いつの間にか居心地の良くなった不妊治療院
不妊治療の経験を残したくて、小説を書いてみました。
治療については実体験が元になっていますので、いつか赤ちゃんが欲しいと思っている方も、不妊治療って何をするの?と疑問を感じている方も読んでいただけたらうれしいです。
不妊治療を通して、1人の女性の人生を書いていきます。
子どもを望んだだけなのに、少しずつ歪んでいく悲しい心情を見守ってください。
この小説の主人公、実頼は赤ちゃんを授かることができるのでしょうか?
わたしがセックスという行為を知ったのは
小学校高学年だったか、中学生だったか、とにかくその行為に長い間、嫌悪感と恐怖心があった。それは痛みと共に、病気や妊娠のリスクをもたらす、恥ずかしいことだ。と。
もちろん興味はあった、友人との話題にのぼることもあったけれど、自分事と思うと、途端に恐るべき対象へと変化した。
だからわたしの中で一つ確信になったことがある。
いつの日かセックスをする相手は、この人の子供を産みたい、そう感じた時になるだろうと。
足しげく通っているクリニックは自動受付で、順番が来たら診察券番号で呼ばれる。待合室には、たくさんの女性と数名の男性がいて、皆待ち時間を快適に過ごしている。わたしはこのクリニックを気に入っていた。結果が出ないなら、転院するべきかと夫の幸一と何度も相談して、何か所か説明会にも足を運んだけれど、結局今も通っている。
ここは不妊治療専門クリニックだ。
不妊治療と聞くと悲壮感が漂っていると思われがちかもしれないけれど、そうでもない。それはただ、わたしが慣れてしまっただけだろうか?
待合室には、穏やかな音楽が流れ、大きな水槽には色とりどりの熱帯魚が泳いでいる。
ソファ席の他に、テーブル付きのカウンター席もあり、待ち時間にパソコン仕事をこなす女性も多い。
持ち帰りの仕事なのかな…都合付けて抜けてきたけど、この人の変わりはいないのかも。きっと仕事ができる人なんだろうなぁなどといつもぼんやりと思う。
ソファ席に座っても、カウンター席に座っても、スマホの充電ができ、コンセントが使えるように工夫されていて、ドリンクは無料のサーバーで、コーヒーや緑茶、カフェインを気にする人向けに、麦茶や梅昆布茶を選ぶことも可能だ。
漫画や雑誌、タブレットの貸し出しも充実していて、一時間程度であれば時間を潰すのに何ら退屈はしなかった。
不妊治療は一人目の子どもを望む人ばかりではなく、 二人目の赤ちゃんを望む人がいることも想像はできた。でも、このクリニックは子連れでの通院を禁止としていて、そこも子どもがいないわたしにとって居心地がいいポイントだった。
ここに来る前に通っていた町の産婦人科は、妊娠中の人も不妊の人も、生理不順の人も性病の人も、女性であればだれに遠慮するでもなく足を運ぶことができた。もちろん子どもを連れている人もいるし、付き添いで来る男性は決まって居心地の悪そうな顔をしていた。
一見穏やかだけれど、あれはなかなかカオスな場所だったと思い返す。
ポロロン
待合室の空気を妨げない程度の音量で、電子音がモニター画面の更新を告げる。映っていたのは、わたしの番号だ。中待合室へ呼ばれた。先ほどの血液検査の結果が出たのだろう、いそいそと、広げていた小説をバッグにしまい、ソファを立った。
今行っている治療は体外受精で、文字通り対外で卵子と精子を受精させ、その受精卵を、体内に戻すものだ。
受精卵を体内に戻すことを、移植と呼ぶ。
今日の血液検査はプロゲステロンというホルモンの値を見るもので、この値が低いと移植は中止になってしまう。中止になっても別の周期に移植を目指すのだから、延期と言うべきだろうか?
今日、この数値をクリアすれば二日後には体内に受精卵が戻ってくる。今回戻す卵は胚盤胞といって、妊娠の可能性が高いと言われている状態まで育った卵だから、着床する確率も高いと言われており、期待は大きい。
ポロロン
中待合室の画面が更新されると、長椅子に座った女性たちが一斉の顔を上げた。そのうちの一人が立ち上がると、他の女性たちはまた下を向く。中待合室で番号が呼ばれたらいよいよ医師と対面することになる。
わたしたちは患者と呼ばれることもあるけれど、不妊症は、2019年現在この国が定める病気ではない。
だから診療や薬はほとんど全てが自費での清算になる。収入の多い少ない、助成金の有無はあっても、みな歯を食いしばって高額な医療費を支払う仲間だ。
ポロロン
診察室から人が出てくると同時に、次の診察番号が画面に映し出される。
立ち上がったのは隣に座っていた女性だった。わたしの前を通って診察室へ入っていく。
女性はわたしより年上に見えた。このクリニックに通うのは四十代の人も多い。
今、前を通っていった女性は、早くに結婚したけれど子どもを授かることができず、長い時間を治療に使っているのだろうか。
はたまた、晩婚で子どもはあきらめていたけれど、夫に子どもが欲しいと言われて、あきらめ半分に通っているのかもしれない。
ポロロン
わたしの番号が画面に表示された。