第60話 過去の消し方
目の前にいる男は、首根っこを掴まれてもなお、藻掻いている。
その程度の力で、私の手から逃れることなど、出来るはずもないのに。
私と、この男とでは、覚悟というものが違うのだ。
頭に大火傷を負いながらも、卑しく、生きながらえているこの男とは。
覚悟が、違うのだ。
火傷の跡。
酷く爛れたそれを見ていると、昔のことを思い出してしまう。
それは、私がまだ15の頃。
10年前のことになる。
ブッシュ王国の長男として生まれ、王族としての生き方を、まだ知らなかった。
その頃の私は、いつも母上について回っていたという。
今となっては、殆ど覚えていないが、当時を知る者が皆そう言うのだから、本当なのだろう。
勉学の時間も、武術の時間も、馬術の時間でさえも。
常に、傍にいることを望んだらしい。
そのせいか、いつしか母上は、公務で外出する時でさえ、私を同伴させるようになったそうだ。
そして、あの時もまた、私は母上に同伴していたのだ。
その日、私と母上は辺境の領地を治めている領主の元へ、出向いていた。
なぜ、そんな場所に出向いていたのか、当時の私は全く知らなかった。
当然だが、目的も知らずについて行っても、楽しくなどないだろう。
つまらなかったから、私は窓の外を眺めていた。
そして、あることに気が付くのである。
私と同じくらいの歳の少年が、コソコソと周囲を見渡しながら、壁を登って屋敷の敷地に侵入してきたのだ。
すぐに、母上と領主に伝えなければ。
そう思ったところで、その少年と目が合った私は、思わず口を噤んでしまう。
なぜなら、その少年が、悪戯っぽい笑みを浮かべ、シーッと人差し指を口元に押し当てたから。
面白そうだ。
率直に、そう思ってしまった私は、母上たちの退屈な話など聞かずに、何かが起きるのをひたすらに待つことにしたのである。
きっと、あの少年は、小さな悪戯のために、忍び込んだに違いない。
そうならば、もう少し待てば、屋敷の衛兵と少年の捕物が見れるかもしれない。
それはきっと、楽しいぞ。
あわよくば、私があの少年を捕らえることだって、出来るかもしれない。
愚かな私は、そんな期待感を抱きながら、待ち続けた。
しかし、訪れた現実は、そんな楽しいものでは無かったのだ。
突然鳴り響く鐘の音。
同時に空を揺るがすのは、大勢の怒号と足音。
空には大量の火矢が飛び交い、瞬く間に、屋敷は炎に包まれてしまう。
当然、すぐに逃げ出そうとした私たちだが、時すでに遅し。
町を見下ろせる小高い丘の上に建てられていた領主の家は、襲撃が始まった時にはすでに、大勢の民衆に取り囲まれていたのである。
逃げ場を失った私達は、残り少ない衛兵達に引き連れられるようにして、屋敷の裏に向かった。
今でも、肌の焼ける感覚と、煙の臭いを思い出すことが出来る。
そうして私たちが行きついたのは、屋敷の裏手の断崖絶壁。
見下ろせば、黒い岩に打ち寄せる波が見えるような場所だ。
もちろん、そんな場所で安心などできるわけもない。
守ってくれていた衛兵達も、1人また1人と倒れ伏し。
ついに、領主一家と母上と私だけが取り残された。
その時、私は見たのだ。
頭に大やけどを負いながらも、私達を睨み付けているあの少年を。
これは後に知ったことだが、この領主は酷い重税を掛けることで領民を苦しめており、母上はそんな領主に事情を聴取するため、この地を訪れていたのである。
領主に向けられるべき冷たい視線が、私や母上に注がれる。
ジリジリと、崖の方へと追いやられていく私達。
震える手を、押さえる事さえできなかった私は、酷く後悔していた。
あの時、すぐにでも少年が侵入してきたことを伝えるべきだったと。
そうして、ついに崖下へと突き落とされる私達。
助かるはずもない高さから落ちながら、私が最後に憶えていたのは、母上の温もりだった。
背中から、ギュッと強く、抱きしめられる。
その直後、鈍い音と共に意識が薄れ、全身を生暖かい何かが包んでいったのだ。
その後、奇跡的に助かった私は、城で目を醒ます。
ボロボロと涙を溢す父上を、その時初めて目にした。
そんな父上に、私は問うたのだ。
なぜ、私は生きているのかと。
母上は、どうなったのかと。
その時、答えは得られなかった。
だから、自分自身で調べたのだ。
そして知った。
あの時、母上が落下の衝撃を一身に引き受けてくれたおかげで、私は奇跡的に命を取り留めたことを。
その結果、母上は助からなかったことも。
領主一家も、全員が命を落としていた。
それなのに。
襲撃を引き起こした民衆共は、レジスタンスなどと名乗り、未だに生きていた。
許せるわけがない。
許してはならないのだ。
どれだけ小さな罪であろうと、必ず償わせなければならない。
大罪であるならば、なおさらだ。
だから私は、それから5年後の初陣の日、父上を説得の上で、東方のレジスタンス制圧作戦に名乗りを上げた。
そして1年を経ずして、その作戦は成功に終わる。
襲撃の首謀者は、全員縛り首に処し、その他のレジスタンス構成員は、鉱山送りとした。
同時に、襲撃された領主と裏取引をしていた商人も、全員鉱山に送った。
それで、全てが終わったと思っていたのだ。
あとは、王都を始めとした国中の整備を進めて、いかなる罪人も居ない、平和な国を作るだけだったのだ。
……だが。
「何もかも上手く行くわけでは無いのだな」
目の前で藻掻くこの男は、間違いなく、あの時の少年だろう。
その彼が、こうして王都の地下に居る意味。
それはすなわち、罪人が、罪を償わずに逃げ出しているということ。
許されざることだ。
今すぐにでも殺してしまいたい。
だが、そんな私の願望を、否定する者が居る。
死を司る死神が、それはやりすぎだと告げるのだ。
それは、この罪人に生きる権利があるというコトなのか?
そんなわけが、あるはずがないだろう?
もし、そこに道理があるというのなら、教えてくれないか?
納得できる理由があるのならば、聞き入れてもいいだろう。
だが、そうでないのならば、私は私の命を賭してでも、考えを改めることは無い。
もう二度と、あんな後悔をしたくないのだから。
「リグレッタ殿。この火傷のように、重ねられた罪を消すことは容易ではありません。それこそ、命を奪うくらいやらなければ」
「だから、それはやりすぎだって言ってるジャン!」
「では、どのようにして、積み重ねられた過去を消すというのですか?」
そんな私の問いかけに、少し考え込んだリグレッタは、ゆっくりと口を開いた。