23
カウンターの一番はじに座っていた二人組が帰って、店内はぐっと静かになった。
一見さんだったが、そのふたりともお酒を飲み慣れた様子で「こんなところに良いバーがあったんだね」なんて話していた。
去り際マスターにまた来ます、と話していたので、覚えていてくれるのなら再来店が見込めるだろう。
週一で通っていた常連を逃したばかりなので、是非戻ってくると嬉しい。客のいないバイト中は、とにかく暇だもの。
タバコを吸っている店長を横目に、発注表に数字を書いていく。
ボルスシリーズ、マスターがボルスライチを多用するため減りが早い。イエローとメロンはあまり減らない。
テキーラの在庫はまだある。そのかわりにコカレロがない。あ、ストックもない。このあいだバカみたいにコカボムを飲む大学生が来ていたし、そのせいだろう。
時刻は深夜二時。華の金曜だが、先ほどのふたりで今日の客はおそらく最後。閉店まで残り二時間。明日は大学もないため、今日は珍しくラストまでシフトが入っていた。
カワタさんとの件は、すぐにマスターに伝えた。常連をひとり失ったかもしれないのだ。すみません、と言ったら、結構本気で怒られた。
謝るようなことじゃないし、謝ってはいけない。カワタさんの気持ちはどうあれ、ハジメは被害者なんだから、と。
実際カワタさんは、あれ以来一度も来店していない。
「ハジメ、もうやった?」
「もうそろそろ終わります」
「じゃなくて。ショウちゃんと、もうヤった?」
またその話か。思わず胡乱な目で見てしまった。
以前来店してから、聖はちょこちょこ店に顔を見せてくれるようになった。カワタさんの代わりに聖が常連になったと言っていい。
しかも、毎週火曜と水曜は聖と一緒に昼食をとるようになった。大学の外に出ることもあるが、基本は食堂か空き教室で過ごす。
泊まりに来ることも多く、最近ではグレーのスウェットが聖専用の部屋着になっている。
アイドルから友だちになろう計画は順調に進んでいると言っても過言ではない。
聖の一番の友人になれる日も近い。はず。
「ショウちゃんは本気だと思うけどなー」
「友だちに本気も遊びもありませんよ」
初めのうちはマスターも、ここまで言い募ることはなかった。
だが、いつだったか、たしか十一月に入ったあたりで急に『ショウちゃんはハジメにガチ』と言い出したのである。
ふたりが連絡先を交換したという話も聞かないし、店にいるときは基本的に私が相手をしている。なので、いったい何がキッカケだったのかは分からない。
「ハジメも満更じゃないじゃん?」
「好かれて嫌な人とかいます?」
「好意を受け取り難い人はいるでしょ」
まぁ、それはたしかに。カワタさんとか、たぶんそうだった。あの人と嫌悪なく付き合えたのは、きっとバーカウンター越しだったから。
「私はショウちゃんを応援してるからね」
「えー……なんでですか……」
「そりゃ、本気を感じたから」
だからもうハジメは口説かないよ、と笑った口元から、煙がふわっと漏れた。今日も白い歯が綺麗だ。
やっぱり口説かれていたらしい。それが本気かも、この人の顔を見ただけでは分からない。
「ツメ」
「爪?」
バインダーとボールペンを持った、自分の指を見る。ネイルもヘアカラーも好きにしていいと言われているので、私はネイルを自重しないし、フリーターの先輩は髪を青く染めている。
ハロウィンが終わったので、今は季節に合わせて銀杏とモミジ。和柄に寄せ過ぎないようなデザインが気に入っているし、周囲からも好評だ。
「あの子、ネイル落としたでしょ」
「あぁ……前に泊まったときにオフするって言ってたんですよ。寝ぼけて聞き間違えたかと思ってたのに本当に落としちゃうからビックリしました」
「わはは!マジで?どんな状況で言ったの、ソレ」
スクエアオフの可愛いデザインだったのに、深爪気味なほど短くなっていてちょっとだけ残念に思った。
何も言われていなければ割れたのかな、とも思ったかもしれないが、ぼんやりとだったが落とす宣言を聞いている。だからあれは意図的。
「状況……?いや、寝ぼけててあんまり覚えてないんですけど。寝る前?というか半分寝てました」
「ソレ独り言じゃないの?うはは!」
「楽しそうですね、マスター」
恋の野次馬は楽しいもんだよ、だそう。
笑いながらマスターが手の甲をこちらに向けた。甘皮も綺麗に処理された、素のままの爪。
飲食店従事者だからか、それともネイル自体を好まないのかと思っていた。違うのだろうか。
「何か関係あるんですか、爪」
「傷つけない」
「なにを?」
ニヤッと笑った。そういう表情ひとつとっても、様になる。
「女を」
「猫じゃあるまいし」
「あっはっはっ!ネコね、うん。ネコちゃんを傷つけないようにっていう配慮だよ」
たまにマスターが言う言葉の意味がわからない。猫は大好きだけど、猫がなに?
「私、猫ですか?」
「あはははは!ひい、待って、ゲホッ、あはははは!」
「え、なにか面白いこと言いました、私」
むせるなら吸わなきゃいいのに。
「ネコねぇ、ははは!うん、そうかもね」
「いまいち聖の爪と、マスターの笑いのツボの関連が分からないんですけど」
「ショウちゃん、ネイルとか好きな子でしょ。しかもスクエア」
うん、と頷く。スクエアほど尖ってない、スクエアオフだけど。桜色、可愛かったのに。
「それをわざわざ落として、しかも深爪になった」
「うん」
「向こうは本気ってこと」
わからない。
記入の終わった発注表をマスターに渡す。あとはマスターが自分でパソコンに入力して、終わり。
マスターは聖が私に恋をしているという。それに近い感情を向けられていることは、私にも自覚がある。
けれど、あの子のそれはアイドルを追いかけるそれで、私に劣情を向けているかどうかは判断がつかない。
行き過ぎた友情は、ときとして恋情に近いものを生み出す。小説にもよく出てくる。
「いずれ分かるよ」
「そうだと良いですけど」
「気持ちよくしてもらいな」
………は?なんて?
「え!?」
「うん。じゃあ入力してくるわ」
「待って!待って、マスター!爪ってそういうこと!?」
おっと、意外と理解が早かった、と笑って、マスターはスタッフルームに消えていった。
爪、女を傷つけないように、本気。え、そういうこと?わかるわけない、そんなこと!すっごい下ネタじゃん!
いや、でもねぇ?
聖は私が好きだ。それは分かる。
聖は私の顔が好きだ。本人が言っていた。
でも、聖の視線からは、男性から感じるような熱を感じたことはない。
女性からそういう対象に見られることは、マスターが初めてだった。それすらも、本気なのか冗談なのか分かっていないのに。
そもそも私はマスターみたいに恋愛経験が豊富ではない。交際経験はふたりだけだし、体を重ねたのもひとりだけ。彼らに恋をしていたのかと問われると、正直ちょっと怪しい。
男友達と下ネタで殴り合うことはあっても、経験豊富だから出てくる語彙ではないのだ。
一心不乱にグラスを磨きながら考えて、人の気持ちなんて本人にしかわからないよな、と結論を付けた。
思考放棄とも言う。
もし本当に聖からそういう感情を向けられているのだとしたら。私は思う。
それはけして、不快じゃない。




