第43話 嫌になる話
柔らかく、熱い。
そんな感触が、固く、冷たい剣の切っ先から伝わってくる。
視界を埋め尽くすのは、赤い飛沫。
聴覚を刺激するのは、低い呻き。
鼻腔をくすぐるのは、吐き気を催す血の臭気。
それらの感覚を凌駕するほどに、身体は熱気を帯びている。
舞い踊る雪と共に、我らは乱れ狂う。
目の前に迫る敵を、斬り伏せるため、乱れ、狂う。
構えた斧を振りかざし、こちらに駆けて来る男の喉元を。
私は、鷲掴み、持っていた剣で胸を串刺した。
飛び散る飛沫が。
短い悲鳴が。
色を失う瞳孔が。
私を更に狂わせるのだ。
次の獲物を探そう。
そして、更に狂ってしまおう。
そうすれば、何もかもを忘れて、乱れることができるのだから
「ローザ……」
崩れ落ちた男に背を向けて、歩み出そうとしたその瞬間。
私の耳に、誰かの声が聞こえてきた。
知らぬ名前。
知らないはずなのに、私は足を止めてしまう。
考えるな。
考えてはいけない。
その名前の意味を。
考えてはいけない。
考えてはいけない。
身体を動かせ。
狂え。
乱れろ。
そうでなければ私は。
私は……?
……。
私が気持ちのいい朝を迎えることができたのは、遠い昔のことだった気がする。
どれだけ静かな部屋で寝たとしても。
どれほど、心地の良いベッドで起きたとしても。
いつも同じ夢を見るからだ。
「いい加減、慣れたいものですが……」
目覚めた時の、鼓動の高鳴りも。
口の中に広がる血の味も。
全てが、あの夢を思い出させようとしている。
「あ、こら! ハナちゃん!! 泥はちゃんと落としてよ!」
「はっ!! ごめんリッタァ!!」
「分かればよろしい!」
部屋の外から、いつも通りの、賑やかな声が聞こえてくる。
こんな平穏な日常に、慣れてもいいものだろうか。
いいや。
ダメなのでしょう。
なにしろ、私は今、この平穏を崩してしまう場所に、2人を連れて行こうとしているのですから。
許されないことを、しようとしている。
だけど、彼女なら、リグレッタ様なら、もしかしたら。
そんな淡い希望を、私は抱いてしまっているのです。
日常や常識を、いともたやすく壊してしまえる彼女なら。
異常や狂気を、同じように壊してくれるんじゃないかと。
過去に縛られている異常者達を、未来を見れない狂人達を。
解放してくれるかもしれない。
「つくづく、勝手ですね」
震える手を落ち着かせ、ベッドから立ち上がった私は、ズボンだけを履き、部屋の外に出ました。
そのまま、5階のテラスに向けて、階段を上がる。
「あ、ベルザークさん! って、また上裸じゃん。ちゃんと上着を着ないと、風邪ひいちゃうよ?」
「いえ、この後鍛練ですので」
「はいはい。まぁ、好きにしてよね」
「おいたんおはよ~」
「おはようございます。ハナちゃん」
元気に畑の手入れに向かう2人に挨拶をした後、私は、まだ肌寒いテラスに出た。
全身に残る熱気を、はやく冷ましてあげる必要がありますからね。
この熱気を、忘れなくてはいけない。
今はまだ、狂って良い時ではないのですから。
じきに、その時が訪れる。
その時、リグレッタ様は、私を嫌ってくれるでしょうか。
壊してくれるでしょうか。
不安だ。
先が見えないということが、これほど恐ろしいことなのだと思ったのは、いつぶりだろう。
これはきっと、導いてくれる方がいないからこその恐怖。
それとも、もっと別の恐怖?
ダメですね。
こうして体を冷やしていると、いつも変なことを考えてしまう。
やはり、鍛練をして、無心になるべきでしょうか。
そう思い、テラスから鍛練場に向かおうとしたその時。
数キロ先にある山の奥に、巨大な建物が姿を現した。
「あれは……王都アゲルか」
目的地が見えてきた。
そのことを、階下に居るリグレッタ様とハナちゃんに伝えると、2人は急いでテラスに上がってくる。
「おぉ~!! あれが王都アゲルだね。ほらハナちゃん、大きなお城が見えるよ」
「ちっちゃいよ?」
「それは、まだ遠いから小さく見えるだけだよっ!」
「じゃあ、ホントはもっと大きいの?」
「そうだよ~。もしかしたら、このネリネよりも大きいかもね」
「デカッ!!」
明らかにネリネよりも城の方が大きいのですが。
まぁ、実際に見てもらった方が、驚いてもらえるでしょう。
ははは。
やはりまだ、リグレッタ様も子供なんだと実感しましたよ。
子供。
なんですよね。
そんな子供に、私は何をさせようとしているのか。
つくづく、嫌になる話だ。
「そろそろ、王都に降りる準備を始めておいた方が良いかもしれませんね」
「そうだね。でも、準備って何をしようかなぁ」
「万能薬をお渡しになるのでは?」
「そうだった! それと、ハナちゃん、今の内にお風呂に行こうか! 泥が付いたままじゃ、失礼だよね」
「やった! お風呂~!」
「それでは私は、ここで見張りを続けておきます」
「分かった! 何かあったら、呼んでよね!」
「もちろんです」
そう言って階段を降りていくリグレッタ様とハナちゃん。
触れ合うことができずとも、これほど仲良くなっている2人。
そんな2人を見送った私は、ふと、2人がもう戻って来ないのではないかと、思ってしまった。
そんなはずはないのに。
今もこうして、風呂場からの鼻唄が聞こえてきているというのに。
なぜ、そんな風に思ってしまったのだろう。
少し考えた末に、私は思い至りました。
怖いのだ。
この平穏を、壊してしまうかもしれないことが。
私たちの日常を壊してもらうために、彼女たちの日常を賭けに出した。
自分で選んだはずなのに、今更になって、賭けに出したことを後悔し始めている。
後悔……。
そのようなものとは縁遠く感じるのに。
彼女の両親はなぜ、そんな名前を付けたのだろう。
願わくば、この先に訪れる未来において、彼女が後悔することがありませんように。
後悔するのは、私たちだけで、良いのだから。