古い鏡台
私の名は月梨究実。運が悪いのか何なのかよく分からないが結構な頻度で理屈や常識の範囲を超えた異常な事件に巻き込まれる。もっともなんだかんだ言ってたいした実害も無く生き延びてはいるので、最悪の事態を免れる程度のツキは持っているらしい。そんな私が出くわしたトラブルはと言うと例えば・・・
1.古い鏡台
その日は特にこれといった目的も無く町をふらふらと歩き回っていた。その最中に通りかかったリサイクルショップに何気無く入ったのもただの気まぐれでしか無い・・・と言いたい所だが、今となってはもしかしたらこの時から『誘い込まれていた』のかも知れない。何か掘り出し物でもあれば良いな、程度の軽いノリで店内を見て回っていた時、片隅に雑な感じで置かれていた鏡台が目に留まった。それは如何にも古ぼけた感じで素人目にも良い作りとはいえず、正直とてもじゃないが買い手がつくとは思えない代物だった。にも拘わらず私の中に何と無くこれを買ってみようという気持ちがわき上がった。何としても欲しいと言う程の強烈な欲求では無かったので我に返ってやっぱりやめておこうという流れになっても良さそうなものだが、逆にそのあやふやな感じのせいでこの手の危険に人一倍敏感な筈の私の警戒心が刺激されなかったのかも知れない。結局私は愚かな事にその鏡台を購入してアパートの自室に配送の手続きを済ませてしまった。
その後部屋にいる時に誰かに見られているような感じがするようになった。今になって思い返せば何が原因かすぐに分かりそうな物だが当時は何故かあの忌々しい代物と不愉快な感覚が結びつかなかった。只でさえこの部屋は問題を抱えていると言うのに頭痛の種が増えてしまった。何を隠そう私はここで日常的にある現象に悩まされていた。毎日ほぼ決まったタイミングで響き渡る轟音と振動。窓から外を眺めると目と鼻の先に線路があり、お陰で列車が通過する度にうんざりさせられていた。勿論『訳あり物件』として家賃は相場より結構安上がりだったし、幸い深夜に運行する路線ではなかったので真夜中にたたき起こされる様な事も無かった。そんな訳で言ってしまえば住環境より金を選んだ訳だが、何かに集中していたり逆に気が抜けている時にまるで狙ったかのように『不意討ち』を喰らう事が意外と多く、そういう時に運悪く何か飲んでいたりしよう物ならかなり悲惨な状況が待ち受けていた。
その日の私は精神的にかなり落ち込んでいた。単独で大きくダメージを受けるような問題があった訳では無いが、これまでため込んできた細々としたストレスをうまく発散できずにいたせいでへこみ具合も相当なものだった。外出する必要があったのでメイクをするため鏡台の前に座れば当然鏡に映る自分の姿を眺める事になるが肩を落として疲れ果てた様子があまりにも痛々しく我ながら惨めな気分になってくる。私はそれ以上自分の無様な姿を見つめ続けるのに耐えきれなくなり、思わず俯いて鏡から目をそらした。足下に向けられた視界にペイントスプレーやマスキングテープ等が入ってきた。塗り替えでもすれば多少は見た目もましになるかと思って購入していたのだが結局そのまま放置状態になっている。
「ああ、もうあれもこれも嫌になってきた。全部放り出して逃げ出そうかなぁ・・・。」
「良いね、それ。だったらこっちにおいでよ、ほら。」
積リに積もった不満からつい口をついて出た愚痴に返事が返ってきた事に心底驚いた。今部屋の中には私一人だけ。普通に考えてこんな事あるはずが無い。
(知らないうちに誰か入ってきた?いや、そんな事あり得ない。)
出所不明の声に体を強ばらせながら、必死に目だけを動かして辺りの様子を窺う。しかし顔を伏せたままで見える範囲に人影及び不審な物の類いは見当たらない。このままでは埒が明かないと感じた私は恐る恐る顔を上げた。
「え・・・?何、何なのこれ?」
正面を向いた私の前には鏡があり、当然そこには私の姿が映っている。しかしその鏡像はあまりにも異様な物だった。鏡のこちら側に居る私の表情は誰がどう見ようと間違いなく『驚き』としか表現できないものでそれも一生に一度あるかどうかと言うほどのレベルだった。しかし鏡に映る私は嫌な感じの笑みを浮かべていた。どのくらいかと言えばありったけの悪意と狡猾さと粘着気質を混ぜ合わせて顔面に目一杯盛り付けたような有様だった。その醜悪な表情に嫌悪感が湧き上がると共に、本能的にこれ以上この場に留まるのは命取りになると感じて即刻その場から逃げ出そうとしたのだが私の意に反して身体の自由はきかず、鏡の中のおぞましいコピーから視線を逸らすことができなくなっていた。
「毎日一杯一杯でもう限界なんだよね?こっちはそういうの一切無いから気楽だよ。さあ・・・」
鏡像の私はそう言いながら片腕をこちらに伸ばして手招きを始めた。最早完全に自分の意思で制御できなくなった私の体はじわじわと上体を倒して鏡面に近付いていく。それに連動するかのように抵抗しようとする気も失せ、言われるがままに動くのが正しい事のように感じ始めていた。そして私の鼻先が鏡面に接触する寸前に来たその時・・・
「・・・っ?!」
出し抜けに激しい轟音と振動に襲われ我に返った私はまさにギリギリのところで咄嗟に上体を引き起こした。いつもなら鬱陶しくて仕方の無い列車通過だが、今回ばかりは心底感謝した。だが残念な事に私の身に迫る危機はまだ終わった訳では無かった。
「無駄だ、逃げられると思うなぁぁぁっ!」
そう叫びながら『鏡像だったもの』は獲物を追い詰める肉食獣そのものの顔付きで両腕をこちらに伸ばしながら近寄ってきた。指先から鏡面を突き抜けて徐々にこちら側に侵入し始める。質の悪い悪夢そのものと言った展開を目の当たりにしてすぐにでもこの場から逃げ出したい衝動に駆られたが、何故か体がその欲求に従おうとしなかった。恐怖のあまり足が竦んでしまったとか言う事ではなくて、うまく説明できないがもしこの化け物が完全にこちら側に来てしまったらとてもじゃないが逃げ切れる訳無いだろうと感じた、と言えばあの時の感覚に近いだろうか。それならゲームオーバーが確定する前にあれを何とかして追い返すしか私の助かる道は無い。しかし一体どうやって?その答えを求めて辺りを見回した私の視線がある物の上で止まった。これを使えばもしかしたらと咄嗟に手が伸びたが、果たしてそんなにあっさりと解決できるのかという疑問が浮かび動きが鈍った。しかしすぐに迷っているくらいならダメ元だろうが何だろうが思いついた事を片っ端から試してみなければ生き延びる方法は無いと思い直してそれを引っ摑むと半ば以上三次元の世界に乗り込んで来ていたおぞましい物に向かって構えを取った。
「上手くいってよ・・・、それっ!」
『一生に一度のお願い』と言いつつ、それ何回目だよとツッコミを入れられるというのはよくあるネタだが、この時ばかりはまさに掛け値無しの生涯一度きりだった。何しろ自分の命が掛かっているのだからこの先もこれ以上必死になる事はまずあり得ないだろう。と言うかそうそうあってたまるものか。とにかくありったけの願いを込めてペイントスプレーをとことん振りまいた。ちなみに何故こんな行為に走ったかというと、この鏡台の能力は『鏡に映った獲物に擬態できる』という物ではないかとひらめいた為。逆に言えば鏡が物を映せなくしてしまえば無力化できるかも知れないという思い付きに賭け、本来は鏡台の枠や本体に使うつもりだったペイントスプレーを鏡に使ってみる事にした。果たしてペイントまみれで元の外見が全く分からなくなった化け物は不快な唸り声を上げながらもがき苦しんでいたが空気が抜ける風船のように徐々にしぼみ始めるとそれ程時間も掛からず元の一枚板に戻った。しかしまだこれで安心という訳にはいかない。もしも何らかの理由で塗装が落ちてしまったらこの怪物が活動を再開してしまう事になる。そこで私は隙間無くテープを貼ると何があろうと二度と鏡として機能しないよう粉々に砕いてやった。残骸を袋に詰めて危険物として処理を済ませた所でやっと一息つけた。
その後しばらくの間は悪夢にうなされて汗びっしょりで目覚める事もあったりしたが、時が経つにつれて少しずつ落ち着いてきた。自分でもほぼ以前に近い状態になってきた感じがしてきた頃にバイト先から同僚の七篠映子の様子を見てくるように頼まれた。映子は一週間位前からシフトの日に無断欠勤していたが、それまで全然そんなことは無かったのにいきなりの事で不自然なので念の為現状確認しておきたいという事らしい。映子とまあそこそこ親しく家族とも面識のある私がお役目を仰せつかった訳だが、一人暮らしの彼女の所に向かう途中でもしもやっかいな状況になっていたらどうしようかと不安になってきた。よくよく考えてみればそれまで何のトラブルも起こしていない人間が急に無断欠勤とか普通はあり得ない。と言う事は何か事情があって連絡できないのかも知れず、下手すると事故や事件に巻き込まれたまであり得る。とんでもない物を見せられる羽目になるのだけは勘弁して欲しいと思っているうちにとうとう映子の住まいのドアの前まで来てしまった。仕方ないので恐る恐る呼び出しのボタンを押してしばらく待ってみるが反応は無い。役目は果たしたしここでさっさと帰れば良い物をついつい余計な事をしてしまい、何と無くドアノブを握ってひねると予想に反してあっさり回りきり流れでそのままドアを手前に引いた。ドアを開けるとほぼ同時に中から漂ってきた不快な匂いが鼻を突く。一瞬最悪の事態が脳裏をよぎったがそれは噂に聞くような『想像を絶する悪臭』と言う程の物では無く精々生ゴミレベルの物だった。恐る恐る中に入り居間の前まで進んだ所で扉をそっと開けて様子を窺うと部屋の中央のテーブルにおそらく一週間程前の物らしき手付かずの食事のなれの果てが並んでいた。ひとまず匂いの原因は分かってほっとした物の、次はこんな状況になった原因という新たな不安がわいて出た。何か手掛かりになりそうな物を求めて部屋中を見回してみたが生憎解決につながりそうな代物は何処にも見当たらない。これ以上部屋の外でもたついていてもこれと言った収穫は無さそうだったので思い切って中に踏み入って家具の影になって見えなかった所を覗き込んでみた。
気が付くと部屋から結構離れた路上で呆然と突っ立っていた。あれからここに来るまでの間の記憶が抜け落ちている。まるで悪夢にうなされていた頃のように汗びっしょりだが生憎さっき見た物は現実だった。何気無く向けた視線の先には確かに鏡を粉々に砕き、更に本体もばらして処分したはずのあの鏡台が存在していた。その瞬間あの日の忌わしい記憶が蘇った私はパニック状態に陥りながら無意識にここまで逃げてきたらしい。何とか無事に済んだ事にほっとしつつ私はあの鏡台の正体について考えた。もしあれが以前破壊した物と同じ物だとしたら普通に壊しただけでは再生すると言う事で、最悪の事態だといえる。逆に前と今ではそれぞれ別の物だとしてもそれはそれでやっかいな事で、この程度の割と短い間に立て続けに出くわすと言う事はつまりまだまだ他にも居るかも知れず、『あの虫』のように一匹見かけたら…なんて状態だったらと想像しただけでぞっとする。実際の所は一体どうなのかはひとまず置いといて今どうするべきかは言うまでもない。管理人に状況を知らせ、そこから家族と警察に連絡してもらった。ここで私が最近自分の身に起こったことを話しても多分まともに取り合ってくれるはずもないしこの件は原因不明の失踪として処理されるとみてほぼ間違いない。せめて何とかしてあの鏡台を引き取らなくては…などと考えていたところ事件は思いもしていなかった方向へと展開を見せた。映子はある男の家に監禁されていたのを発見、保護された。住人の男は彼女にストーカー行為を働いていて遂に犯行に及んだが映子を監禁して家を出た後一度も戻って来なかったらしい。恐らく彼女の部屋を物色しに戻ってそのまま鏡台の餌食になったのだろう。ドアの鍵が掛かっていなかったのもそれで説明がつく。何はともあれ一週間ほど監禁状態で放置されたものの結果的にそれ以上の犯罪被害を免れたお陰で映子の受けたダメージは比較的軽いもので済み、バイト先もさすがに今回は無断欠勤するなという方が無理な状況だった為解雇はせず、しばらく休養した後めでたく復帰することになった。なお今まで住んでいた所はやはり事件の事を思い出してしまうので引き払い、よりセキュリティの高い所に転居するつもりらしい。それまでの繋ぎで一時的に実家住まいをしている映子に家具はどうするか確認してみたところやはり大型の物は事件の記憶を呼び覚ますかも知れないので処分するとの事だった。この機会を逃す訳にはいかないと思った私は鏡台を引き取り、再び完膚なきまでに破壊した。今回の犠牲者はストーカー男一名で寧ろお手柄と言えなくもないがこのまま野放しにしておけばこれといった罪のない誰かが被害にあうのは明らかなので問答無用で潰すと決定した。まずは一度対処した時の経験を生かして姿が映らないように段ボールのシールドの裏に隠れて鏡と対面。これで相手は人畜無害な段ボールの一枚板をコピーする事しかできない。小さく開けた覗き穴から様子を伺いつつこれまた所々に開けた小穴からペイントスプレーのノズルを突き出し鏡面をじわじわと塗り潰していく。どうやら素の状態だと『自身に映っている対象をコピーする』以外の行動は不可能らしく何の動きも見せず唸り声一つすら出せないようだったが、明らかに普段とは異なる空気が鏡台を中心に部屋中に満たされていった。不意打ちを受けたことによってもたらされた混乱と私による露骨な敵対的行為に対する怒りだろうと思われるそれは鏡面にテープを張るうちにこの先起こることへの不安に変化し、最後に私がハンマーを取り出し振りかぶったときに恐怖と絶望へと姿を変えた。そして全てが終わった時部屋の空気はつい今しがたの出来事が嘘だったかのように普段通りだった。
後になってそれと無く映子に確認してみたところ、二人が鏡台を所有していた期間が多少被っていることが分かった。つまりあれらは別の個体で不死身というわけではないようだ。まあ最悪の事態は回避できたもののあんな厄介な代物がまだいるかも知れないと思うとかなり気が滅入ってくる。もし不運な誰かがあの化け物に遭遇してしまったら、何とか私のように返り討ちにしてくれることを祈ってやまない。
既存の怪談を元にただ見ているだけだったのを主人公襲撃に変更、更に後日談追加