ってくれるに違いない。愛海はそんな淡い期待を抱いていた。


(きっと裕一も初めての高校生活で疲れちゃったのよ。それであんなことをしたのよね。そうよ、そうに決まってる。裕一がお姉ちゃんのことを好きになるなんて、全部悪い冗談よ……)


愛海はあれやこれやと沈思黙考ちんしもくこうしている内に、時間のことなど忘れてしまっていた。もう業務終了時刻は過ぎていた。だが、愛海はレジから離れず、石像のようにその場に固まっていた。


いつまでも帰ろうとしない愛海を奇妙に思って、先輩のおばあさんが話しかけた。


「愛海ちゃん?もう上がっていいのよ?」


「え……ああ!?ごめんなさい!すぐ帰ります!ぼーっとしてたみたいです!」


ばつの悪い表情を浮かべながら、愛海はすぐに更衣室に向かった。私服に着替えて、タイムカードを切り、スーパーの裏口から外に出る。蛍光灯の白い光に目が慣れていたせいか、いきなり夜空の下に出ると、世界が普段よりも暗く見えた。


外は閑散かんさんとしていた。人も車も何も無い寂しい裏道を愛海は歩き出す。ちょうど照明と照明の間の、闇に包まれたところから裕一がにゅっと現れた。彼は真っすぐ姉を見つめていた。


「お姉ちゃん」


「ごめんね。待たせちゃった?」


裕一は急に愛海に襲い掛かった。彼女の身体を壁に押し付けて、身動きを封じる。愛海は裕一の右手が背中に、左手が後頭部に回されていることに気がついた。


「ゆ、裕一!?何するの!?やめて!」


だが、彼女の抵抗も虚しく、裕一は再び愛海と口づけを交わした。彼は唇の軽い接触だけでは満足せずに、口の中にしまい込んでいる舌を愛海の中に侵入させた。


「ん、ちゅ……うぅ……!ゆ、裕一……ちょっと……やめて……!こんなところ見られたら……お姉ちゃん、お仕事クビになっちゃう……!だから……お願い……!裕一……!」


「うぅ……お姉ちゃん……!」


愛海は弟の中に微かに残っていた理性に訴えかけた。それが効いたのか、裕一はようやく口を離し、愛海への衝動的な行為をストップさせた。愛海は口元を袖で拭い、唾を飲みこんだ。


(と、とりあえず、ここを離れないと……!)


この場面を他の誰かに見られるわけにはいかなかった。裏口から同僚が出てくる前に、愛海は裕一の腕を引っ張ってスーパーの敷地外に連れ出した。二人は夜道を歩き始めた。


「もうあんなことしちゃダメ。お願いだから普段の裕一に戻って」


「ごめん……。でも、止められなくて……」


「止められないって、そんな……」


愛海は裕一の方を見た。彼は俯いていたが、頬が紅潮していることが見て取れた。


「本当に私のことが好きなの?お姉ちゃんとしてじゃなくて、その……女性として」


「うん……」


「でも、私たち姉弟きょうだいなのよ?自分が言ってることわかる?あなたは血の繋がった姉のことが好きだって言ってるの。裕一だって、それがおかしいことくらいわかるよね?」


裕一は黙って頭を横に振った。彼はこう主張しているようだった。実の姉を好きになることがおかしいなんて絶対に認めない、と。


「どうして?どうして私なの?裕一の周りには他に素敵な女の子がたくさんいるでしょ?私よりも魅力的で可愛い子なんて数え切れないくらいいる。それなのに、どうして私のことなんか……」


「いつもそばにいて、いつも優しくて、いつも笑ってくれて……。そんな女の人、お姉ちゃんしかいないよ」


「そ、それは言い過ぎよ……。そうだ。整ちゃんは?整ちゃんとは長い付き合いがあるし、あの明るい性格は裕一にぴったりじゃないの。今日だって二人でデートしてたんでしょう?」


「いや、整は違う。あいつには悪いけど、そういう目で整のことは見れないんだ」


愛海は追いつめられていた。説得しようとしても何もかも無駄だった。裕一は姉を好きになることの異常さを全く理解せず、あくまで自分の思いを貫き通そうとしていた。普段の気弱な少年からは想像もできないような意志の強さだった。


裕一は自分の思いをいよいよ炸裂させる――。


「僕はお姉ちゃんのことを愛しているんだ!僕は情けないし弱いやつだけど、それでも今まで世話してくれたお姉ちゃんのことを、一人の男性として守っていきたい!僕はお姉ちゃんを恋人にしたいんだ!」


「裕一……!?」


彼は叫んだ。決して目を逸らすことなく、何も恐れないで、裕一は愛海に愛の告白をした。冷たい夜風が吹いていたが、彼の心は炎のように熱くなっていた。


姉は激しく動揺した。手に持っていた鞄を無意識のうちに落としてしまっていた。


(裕一は本当に私のことが好きなんだ……。ただの気の迷いじゃない。これがこの子の真剣な気持ちなんだね。なら、私は……)


愛海は裕一の目の前に立つ。震えている右手に力を入れて、腕を振り上げた。そして、愛海は裕一のことを――。


「お姉ちゃん?」


愛海は弟を抱き締めていた。本当はビンタするつもりだった。愚かな恋心を抱く少年の頬を引っ叩いて、彼を正気に戻そうと考えていた。でも、できなかった。愛海は弟のことを拒絶しなかったのである。


(できない……。そんなこと、できないよ……)


どんな理由があっても、愛海は大切な弟に暴力を振るうことができなかった。親が離婚してから、裕一の母親代わりになって、彼のことをずっと守って来たのだ。そんな愛しい雛鳥を突き放すような真似は、愛海には不可能だった。


(あの内気で臆病な裕一が、こんなにも勇気を出して自分の気持ちを話してくれたんだもん。私がここで裕一を拒否したら、この子のせっかくの勇気が台無しになっちゃう。たとえそれが、私に対する告白だとしても……)


愛海は腕を緩めて弟を放した。裕一は心配そうな顔つきで姉のことを見ていた。


「裕一の気持ち、否定したくはないの」


「じゃ、じゃあ……!?」


「待って。お願い、ちゃんと聞いて?」


気がく弟を落ち着かせつつ、愛海は話を続ける。


「いきなり裕一の気持ちの全てを受け入れるのは難しいの。だから、もうちょっと考えよう?ちゃんと二人で考えて、それから答えを出そうよ?別に告白の返事は今じゃなくてもいいでしょ?」


「そ、それは確かにそうだけど、なんだかじれったいよ」


「こういうことは焦っちゃダメなの。いくら恋愛経験のない私でも、それくらいは知ってるんだから。それと、いきなり外でキスするのは絶対に禁止。世間の目ってものがあるの。わかった?」


「うん……。わかった」


「よし。いい子ね、裕一」


事態は丸く収まったかに見えたが、彼女がやったことはただの先延ばしに過ぎなかった。裕一の告白に対して明白に返事をせず、言葉をにごしただけである。だが、今の愛海にはこれが精一杯だった。


「じゃあ、家の中だったらいい?」


「え?何が?」


裕一は頬を赤くしながら、唇をすぼめた。


「そ、そのさ、キス……」


「それは、その……」


裕一はまるで欲しいおもちゃをショーウィンドウ越しに眺める子どものようで、もの欲しそうな目で愛海を見つめていた。こうなると愛海は弱かった。甘える弟には勝った試しが無かった。


(しょうがないなぁ、この子はまったく……)


愛海は大きくため息をついた。嫌だと言ったら、どうせまた思いのたけをぶちまけられるに違いない。なら、ここは許してしまった方が得策かもしれなかった。


「たまになら、ね?しつこく何度もするのはダメだよ?ちゃんとお姉ちゃんの気持ちも考えてね?」


「うん!お姉ちゃん、ありがとう!」


(裕一ったら、あんなに嬉しそうにして……)


結局、愛海はキスも許可してしまった。裕一は姉から正式な許可が出て、小躍りをして喜んでいる。よほど嬉しかったらしい。


(私たち、これからどうなるんだろう?)


素朴な疑問だった。血の繋がった家族を愛する弟と、その思いを拒めない姉――。事態は徐々に進展して、二人の関係も変わり始めていた。これから姉弟は一体どうなってしまうのだろうか?裕一はさらに激しく姉を求め、愛海もやはり拒絶できないのだろうか?二人の行く末は誰にもわからなかった。


そしてさらにもう一つ、愛海には気になることがあった。


(あれ?私、なんでこんなにドキドキしてるんだろう?)


愛海は自分の胸が高鳴っていることに気づいた。静めようとしても勝手に騒いでしまって、止まらないのである。


(そっか。男の人からあんなに真剣に告白されたのって、これが初めてなのよね。それでびっくりしちゃったのよ。そうよね、だから心臓がこんなに激しく動いて……)


彼女はそう決めつけることで安心しようとしていた。この胸の高鳴りは、弟から告白されて驚いたからに違いない。裕一のことを一人の男性として意識して、ドキドキしているわけではないのだ。そんなことがあっては困るのである。

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