25
「あの子相変わらずすごいね」
「私も久しぶりに会ったけど、グレードアップしてた」
廊下を歩きながらふたりで笑う。カナちゃんの敵意に聖を巻き込んでしまっている自覚があるので、ちょっとだけ申し訳なく思う。
「でもカバンは可愛かったなぁ」
「あれね、私が選んだの」
「え、どういう状況!?」
あはは、と笑って説明する。
カナちゃんの誕生日プレゼントを謙太郎に相談されて提案したのだ。予算に収まる範囲で、女子大生らしいものをいくつかピックアップした。
高くもなく、安くもない。大人の女性が持つには幼いが、高校生が持つには高すぎる。
カナちゃんの好みなんて知らないので、完全に私チョイス。
本人は気に入って使っているみたいだけど、私が選んだと知ったら、どんな反応をするのだろう。
「で、これどこに向かってるの?」
なにも考えずに歩いていたが、ついには校舎の外まで出てきてしまった。とはいえ、コンビニやバス停に向かうわけでもなさそうだ。
「第二校舎!」
「サークル棟?」
第二校舎、通称サークル棟。
少人数の講義室、サークルや部活などの部室がある。ひとによっては一切の縁がない校舎。
かくいう私も墓場太郎たちに連れられて軽音サークルに顔を出さなければ、足を運ぶことなどなかっただろう。
「私、ご飯持ってきてないけど」
「それは大丈夫。瑞ちゃんのぶんもありまーす!」
聖が持ち上げた紙袋に、可愛いフォントで『アミアミ』と書いてある。パン屋さんかな。
「これね、私がバイトしてるパン屋さんのサンドイッチ。美味しいの」
「聖、パン屋さんで働いてたの?」
「そうだよ。言ってなかったっけ」
勝手に写真スタジオかなにかでバイトしてるものだと思っていた。
居酒屋よりはパン屋さんのほうが似合う、たしかに。
慣れた足取りでサークル棟に入っていく聖のあとに続く。軽音は二階だが、今日向かうところは地下。
「聖のサークル?」
「うん。ここ」
白い扉を開ける。聖が振り向いた。
「どうぞー」
「おじゃまします」
聖と私以外、誰もいない。
窓のない部屋、見覚えのない機械やレンズがごちゃごちゃと置かれている。洗濯ロープのように通された麻紐に、白黒の写真がずらりと干されていた。
埃っぽいような、不思議な匂いがする。
「すご。カメラと……白黒写真がいっぱい」
「これね、フィルムカメラ使う子が結構いて、その子たちのやつ」
「聖はフィルムカメラ使わないの?」
顔を上げた瞬間、フラッシュが光った。眩しいんですけど。
「撮るよ」
「見たことない」
「……瑞ちゃんも何枚か撮ってる」
カメラを構えた聖に構わず、ぶら下がった写真たちを眺める。なんか、虫ばっかり撮ってる人がいる……
眺めているあいだ、何度もシャッター音が鳴った。
「そこの扉、倉庫?」
「そこはね、暗室」
「暗室?」
現像するところ、と教えてくれる。
写真の現像って自分でできるんだ、知らなかった。
このぶら下がっている白黒写真たちも、暗室で現像したものだという。意味があって干しているわけではなく、単に邪魔だからここに移されたらしい。
「見る?」
「聖もよくやるの?現像」
「あんまり。暗室作業嫌いだし」
じゃあ、いい。と首を振った。
知らない機械ばかりで、正直ちょっと怖い。どれぐらい高価なものかも分からないのに、下手に触って壊しでもしたら大惨事だ。
「瑞ちゃん、サンドイッチ食べよう」
「食べる」
促されて、パイプ椅子に座る。
聖が取り出したのは紙の箱。
『ミックス』のシール。
「はい」
「ありがと。あけていい?」
「うん」
蓋をあけると、ビニールに包まれた一口サイズのサンドイッチがたくさん入っていた。
「かわいい!」
「でしょ?おいしいよ」
これは鶏ハム、これはレッドチリペッパーサラミ、これはベーコンレタス、これはハムカツ。ひとつひとつ説明を聞きながら、小さいソレを食べる。
これがおいしい、これが好き。そんなことを話しているあいだも、カシャン、カシャンと写真を撮られる。
食べているところを撮られるのも、なんだか慣れてしまった。
何度も撮られるうちに、聖がレンズをぐりぐり回すと、丸いガラスの内部が蠢くことを知った。
それが生き物の瞳孔みたいに見えて、正面からカメラを向けられるとつい見つめ返してしまう。
なんというか、目を逸らしたら負けというような。捕食者の目をしたそれに負けたら、食べられてしまうんじゃないかって、そんな気持ち。
たぶん私は、少し怖いのだ。
だから負けじと睨み返す。ただでは食われてやらないぞって。
そうすると時々、ファインダーの向こうにいる聖がたじろぐ。
その瞬間が、すごく好き。
「聖の写真、見たいな」
「ぅ……うん……見る?」
「見る」
立ち上がった聖が、機材らしきものが無造作に詰まった籠を押しのけて、奥からアルバムを取り出した。オレンジ色の表紙。
日付が書いてある。これは一昨年、聖が大学に入った頃のもの。
最初の方は、この周辺の街並みを撮ったものが多かった。あのアーケード、路地裏、新しいものと古いものが入り混じった住宅街。
なぜ聖があの駅前事情に詳しかったのか、その答えがこのアルバムだった。
写真を撮りながら、歩いていたのだ。
街並みはだんだんと知らないものになっていく。古き良き日本の風景、放置自転車の大量の山、釣り人にたかる野良猫、舞い上がる桜吹雪、明らかに日本ではない白い街並み、砂漠とラクダ、排他的な香りがするスラム……
けして美しいとは言えない場所もあるのに、聖がおさめた情景はどれも美しい。
なのに、どうしてどれも物悲しい。
否、寂しい。
表紙を閉じて、聖に向かって手のひらを出す。
「ん」
「ん、ん?」
「まだあるでしょ。留年するくらい遊び歩いてたんだから」
観念したような顔をして、もう一冊を渡された。同じ、オレンジの表紙。オレンジ好きだなぁ。
開いて、驚いた。
表紙を閉じて、本当に聖のものか確認する。もう一度開いて、また驚く。
「これ、本当に聖の?」
「んぇ!?ぁ、うん、私の……去年のやつ」
撮っているものはさほど変わりない。国や街が違うくらいか。
「なにがあったの。これとこれのあいだ」
「え、えー……そんな、わかる?」
わかる。だってぜんぜん違うもの。
楽しい。とても。
この写真たちに詰まったものは、楽しさや喜びだ。あぁ、でもよく見ていると、やっぱりほんの少し寂しい気持ちになる。
「聖、寂しいの?」
「ぉぅえぇ!?」
目を白黒させて、言葉を選ぶように口元がもごもごと動いた。
「あー、えと……いまは、寂しくない」
「ふぅん」
「あの、めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど……も、もういい?」
アルバムに伸ばされた手を、ひょいと避ける。良いわけがない。
かわりに、もう一度手のひらを出す。
「はい。はやく出して。まだあるでしょ?」
「…………や、やだ」
「私、見る権利あると思わない?」
オモイマス、と片言。
だって、このアルバムじゃ足りない。ここには確かに、私と知り合う前の聖がたくさんいる。だけど。
だけど、私は知っている。私の記憶にはちゃんと残っている。だって、そう前の話じゃないもの。
「盗撮魔と、盗撮被害者だったときのやつ。見せて」
「い、意地悪だぁ……」
「はーやーくー」
意図的なのかそうでないのかは分からないが、私は一度として聖が撮った私の写真を見せてもらったことがない。
食事の写真や風景の写真は、撮ったその場で見せてくれる。でも、私が写ったものだけは、見たことがなかった。
観念したような顔をして、そろっとオレンジ色のアルバムを取り出した。
え、棚じゃなくてリュックから出したけど、この人……
「ちょ、あ!」
ひったくった。はい、ご開帳。
「うわ、怖」
「ぁぁうぅえぇぇ……」
わ、すご。じっくり見る前にパラパラと流し見る。うわ。どこを見ても私、私、私。これ、覚悟していたから「うわ」で済むけど、聖がまだ盗撮魔のままだったら完全に警察案件だった。
撮られていることは承知だったけど、こんなに数があるなんて思わなかった。
改めて最初のページから見ていく。
噴水のそばにあるベンチに座って、シラバスを見ている。それが最初の一枚。ぜんぜん記憶にないけど。
どこか緊張した顔で廊下を歩いているところ。恐る恐る教室を覗いているところ。学食の食券機の前で、太郎たちと笑っているところ。
なんだか、新入生丸出しで恥ずかしい。
唐揚げを食べているところ、生姜焼きを食べているところ、カレーを食べているところ。トイレの鏡でメイクを直しているところ。空き講義室で駄弁っているところ。
あ、これは記憶にある。上着を講義室に忘れて、落とし物として事務カウンターに届けられたときだ。
私ってこんな顔してたっけ……なんか、なんだか……
アルバムから顔をあげると、聖は両手で顔を覆ったまま沈黙していた。
笑っている。むくれている。欠伸している。怒っている。ぼんやりしている。私の日常だ。
切り取られている、私の日々。感情。もはやストーカーの所業だけれど、なんだろう。
すごく、すごく恥ずかしい。
撮られていたから恥ずかしいのではなくて、見られていたから恥ずかしいのでもなくて……
聖の感情を覗き見てしまったようで、すごく、それがすごく恥ずかしい。
「……聖、私のこと好きすぎない?」
「否定のしようがないぃぃ……」
最初のアルバムも次のアルバムも、聖の感じたものがありありと写っていた。
このアルバムは、ダメだ。たしかに誰が見るかも分からない、こんなところには置いておけない。私の肖像権とかそういう問題ではなく。
こんな、こんな……こんな、情を乗せたもの……
これは情の塊だ。聖が私に抱いた感情の塊だ。
「も、もぅ……いいでしょうか……」
「返してほしい?」
「うん」
人の心なんか覗いちゃいけないと思うのに、でも、見たくて堪らないのは何故だろう。オレンジ色の三冊目を閉じて、胸に抱えた。
「まだあるでしょ」
「うッ……ぐぅ……」
「これは人質。はい、出して」
聖が死にそうになっているけれど、この機会を逃したら二度と見れない気がする。
三冊目のアルバムは、今年の大鷹祭で終わっていた。
「ほ、ほんとうにみる……?」
「見る」
「なにも、いわないでね……い、いい、いつか!いつか、ちゃんと……じぶんでいうから……これ、みても……なにもいわないで」
あぁ、この顔は初めて見るなぁ。と思いつつ、リュックから出てきた最後の一冊をひったくった。
表紙を捲った先にいたのは、ハンバーガーにかぶりついている私。
ぱしん!と表紙を閉じた。
やっばい。これはやばい。
聖の言動を見ていてなんとなく気づいていたし、三冊のアルバムで確信に近づいたところもあったけど、これで確信した。
このひと、情感の爆弾だ。
感受性が豊かすぎる。ひとつひとつに抱くものが、たぶんあまりにも大きいのだ。でなければ、写真一枚にこれだけの感情は乗ってこない。
私に抱いた情の、その結果があの謎の発作。
耳の奥で鼓動の音を聞きながら、一枚、また一枚と確認していく。ぜんぶ、記憶にある。
あの日、あの時。この日、この時。聖がどういった目で私を見ていたのか。
聖の気持ちを、暴いていく。
濡れたままの髪で、すっぴんで、化粧台の前であぐらをかいて、こちらを睨むようにじっと見つめ返す私がいた。
深爪になった、指を見る。
いまは沈黙している、瞳孔のようなレンズを見る。
あの日も、今日も、ただで食われてなるものかと、私はその瞳を見つめ返した。
私は、なにも間違えていなかった。マスターも、なにも間違えていなかった。
アイドル?推し?好意?ちゃんちゃらおかしい。
「この肉食獣め」
どうやら私は、新本聖の獲物だったらしい。