第188話 懐古の器:叡智の水盆
調べれば調べるほど、叡智の水盆の重要度が増していく。
こうなったらもう、直接調べちゃったほうがいいよね。
そう考えた私は、街の片付けに奔走してた皆を集めることにしました。
やっぱり、懐古の器は皆で見たほうがいいよね?
もちろん、あの部屋に海水が流れ込んできた場合を想定して、いろいろと準備も整えたんだよ。
そして今、私は大きな水盆の縁に立っているのです。
「それじゃあ、始めるよ?」
頷く皆を見た私は、遠慮することなく右手を水盆の中に浸しました。
さて。
今回はどんな過去を見ることができるのかな?
多分、イージス父さんの記憶じゃないよね。
可能性があるとしたら、ソラリス母さんです。
まだ聖女として仕事をしてた頃の母さんが見れるかもしれない。
そう思うと、好奇心の他にちょっぴり不安が湧き上がってくるよ。
そんなことを考えながら、水盆の上にうっすらと浮かび上がり始めた映像に、私は意識を集中しました。
静かな時間。
そんな静寂を破ったのは、聞いたことのない声だったよ。
『この記憶を……誰かが見てくれることを信じるしかないみたいだ』
叡智の水盆の縁を握りしめて独白するのは、この記憶の持ち主だった人かな?
手を小刻みに震わせる彼は、自身の右の掌を広げます。
『あの子の力は、私の想像を遥かに超えている。はじめは、それだけ強くプルウェア様に愛されているのだろうと考えていた。だが、そうではない。そうではなかったのだっ!!』
少し声を荒げた彼は、自身の指先を噛んで血を出し、血液で右手の掌に十字型の文様を描き出す。
『罪人の浄化も、魂を清めているのではなく、全く別物の真新しい魂に置き換えているだけ。中身を入れ替えているだけに過ぎない! そのようなものが、浄化と呼べるはずもないのに!』
そう叫んだ彼は、右の掌で視界を覆いつくしちゃったよ。
そのせいで、映像は真っ暗になっちゃったね。
『誰か。この記憶を見る者がいたとして、この叡智の水盆が何事もなく残されているのだとするなら、私は失敗したということになる。だから、その時は、私の代わりに全て破壊してほしい』
そう告げた彼は、顔を覆っていた右手を離しました。
すると、さっき描かれてた赤い十字が淡い光を放ち始めてるよ。
これは、私が知らない術の一つなのかもしれないね。
そんな淡い光を放ってる右手を、叡智の水盆に突っ込んでかき混ぜ始める彼。
しばらくそんな様子を見ていると、彼の背中にかわいらしい声が投げかけられたみたいです。
『ホープ様? 何をなさっているのですか?』
『……っ!?』
あからさまに動揺してる様子の彼、ホープさんは、ゆっくりと振り返りました。
そこでようやく、その場所が礼拝堂なんだと気が付く私たち。
そして、彼の元を訪れたのが誰なのかも、知ることになるのです。
『ソ、ソラリス』
『探し回ったのですよ、ホープ様ぁ!』
まだ幼い姿のソラリス母さんが、嬉しそうな表情とともに駆け寄ってくる。
そんな彼女は、その真っ白な髪をたなびかせたかと思うと、勢いよくホープさんに抱き着いたのでした。
「なっ!?」
「これは一体……」
「混乱してきたっスよ」
ホープさんに駆け寄った母さんに、躊躇いなんか無いように見えた。
そして、それが当たり前だとでもいうように、ホープさんも母さんを体で受け止めてる。
『転んだりしたら危ないじゃないか、ソラリス』
『大丈夫ですよ。ホープ様がいますから』
そう言いながらも右手を叡智の水盆に突っ込んだままのホープさん。
当然、母さんの視線はその右手に向かうよね?
『何してるの?』
『お仕事だよ。そんなことよりも、ほら―――』
なんてことのない話でもして、注意を別のものに引こうとしたのかな?
ホープさんがソラリス母さんの頭に左手を伸ばそうとしたその瞬間。
ホープさんの視界が大きくゆがみ、誰のものか分からない声がいくつも響き渡ったのです。
『殺せっ!! このガキを殺さなくてはっ!!』
『殺すな!! きっとまだ、やり方があるはずだっ!!』
『隠したほうがいい。そうれなければ私は罪人となってしまうではないか』
『そもそもなぜ、私はこのようなことをしようとした?』
『お前ら全員うるさいぞ!! 黙ってろよ!!』
それらすべての声が、ホープさんの声と同じに聞こえるんだけど。
口調とか声音は全然違く聞こえるのが不思議だね。
『ホープ様!? 大丈夫!?』
『あ、あぁ……大丈夫だ』
そういいながらも耐え切れなくなっちゃったのかな?
頭を抱えるようにしてその場にしゃがみこんだホープさん。
当然だけど、叡智の水盆に突っ込んでた右手も抜き取られちゃった。
そのせいかな?
徐々に懐古の器の映像が薄らいでいくよ。
そんな中、ホープさんの心の中の独白が聞こえてきたんだよね。
『私は……本当にこの子を殺せるのだろうか』
さっきのもだけど、これはさすがに声には出してないよね?
なんてことを心配してた私は、映像が暗転したことで安心しかけてしまったんだよ。
でも、暗転した映像が、暗闇を映し出してるんだってことに気が付いちゃったんだ。
視界の端に薄っすらと映りこんでる長い白髪が、記憶の主を示しています。
そんな記憶の主は、かすれるような声で呟きました。
『どうして……? どうして、あんなことになっちゃったの? 私、触っただけなのに? なんで?』
鼻をすする音も聞こえるから、きっと泣いてるんだね。
『どうしたらいいのか、わかんないよぉ……教えてよ、ホープ様ぁ』
声に出す言葉以外にも、怖い暗い痛いって感情が響き渡り続けてるみたい。
そんな状態で長いこと放置されてたらしいソラリス母さんのもとに、近づいてくる足音が聞こえてきました。
複数の足音が母さんを取り囲んだかと思うと、前触れもなく視界に光が差し込みます。
『だれ?』
眩しさに目を細める母さん。
そんな彼女に対して、少し下のほうから声がかけられました。
『私だ。ホープだ』
『ホープ様!? よかった、助けに来てくれたのですね』
『まぁ、そのようなところだ』
母さんのほうを見上げるようにして淡々《たんたん》と告げるホープさんは、分厚いローブに身を包んでる。
顔とかも何も見えないけど、ホントにホープさんなのかな?
そう思うくらい、彼の雰囲気がさっき見たそれと変わってるように感じるよ。
っていうか、ソラリス母さんは磔にされてるじゃん!
助けるっていうなら、まずは降ろしてあげて欲しいものだけど。
そんなことを考えていると、ホープさんが話し始めたよ。
『お前の処遇が決定した』
『え?』
『本来、お前は即刻処刑されるところだ。しかし、お前の浄化の力には利用価値がある。そこで、プルウェア聖教にその身を捧げるというのであれば、生かしておいてやってもいいだろう』
『価値? そんな、私は』
『死にたいのか?』
問答無用って感じだね。
少し強い口調で告げるホープさんに思うところがあったのかな?
ソラリス母さんは少し躊躇った後、静かに告げたのでした。
『わかりました』
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