第95話 懐古の器:繫栄と風化③
プロス・ペリテを覆う雨雲は、夜通し雨を降らせました。
その雨が、無数に聳えてる建物の屋上に溜まり、街に住む獣人たちの生活用水になっているそうです。
良く出来た仕組みですね。
ですが、だからこそ、彼らはこの仕組みを手放すことが出来ないのでしょう。
「言いたいことは分かった。だが、それが本当なのかどうか、確証を持てる証拠が何もないのでは、どうすることもできないのぅ」
「そんな悠長なことを言ってる場合ですか? ワイズさん」
「お前さんの言いたいことは分かる。だが、これはそう単純な話では無かろう?」
ワイズさんの問いかけに、イージスさまが食って掛かろうとしています。
でも多分、これ以上話をしても、納得してもらうことはできないでしょう。
「イージスさま。これは彼らが選択するべき話だと私は思います」
「選択って……危険な状態を放置するのが選択なのか!?」
「放置ではなく、承知しているのでしょう。違いますか? ワイズさま」
「……手厳しい指摘ですなぁ」
椅子に腰かけたまま、深いため息を吐いたワイズさん。
色々と考えたいことがあるのでしょう、彼は静かに視線を落としました。
きっと、私たちが居ると気が散ってしまいますよね。
なによりも、私たちがこの街に長居することの方が、彼らに危険を呼び寄せてしまうかもしれません。
「イージスさま。すぐに街を出ましょう。きっとその方が良いと思いますので」
「……あぁ。分かったよ。ワイズさん、一晩泊めてくれてありがとうございました」
「そのようなこと、気にする必要は無いぞ。2人とも、達者でな」
心ここにあらず。
と言った感じのワイズさんと別れ、私達は彼の家を出ました。
元より長居する予定は無かったのです。
別に気に病む必要はありません。
必要は無いのですが……どこか少し、モヤモヤが残ってしまいますね。
そう言えばナフティ君が居ませんでしたが、出かけているのでしょうか?
出来れば、最後に別れの挨拶をしたかったです。
「ソラリス」
「はい。どうしましたか? イージスさま」
「いやなんだ、昨日の風呂、すごく良かったよな」
「はい、そうですね。あれほど心地良く水浴びできたのは初めてでした」
「だよなぁ。あんな感じの風呂がある家に住みたいよな」
「まるで夢のようなお話ですが、たしかに、住んでみたいです」
「だよなぁ……だぁー、くそっ! やっぱりダメだなぁ、俺は」
「? どうかしたのですか? イージスさま」
帽子の上から頭を抑え込むイージスさま。
歩きながらそんなことをしていたら、危ないですよ?
せっかく雨も止んだのですから、綺麗な空を見上げましょう。
どこか元気が無さげなイージスさまに、そんな提案をしようとした時。
ふと顔を上げた彼が、告げたのです。
「ソラリス。口調が戻ってるぞ」
「え?」
口調が戻ってる?
そのようなこと……ありそうですね。
「もしかして今、私は笑えていませんか?」
「自分で分からない時点で、笑えてないだろ?」
「そうですね」
「それと、“そうですね”も増えてる」
「あ……」
イージスさまは本当にすごいです。
どうしてそれほどまでに、私の変化に気が付くのでしょうか?
まぁ、私を変えてくれたのも彼ですから、当然と言えば当然なのかもしれません。
本当に、助けてもらってばかりですね。
きっといつか、私の全てを賭けて、彼に恩返しをしなくては。
自分自身を許すためにも。
「イージスさま。ありがとうございます」
「いやいや、全然気にすることじゃないぜ! それに、リンも教えてくれたしな」
『元気でた?』
「ありがとうリンちゃん! 2人のおかげで、気分が晴れましたよ!」
気にかけてくれる人が身近にいることは、嬉しいことですよね。
その分、私も2人のことを気にかけたくなります。
「よぉし! それじゃあ気を取り直して、元気よく出発しようぜ!!」
『しゅっぱつ~!』
「行きましょう!」
街の縁に到着して、3人で元気よく拳を振り上げる。
獣人たちに白い目で見られても構いません。
こうやって生きて行こうと、決めたのですから。
そうしてそのまま、崖から飛び立とうとした私達は、小さな音を聞いたのです。
コポッ
微かなその音を、獣人たちが聞き逃すはずがありません。
街中の獣人たちが毛を逆立てながら周囲を警戒し始める中。
私は音の正体を目で捉えました。
それは、小さな泡。
プロス・ペリテ中の建物や地面から、細かな泡が湧き出して来ています。
「ソラリス!」
「はい! あれは私が対処します! イージスさまは急いで街の方々を―――」
叫びながら駆け出そうとしたその瞬間。
強い衝撃と共に、街中に巨大なヒビが駆け巡りました。
同時に、街の中心部から激しい水音が轟いてきます。
「遅かった!」
「いやまだだ! 獣人たちは強いんだ! まだ立て直せる!」
そう言ってワイズさんの家に向かって駆けて行くイージスさま。
帽子を落としてることにも気が付いていないようですね。
「では、私はあちらの対処に向かうとしましょう」
彼には彼の、私には私の、取るべき選択がある。
後悔しないために。
街中で湧き出した気泡は、気が付けば水滴になって、大きな水流へと変貌を遂げています。
その水流は、街の中心に向かって動いているようです。
そうして出来上がったのが、巨大な水の化け物なのでしょう。
すでに私の居る位置からでも、その姿を見ることが出来ますので。
プロス・ペリテの巨大な建物に巻き付くようにして、周囲を見渡してるその姿は、さながら、巨大なヘビのよう。
残念ながら、その姿を私は知っているのでした。
「ティアマト……でしたね。これはまた、厄介なものを送り込んで来たようです」
獣人たちがいくら強くても、実態がない相手には敵わないでしょう。
急がなくちゃ。
走っている余裕なんてありません。
そう判断した私が、地面を蹴って空に飛び上がった瞬間。
ティアマトの巨大な尾が、建物を一つ、へし折っちゃいました。