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君の恋、雨の色  作者: 石戸龍一
第一章 雨中の告白
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第一話 傘馬家の日常

慌ただしい朝だった。裕一ゆういちは眠気を追い払いながら、まだ新品らしさを残している制服の袖に腕を通し、急いで出発の準備を整える。ネクタイを結ぶのはとても苦手だ。この日もやはり悪戦苦闘だった。こいつは自分の意志をもった蛇のようで、裕一の手からするりと逃れてしまう。


裕一は困り果てて、ふと姉に視線を送った。昔からの習慣だった。裕一は助けが必要な時、必ず姉・愛海まなみを目で探すのである。


愛海は弟の反対側に正座していた。両脚を丁寧にお尻の下に畳み込み、背筋をぴんと伸ばしていた。同じく着替え中で、ちょうどシャツをまくり上げたところだった。その瞬間、高校三年生の少女にしては、やや豊か過ぎるソレが大きく弾んだ。


裕一はネクタイを結ぶ手を止めて、その躍動に目を奪われていた。愛海は机上の鏡に、顔を赤く染めた実の弟の姿を認めた。


「裕一。着替え中はこっち見ないでっていつも言ってるでしょ?後ろ向いてて」


「あ、うん……。ごめん、お姉ちゃん……」


裕一は姉の指示に従い、背中を向けて再び大蛇と戦い始めた。愛海の方はすぐに純白のセーラー服にお着換え完了する。三年間も同じ動作をしているのだから慣れたものだ。だが、弟はまだ苦戦中である……。


(しょうがないな。お姉ちゃんが手伝ってあげるか……)


時間も押していた。弟が退治に失敗した蛇を、代わりにやっつけてあげることにしたのである。


「もうすぐせいちゃん来ちゃうよ?ほら、私がつけてあげるね」


姉は弟とつま先が触れそうなほど接近する。愛海の外ハネした髪の毛が裕一の頬に刺さった。愛海はつま先立ちになる。今はもう、二つ下の弟の方が背が高いのだ。おっとりしたタレ目が、裕一の首の辺りをじっと見上げていた。


そんな中、裕一は目のやり場に困っていた。少しでも視線を下げると、セーラー服の襟口から、深い谷間が見えてしまうのだ。見てはいけないと思えば思うほど、逆に視線を引っ張られてしまうのである!


「はい、終わりっと。そろそろ自分一人でできるようになりなさい。入学して一ヵ月経つんだからね?」


「うん、わかったよ。お姉ちゃん」


ものの三秒で愛海はネクタイを巻いてしまった。文字通り秒殺である。裕一は姉の手際の良さに感心しながら、彼女の後を追って階段を降りた。


リビングは静寂に包まれていた。朝の冷たさが部屋を満たしている。カーテンの隙間から漏れる光が、青色に染まった室内に白い線を作り出していた。母親の姿は既に無かった。二人が起床する直前に出勤したのだろう。裕一は姉の作ったお弁当を鞄に入れる。そして、玄関に意識を向けた。


普段通りなら、そろそろ聞こえてくるはずだ。あの子の無駄に大きくて元気な声が――。


「裕一~!愛海さーん!おはようございまーす!」


十メートル離れている相手にも届きそうだなと裕一は思った。玄関のガラスに小さな人影が映っていた。二人よりも小柄で、肩のあたりから細長い紐のようなものが垂れていた。それは縛った髪の束なのだが、猫の尻尾のようにゆらゆらと動いていた。


七時四十分――。幼馴染の雨野整あまのせいは、定刻通りに姉弟きょうだいを迎えに来た。猫のような大きな瞳がきょろきょろと動き、欠伸をする寝ぼけた裕一を観察していた。


「おはよう。整は朝から元気だね。ふわぁ」


「裕一が朝に弱すぎるだけよ?愛海さんを見習ったら?朝からばっちりメイクして、今日も超美人に仕上げてきてんだからさ」


「もう、整ちゃんったら!変なこと言わないのっ」


何もかも普段通りの日常だった。朝起きて身支度をして、整が時間通りに迎えに来て、三人で学校を目指す。幾度となく反復されてきたシーンだった。


小学校、中学校、高校――いつも三人は一緒に登校していた。愛海が先に卒業して、二人と行先が変わってしまっても、途中までは共に通学路を歩く。それは自然法則のように当たり前だった。誰もが四季の巡りを疑わないように、彼らもこの日常を疑わなかった。



朝、歩道はがらんといていた。それでも、三人横並びで歩くにはちょっと狭い。整は歩道の縁石に飛び乗り、平均台を渡るようにソロソロと歩いた。それでも、姉弟の歩行ペースに全く遅れを取らなかった。


裕一はふと整の髪型に目を留めた。整は赤みがかった黒色の髪を一本のポニーテールに結っていた。結び目のところは赤色のシュシュで覆っている。彼女のリズミカルな歩きに合わせて、ポニーテールも背中の上で楽しそうに踊っていた。


「はぁ……。あたしも愛海さんみたいな素敵な女性になれたらいいのに。優しくて美人で料理も上手でさぁ。女として完璧って感じ。カノジョにするなら理想的だよねぇ~」


愛海は整の褒め殺しに頬を熱くした。裕一は『また始まったよ』とため息をついた。これは雨野整流の意地悪なのである。大袈裟な誉め言葉で愛海をおだてて、彼女が照れたり戸惑ったりするのを見て、小悪魔的な笑みを浮かべるのだ。


裕一は整を睨んで釘を刺す。


(整。あんまりお姉ちゃんを困らせるなよ……)


(だって面白いんだもん。裕一ったら、そんなに睨まないでよ)


とまあこんな感じに、幼馴染の間でメッセージのやり取りが行われたに違いない。


整はせっかくのおもちゃを取り上げられて、退屈そうに空を見上げた。世界は今日も青い。しかし、雲が散っている。風も冷たい。晴れとも曇りとも言えない曖昧な天気だった。整はなんとなく、午後は降るだろうと予想した。


「あ、あの、裕一?学校はどう?整ちゃんとは別のクラスになったって聞いたけど、大丈夫?」


まだ顔の赤い愛海は、弟に学校のことを尋ねた。裕一は答えにきゅうした。別に悪いことが起きているわけではないが、これと言って良いとも言えない。普通と言うには普通じゃないのかもしれない。裕一は悩んで、手の甲を掻いた。その隙を見て、再び整は悪巧みをする――。


「あっははは!こいつ心配だよ~!あたしがついてないとホントにダメなんだからさ!愛海さんは知ってる?こいつ、中学の時はあたしが助けるまで、クラスの誰とも話せなかったんだよ~?ねぇ?傘馬裕一く~ん?」


「うわあ!?そのことはお姉ちゃんには言わないでって約束したじゃないか!」


整は目を細めてニヤリとした。今度は裕一が真っ赤になった。なんとかこの生意気な口を塞ごうと、整の背後から襲い掛かった。整は縁石から飛び降り、しばらく裕一を翻弄したが、遂には捕まった。だが、雨野整には嘘をつく知恵があった。


「きゃああ!?ゆ、裕一くん!?今、あたしのおっぱい揉んだ!いやらしい手つきで触りましたぁ~!」


整は愛海の方を見ながら、わざとらしい口調で弟の痴漢行為を告発した。裕一はすぐさま整から離れて、自分に降りかかった冤罪を晴らそうとする。


「さ、触ってない!触ってないったら触ってない!何の証拠があってそんなこと言うんだよ!」


「そりゃ、あたしの胸に決まってるでしょーが!ほら、見てみ?」


整は裕一の前で胸を寄せてみせた。なるほど、姉のような規格外のサイズではないものの、ちゃんと存在感のある質量が、そこにあるではないか。裕一はその丸い輪郭線と、純白のセーラー服から微かに透けて見える黒い下着の線に、思わず『うっ』と唾を飲んだ。こんなモノが近くにあれば、確かに手が出てしまうかも――?


「……はぁ。なに見とれてんだか、裕一の馬鹿っ」


幼馴染の電撃のような速度の蹴りが、裕一のすねを撃った。ゴリッ。痛そうな鈍い音が鳴った。


裕一は悶えた。確かに痛かったが、それ以上に、この情けない一部始終を実の姉に見られているという事実が彼を苦しめた。裕一は恨めしそうに整を見上げた。幼馴染は底意地の悪い笑顔を浮かべていた。イタズラに成功した悪ガキのようである。


「せ、整~!お前、朝からよくもやってくれたなぁ!」


「あっははは!裕一ったらすぐに引っ掛かるんだもん!おもしろ~い!」


再び、二人は追いかけっこを始めた。傘馬愛海は漫才のような二人のやり取りを、後ろから微笑みながら見ていた。気分は二人の保護者といったところである。


(裕一楽しそう……。あの様子なら、クラスが違ってもきっと大丈夫よね)


結局、裕一から質問の答えは得られなかった。だが、あの元気で明るい雨野整が同じ学年にいると思うと、愛海はすっかり安心した。


裕一はとてもおとなしい男の子だった。人見知りで気弱。他者と打ち解けられず、自分の殻に閉じこもる。典型的な一人ぼっちだった。だからこそ、愛海は弟の環境が変わる度に、今度も大丈夫だろうかと心を悩ませてきた。


(私は裕一のそばにずっといられない。だって三年生だもん。でも、整ちゃんなら同じ学年の裕一を見守ってくれる……)


あの勝気な性格も、臆病すぎる裕一にはぴったりだった。彼女の方からガンガン話しかけてくれるから、お喋りが下手な裕一でも会話に苦しまなくて済む。いざとなったら整が手を引っ張ってくれる。たまに喧嘩するけど、それも仲良しの証拠だ。


(きっと私の知らないところで、いっぱい裕一のことを助けてるんだろうなぁ。ありがと、整ちゃん)


感謝の眼差しが二人を捉えた。雨野整と傘馬裕一……。仲睦まじくじゃれ合っている二人を見ると、愛海は裕一の姉として、いや家族の一員として、この二人の未来というものを、少し希望的観測も含めながら想像してしまう。彼らは将来、どういう関係になるのだろうか?もしかしたら親友関係を飛び越えて、一組の男女として未来を築いちゃうかも――?


(……なんてね。うふふ。私ったらついつい気の早いことを……)


愛海は再び顔に火がともった。整と裕一から離れ過ぎたので、早歩きして追いつこうとする。ぼんやりとしか聞こえなかった彼らの会話が、徐々にはっきりと聞こえてくる。


「……ねー?ウケるでしょ?裕一知ってた?」


「へぇ~。僕も知らなかったなぁ、それ」


何でもない日常会話が交わされていた。整がべちゃくちゃと一方的に喋り、裕一が相槌を打つ。普段通りの光景だ。愛海はふと裕一の方を見た。


(裕一……?)


一瞬だけ、姉弟は目が合った。それはカウントできないくらいの僅かな時間で、もしかしたら姉の勘違いかもしれなかった。だがやはり、裕一は愛海に視線を送っていた。裕一は確かに姉を見ていたのだ。


愛海は不思議に思った。どうして整と話しているのに、こっちの方を見るんだろう?どうして視線を送っておいて、何も言わないのだろう?どうして愛海が見たことも無いような、奇妙な目つきをしていたのだろう?


言葉で説明できない不安感が彼女を襲った。胸が詰まったような感じがする。普段は聞こえない音が今の愛海には聞こえていた。心臓の鼓動の音と血液が脈を流れる音である。ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ……。


(あ、あれ?私、どうしたんだろう……?)


何かがおかしかった。愛海は意識の奥深いところで、当たり前の日常に、小さな破れが入るのを感じ取っていた――。


「お姉ちゃーん!どうしたの~?」


「愛海さーん!遅刻しちゃうよ~!」


二人の声で愛海は正気を取り戻した。どうやら無意識のうちに歩みを止めていたらしい。整と裕一はあんなに遠くに行ってしまって、表情もわからないほどぼやけていた。


愛海は額の汗を拭い去って、ゆっくりと深呼吸した。肺に空気が満ちて、元から大きく膨らんでいる胸が、更に大きくなった。すぅー、はぁー、すぅー、はぁー……。


「はーい!すぐ行くからねー!」


愛海は走り出す、未だに彼女を襲っている不安を払いのけようとして――。


(今日の私、どうかしてるな。裕一と目が合ったくらいであんなに動揺して……ちゃんとしなきゃ。私、お姉ちゃんなんだから!)



さて、裕一、整、愛海の三人は星ヶ崎(ほしがさき)高校に到着した。どこにでもある普通の公立校で、特に学問やスポーツに秀でているわけでもなく、名前の割にキラキラと輝いていない地味な学校である。生徒たちもどこかノホホンとした顔をしており、競争意識などどこ吹く風の、全くもって平和な校風だ。


「じゃ、また家でね」


「うん。お姉ちゃん」


ここで、愛海は三年生用の東校舎、裕一と整は一年生用の西校舎に分かれる。これもまた繰り返されてきた日常の一ページである。年齢が違うのだから当たり前のことなのだが、それでもやっぱり姉と離れる時は少し寂しかった。これもまた裕一の本音だった。


離れ去り、小さくなっていく姉の背中――。まるで故郷ふるさとから離れて行く時のような、ツンとした痛みを胸に感じていた。


(どうせ夕方になればまた会えるのに……。これだから整にシスコンって馬鹿にされるんだ)


裕一は整の後を追いかけようとした。だが、足が動かない。もうそこに姉の姿は無いのに、裕一は三年生の校舎に続く道をじっと見つめていた。整はすぐに幼馴染の異変に気付いた。普段から暗い裕一の顔に、さらに黒い影が差していたのである。


「……裕一?どした?本当に遅刻するよ?」


「え?あ、うん。なんでもないよ……」


「あははっ。裕一ったら変なの。まだ寝ぼけてんじゃないの~?」


整に小馬鹿にされて、ようやく止まっていた足が動き始めた。朝のホームルームまであと五分。道は空っぽになっていた。ここにいるのは裕一と整だけだった。走らなければならない。姉とは反対の方角に、駆けて行かねばならない――。


(やばっ。急がなきゃ……!)


裕一はダッシュする。走る、走る、走る。それでも、姉の残像は消えてなくならない。ずっと裕一の心の中に姉の姿があった。


(やっぱりそうなんだ……)


裕一は最後に一度だけ、後ろを振り返った。


(やっぱり僕は、お姉ちゃんのことが好きなんだ……!)

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