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これまで鱗毛人を観察・研究する中で、一番の制約は『時間』だった。
彼等に伝染病を移す事、そして移される事を懸念して装備している防護服は、その気密性の高さが仇となって熱がこもる。冬場ならばまだ良いのだが、今のような夏真っ盛りに長時間の使用は出来ない。冬であっても、フィルターなどの交換が必要なのでやはりあまり長くは着ていられないものだ。
このため今まで鱗毛人の観察は、長くとも二時間が限度。付け加えるとこんな重くて苦しい装備をしたままでは、足場が不安定な『洞窟内』を進む事は避けねばならない。いくら洞窟探検になれている詩子でも、防護服という大きなハンデを背負ったまま洞窟探検をするつもりはない。
よって今まで、洞窟の奥深くで眠る彼等の生活を事細かに知る事は出来なかった。しかし今その制約から解き放たれ、自由に動き回れる詩子であれば問題は何もない。
自由を得た詩子は今、夜を迎えて洞窟内へと戻る鱗毛人達と共に、洞窟の奥へと進んでいた。
「(ふーむ。抵抗されるかもと思っていましたが、意外と受け入れてもらえましたねー)」
洞窟内を先行する鱗毛人達の後ろを、詩子は懐中電灯の明かりを頼りに付いていく。
天然の洞窟とはいえ、ここは彼等にとって『自宅』であろう。その中に入り込んで嫌な顔一つされなかったのは、詩子としてはちょっとばかり予想外だった。彼等には『プライバシー』の概念がないのか、はたまた詩子は家族のように受け入れられているのか。
「ホ、ホォ、ホォワォォォ……!」
詩子をちらちら見ながら右往左往している息子の様子から鑑みるに、どちらかと言えば後者のようだと詩子は感じた。
彼等の夜の生活を知る、貴重な機会だ。ありがたく中の様子を見させてもらおう事とする。
詩子が初めてこの洞窟に入った時、鱗毛人の母親と姉妹は比較的入口近くにいた。しかし今回はどんどん奥へと進んでいく。徒歩十分は経っただろうか。道は進むほど険しくなり、防護服を着ていてはそろそろ前進すら困難になっていたに違いない。
やがて詩子は、開けた空間に出た。洞窟内故に周囲は未だ暗闇に閉ざされているが、空気の流れや気圧など、雰囲気からそれを察する。
「此処は……」
環境の変化を感じた詩子は、懐中電灯の明かりをあちこちに向ける。
光に照らされた景色から考えるに、高さ十メートルほどの、ぽっかりと開けた空間のようだ。
ただ、雨水などに侵食されて出来た『穏やか』な空間ではない。大きな岩があちこちに転がり、地面は激しく隆起している。如何にも崩落しましたと言わんばかりに崩れた天井や、ごく最近出来たような水溜まりも見られる。
どうやら、この辺りの地形は崩れ落ちる事で出来たものらしい。そしてそれはかなり最近の出来事のようだ。
「(成程。元々は彼等は洞窟の奥深くに暮らしていて、地殻変動などで地上に追い出された……のかも知れませんね〜)」
あくまでも推測であるが、尤もらしい理由が脳裏に浮かぶ。
あり得ない話ではない。富士山は未だ何時噴火するか分からぬ火山であり、その地下でマグマの流入などの地殻変動が起きていても不思議はないのだ。大規模な地震や噴火が生じていなくとも、洞窟が崩落する程度の『歪み』や地盤沈下を生み出す事はあるかも知れない。
とはいえ、こんな徒歩十分の場所を『本当の生息地』というのは、流石に甘い見方だろう。この程度の浅い場所で暮らしていたなら、頻繁に外に出ていたとしても不思議はなく、目撃例が続出する筈なのだから。
つまり言い換えれば、もっと深くに行く道があれば話は違う。
「(何処かに隙間があったりしませんかねー?)」
自説の補強を無意識に求め、詩子は再びぐるりと辺りを見渡す。しかしやはり何も見付からない。正確には広さと暗さ、そして懐中時計一本という装備の心許なさで隅々まで見るのは困難だ。
洞窟の『奥』があるとしても、探すには苦労しそうだ。一旦それは頭の隅へと移し、意識を鱗毛人達に戻す。
「ホ、オゥオゥオゥ……」
「オガァー」
「ガンガァー」
すると母親と姉妹が、詩子を見ながら鳴いている姿が見えた。
自分を読んでいるのだろうか――――感じたものに従い歩み寄ると、母親はごろんと洞窟の地面に寝転る。姉妹も同じく寝転がり、母親にぴたりとくっついた。
そして息子は、一人離れて地面に寝る。
どうやら鱗毛人達は性別ごとに分かれて眠るらしい。或いは、年頃の雄は番以外の相手に近付いてはいけない、のようなルールがあるのだろうか。群れの父親がいればもう少し考察も出来たが、いないものをあれこれ言っても仕方ない。
詩子も母親達の傍に歩み寄り、ごろんと寝転がる。すると母親は満足したような鼻息を吐き、そして寝息を立て始めた。姉妹の寝息も聞こえてくる。
このまま朝まで寝るつもりなのだろう。
果たして彼等はこの暗闇の中で、どうやって時間を確かめているのだろうか? 多くの生物では、体内時計と呼ばれる仕組みを持つ。時間の判別方法は様々であるが、例えばある種のたんぱく質の増減周期から時間を測っているものもいる。彼等の体内時計は極めて正確なのか、鱗毛人の特徴なのか、単に現代人と違って時間に縛られないだけか。
「(……凄い体温。いえ、これは放熱でしょうか?)」
母親の身体にそっと触れてみると、かなり熱々としている。火傷をするような体温ではないが、しかしただ傍にいるだけで汗ばむほどだ。洞窟の中は過ごしやすい涼しさなのに、傍にいるだけで熱を感じるとはまるでヒーターである。
体温の高さは、基礎代謝の高さに由来するのだろう。色々触ると鱗部分が特に熱い。なんらかの方法で身体の余分な熱を集め、此処から放熱しているのか。
詩子は鱗の発達は防御のためと考えていたが、もしかすると発熱のための進化なのかも知れない。だとするとヒトに鱗がないのも頷ける。ヒトは優れた発汗能力により体温をコントロールしているからだ。この方法は水を大量に消費するが、極めて短時間のうちに、気温に関わらず体温を下げる事が出来る。水が蒸発した際に熱が奪われる作用……気化熱を利用するため、外気温が体温より高くとも『放熱』出来るのが利点だ。
鱗の放熱で体温を調整する鱗毛人のやり方は、貴重な水を使わない点では合理的である。しかしただ鱗を熱して排熱するという事は、気温が低くないと熱が逃げていかない。気温がある程度低くなければ、全く意味のないやり方と言えよう。
「(だとすると彼等の本来の住処は、極めて乾燥した寒冷地? ヒトの誕生した環境と異なりますが、しかしこれほど差異が生じるとは……それだけ分岐した時期が早いのか、はたまたヒトが特異なのか……)」
ただ共に寝るだけで、溢れるほどに得られる知見。ヒトを理解したいという衝動が、何もせずに満たされていく。
しかしこの幸せな時間を邪魔する輩が現れた。
離れた場所で寝ていた筈の、息子である。
「んぁ?」
つんつんと背中を突かれ、詩子は反射的にくるりと振り返る。尤も、暗い洞窟内での出来事だ。振り返ったところで何も見えはしない。
ただしそれはヒトの目の話である。鱗毛人の目には何かが見えているのか、振り向いた詩子の腕をそっと掴む。
それから優しく、だけど確かに、息子は詩子を引っ張った。
「(……こっちに来て、って言ってるのでしょうか?)」
彼が何を伝えたいかは分からない。しかし意図は察した。詩子はゆっくり起き上がる。
詩子が起きたところで、息子はまた優しく詩子の手を引く。何処かに案内したいらしい。引かれるがまま、詩子は彼の後を付いていく。
「ん? ……んん?」
すると、小さな違和感を覚えた。
暗闇の中にぽつんと、白いものがある。
そう、白いものだ。しかしこれはおかしい。何故なら此処は暗闇の中であり、光が存在しない領域である。白とは全ての可視光線が反射されている色であり、即ち光がなければ見えない色彩だ。
事実、それは白い色ではなかった。微かな、とても小さな……『光』だった。
「(まさか。何故こんな洞窟に光が?)」
驚きと疑問。その答えに向かう息子の足取りに、詩子は最後まで抗わない。
息子が連れてきた場所には、本当に小さな隙間があった。
幅は一センチもない。だが間近にまで迫ったから分かる。間違いなく、此処から漏れ出しているものは光であると。
詩子は洞窟内を一度見渡しているが、あの時見落としたのは懐中電灯で辺りを照らしていたからだと詩子は考えた。また寝る前には明かりを消したが、その目は懐中電灯に照らされた状態に慣れている。こんな小さくて弱々しい明かりは、暗闇の中に長い間いなければ見えないだろう。
自分の『失敗』をほんの少し反省しつつ、詩子は目の前にある謎に思考を差し向ける。
どうして地下深くに光源があるのか? 例えば此処が鉱山であるなら、採掘道を照らすライトの明かりだと言えたかも知れない。しかし此処は青木ヶ原樹海のど真ん中かつ、そこに出来た天然洞窟の奥。人工物があるとは思えない。それにヒトが利用するには、些か弱い光に思えた。
恐らくは天然の発光源が存在するのだろう。
天然物で光を発するものは幾つもある。例えばヒカリキノコバエという昆虫は中々強い光を放ち、その生息地は観光地にもなっている。ツキヨタケというキノコもほんの微かに光るし、深海生物も光るものは多い。今見えている光も、恐らくはこの類だ。
しかし眩しくないというだけで、光はかなりハッキリとしている。ホタルのように強い発光をする生物がいるのか、ツキヨタケのような生物が群生しているのか。だとすると何か、大きな空洞があるかも知れない。
一体、この先には何があるというのか。いや、そもそも自分の理解の範疇に収まるものがあるのだろうか――――
「オガゥ。ゥガガゥ、アゥッ!」
考え込んでいた詩子に、息子が声を掛けてきた。
ただ叫んでいるだけ、ではない。何かを訴えるように、詩子の顔をじっと見ている。暗闇の中なので輪郭による動きぐらいしか分からないが、詩子はそう感じた。
何か、彼は重要な話をしている。
果たして何を言いたいのだろうか。この奥に鱗毛人の故郷があるのか。それを救ってくれと話しているのか。否、妄想を働かせるべきではない。けれども想像しなければ、此処で答えは出せそうにない。
そしてここで答えを出さねば、彼は酷く失望するという予感があった。
「(別段、失望される事に罪悪感やらなんやらは感じませんけど〜……それで研究が進まなくなるのは困りますね〜)」
ヒトについて知るためなら、嘘も裏切りも躊躇わない。それに、叶えた方が得であるなら協力も惜しまない。
詩子はそういう考え方をするヒトだ。だから問題があるとすればただ一つ。
「良いですよ〜。わたしで良ければ、やれる限りの事はしますから〜」
にこりと微笑みながらその手を掴んだぐらいで、果たしてこちらの意図が伝わるかどうかだ。
されど杞憂だったかも知れない。詩子が答えを返すと、息子は満面の笑みを浮かべた。そわそわと身体を揺れ動かし、我慢ならないとばかりに立ち上がる。
「ホッオアアーッ! ホオオォーッ!」
次いで、やたら昂ぶった咆哮を上げた
瞬間、彼の顔面目掛けて何かが飛んできた。暗くて詩子の目には何も見えなかったが……バゴンッという砕けるような音から考えるに、脆いがそれなりに大きな岩だろうか。
「ホゴアアッ! ゴァゴオッ!」
続いて聞こえてきたのは誰かの叫び声。声質からして恐らく母親のものだと思われるが、低いながらも激しい声からは怒りの感情がひしひしと感じられた。
恐らく、「寝てるんだからぎゃーぎゃー騒ぐな!」と言っているのだろう。むしろ他の意味など、詩子には読み取れなかったが。
「ォ、オァ……ォオォォ……!?」
悶えながら暴れつつも、必死に声を抑えている息子。詩子が思った通り五月蝿い事を咎められたようで、またこれ以上騒がないよう必死に堪えているらしい。
母親からのお説教は、余程怖いようだ。
……詩子としても、今のお仕置きと同じようにやられたら怖い。命が危ないという意味で。
「(……そろそろ寝ましょうか)」
亀裂の奥にある光の調査は自衛隊に任せよう。
そう考えながら詩子は目を閉じ、傍で未だ悶える息子を無視して眠りに就くのだった。




