第198話 道化の成れ果て
リグレッタが潮の道に向かい、ハナ達が迫りくる魔物たちを迎え撃とうとしていた、そんな時。
プルウェア聖教国の聖都オーデュ・スルスに、1匹のネズミが忍び込んでいました。
そのネズミは、誰に気づかれることもなく、狭くて暗い隙間を進むのです。
誰に気づかれることもなく?
それは少し違うかもしれません。
ネズミが壁の隙間に潜り込んでいく様子を、街の住民が目にしていました。
ネズミが下水路に走りこんでいく様子を、見張りの人間が見ていました。
薄汚れた小さな体のネズミとはいえ、彼らが見落とすハズなどありません。
見落としたのでは、ないのです。
見たくないものだから、見送ったのです。
だからこそ、彼らは見落としたのでしょう。
そのネズミが、前足を1本失っていることを。
おぼつかない足取りで、下水を進むネズミ。
そうしてたどり着いた場所は、これまた狭くてジメジメとした部屋の中。
ここは、人間が牢屋と呼ぶ、そんな場所。
そこで一人の人間を見つけたネズミは、音もなく足を止めました。
対する人間は、騒がしい外の様子に気を取られていて、まったくネズミに気が付く気配がありません。
「魔物の襲撃か? そのままアイツらを全員殺してくれませんかねぇ」
人間の口から放たれたその言葉に、ネズミは耳をピクリと揺らします。
かと思えば、唐突に駆けだしたネズミが、人間の足首に喰らいついてしまいました。
「痛っ!! なんだっ!?」
勢いよく蹴り飛ばされたネズミが、宙を舞う。
しかし、着地をする頃には、それはもうネズミではなくなっていたのです。
「ご機嫌は如何ですか? デシレさん」
「き、貴様はっ!? ライラック!!」
ネズミから道化師へと変化を遂げたライラックをみて、デシレは動揺を隠せない。
それもそのはずでしょう、この2人の間には因縁があるのですからね。
「お久しぶりですね。いやはや、まさかこんな場所であなたに会うことができるなんて」
「貴様、なぜここにいる? いや、それよりも―――」
「人の挨拶をことごとく無視するとは、アナタも変わっていませんね」
「噛みついておいて何が挨拶だ!」
「まぁまぁ、我々の仲じゃありませんか。そこは大目に見てほしいところですね」
「貴様と慣れあった覚えはないがな」
「そうですねぇ。吾輩も、嬲られた覚えしかありませんよ」
ライラックがそう告げると、デシレは顔を強張らせながら壁に背中を密着させる。
「な、何をするつもりだ」
「いえね、少しばかり手を貸して頂けないものかと思いまして。ほら、見ての通り今の吾輩には、腕が片方しかありませんので」
「貴様を信じれるわけがないだろう」
「信じる必要などありませんよ」
そういったライラックは、目にもとまらぬ速さでデシレの懐に潜り込み、彼の胸を手刀で貫いてしまったのです。
「がぁっ……はっ」
「言ったではありませんか、手を貸してほしいのです。腕だけあれば事足りるのですからね? まぁ、ついでに、アナタが持ってる奇跡も拝借するつもりですが」
ドサッという音の後、牢屋の中に何かを啜る様な音が響く。
しばらく後、その音がやんだ牢屋の中には口元を真っ赤に染めた道化師が一人立ち尽くしていた。
彼は満足げな笑みを浮かべながら、“両手”を大きく広げて見せる。
「ようやくだ……ようやく、この時が来たのですねぇ!!」
広げていた腕を胸元に寄せた彼は、まるで胸の中に宿っている何かに聞かせるように、続けた。
「きっと、彼女ならやってくれることでしょう。そうとなれば、吾輩も準備をしておかなければ。まずは、この街が邪魔になってしまいますからねぇ」
それだけを告げた彼は、再びネズミへと姿を変える。
来た時と同じように、下水を通ってゆくネズミは、行きとは違い軽快な足取りだった。
汚い下水から、少しはマシな水路に移る。
複雑な経路を辿りながら、時折地上の様子を伺ったネズミは、目的の場所へと到達する。
そこは、街の中で最も大きな建物。
言うまでもなく、大聖堂だ。
大聖堂の中に入るため、一度地上に姿を現したネズミ。
横たわっている怪我人の合間を抜けて、ネズミが向かった先は、固く閉ざされた礼拝堂。
しかし、ネズミにとってその扉は左程の意味を成さなかった。
近場の壁から水抜き用の水路に潜り込み、そのまま進むこと数分。
狙い通り、ネズミは人気のない礼拝堂の中に侵入する。
地下に伸びている階段の入口。
開かれたままのその入口を覗き込んだネズミは、躊躇することなく一歩を踏み出した。
階段を下りながら道化師の姿に変化したライラック。
そうして彼は、地下の最奥にある叡智の間に辿り着いたのです。
「ここに来るのも久方ぶりですねぇ……何百年ぶりでしょうか? まさか、階段がなくなっているとは思いもしませんでしたよ」
そういった彼は、今しがた飛び降りてきた天井の穴を見上げる。
つづいて、西の石壁に視線を投げたライラックは、小さく肩を竦めた後、叡智の水盆に向き直りました。
「さてと……それではそろそろ、アナタの本領とやらを見せてもらいましょうかねぇ」
微かな独り言を告げたライラックが、右手で叡智の水盆に触れた。
その瞬間、叡智の間に何者かが降り立つ。
咄嗟に身を翻したライラックは、振り抜かれた鋭い切っ先で、左の頬を切り裂かれる。
「お前は……どうやってここまで入ってきた?」
「おやおや、出合頭に切りつけるなど、紳士の風上にも置けませんよ?」
「私は別に紳士というわけでは無いからな」
「そうでした。どちらかといえば、バーサーカーですね」
「おいたん! 大丈夫!?」
「えぇ、私は大丈夫ですよ! ですから、ハナちゃんは持ち場に戻ってください!!」
ライラックと対峙している男、ベルザーク。
彼に戻るように言われたハナは、しかし、心配げな表情を浮かべたまま叡智の間に降りてきた。
それもそのはずでしょう。
彼女はライラックがどんな存在なのか、理解しているハズなのですから。
「おいたん、やっぱり私が」
「いえ、先ほど見たとおり、蜃の群れと海の魔物を迎撃するためには、ハナちゃんの力が不可欠です。ですからここは―――」
「良いのですか? 彼女を返してしまったら、アナタに勝ち目はありませんよ?」
すぐに言い返そうとするベルザークに、しかし、ライラックはその猶予を与えるつもりがなかったようです。
ハナが撃ち込んできた風を利用して、後方へと大きく跳んだ彼は、宙でその身を変化させる。
大きな黒い翼と尾、そして硬い鱗に覆われた姿に。
慌てて対処しようとするベルザークとハナだが、間に合うわけがない。
なにしろ、彼はずっと待っていたのだから。
計画を実行に移すべき、この時を。
邪龍ベルガスクに成り果てたライラックは、その巨大な口を叡智の水盆に突っ込んだ。
そして、その中身を瞬く間に飲み干してしまったのです。
何のために彼がそんなことをするのか。
この時代にそれを知る者は誰一人いない。
そもそも、彼が何者なのかさえ、知る者はいないのだから。
いいえ、それは少し違うかもしれません。
彼はやはり、見送られてしまった者ということなのでしょう。
見たくもない存在だから。
見えていても、見えないところに押しやっていたいから。
だから、押しやった方は忘れてしまうのです。
だから、押しやられた方は忘れたりはしないのです。
そうして得た平穏は、決まって忘れた頃に破られる。
今まさに破り捨ててしまおうとしている彼は、また押しやられてしまうのだろうか。
あるいは……。
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