12
机の上部にある電源にコードを繋いで、ノートパソコンを立ち上げる。
入学の際に必要だからと大学から買わされた安物だ。スマートフォンがあればだいたいのことができるのにパソコンなんているか?と思ったものだが、レポートや小論文を書くために、案外役に立っている。
今日もノモト教授は、教壇の横にじっと座っていた。メガネの奥はどこか一点を見つめて動かない。充電中のロボットみたい。
どっと笑い声が聞こえてそちらに視線を向けると、入り口近くに陣取った軽音サークルメンバーが、なにやら盛り上がっていた。中心にいるのは晃太郎か。
謙太郎とカナちゃんは相変わらず隣り合って座り、晃太郎の大袈裟な動きに笑っていた。楽しそうでなによりと思うけど、不思議と羨ましい気持ちにはならない。
立ち上がって、カーテンを締める。どうせ今日も照明を落としてスクリーンを使うだろうから。
とくに意味もなくカーテンの皺を整えていたら、とんとんと肩を叩かれた。
「あの」
「お……こんにちは」
「あ、はい。こんにちは」
盗撮魔ちゃんがいた。今日も大きなバートンのリュックを背負っている。
「隣、いいかな?」
「うん、どうぞ」
嬉しそうに笑って、重たそうなリュックを机に下ろした。ガン!と結構な音がしたけど、大丈夫なのだろうか。そんなに重いの、それ。
「重そうだね」
「あー……いろいろ、重たいものが入ってるから」
「ふーん。カメラとか?」
バサバサと彼女の手から教科書が滑り落ちた。落としたもの、パソコンじゃなくて良かったね、と思いつつ、やたら動揺している盗撮魔ちゃんに拾い上げた教科書を渡してやる。
そんなに動揺すること?
「あ、ああ、ありがと、えと、まぁ、はい、あの、かめ、らとか……はい、そんなかんじです、はい」
「ふふ、落ち着いて」
「や、あの、すみません本当ごめんなさい、はい、あの、はい、落ち着きます!はい、落ち着きました!」
ぜんぜん落ち着いていない。面白いから良いけど。
ワタワタしながらパソコンの準備をしている彼女を眺めていたら、視界の端でノモト教授が立ち上がった。
チャイムの音。
「始めます」
今日も凄まじく時間通りだ。チャイムが鳴る前に立ち上がったけれど、いったいどうやって時計を確認したのだろう。体内にタイマーでも仕込んでいるのかな。
「あの人の体内時計どうなってるんだろう」
「え?あ、あぁ、野本先生?」
「そう。時計も見ないじゃん、あの人」
たしかに、と呟いて、丸い目がノモト教授を見る。すぅっと大講義室が暗くなった。
降りてきたスクリーンにノモト教授のパソコン画面が映し出される。
単位の判定は厳しいけれど、私はノモト教授が嫌いではない。
だって、デスクトップの壁紙が猫の写真なんだもの。たぶん教授の飼い猫。しかも二匹。金色の目がまんまるな黒猫ちゃんだ。
パワーポイントのスライドが表示されるまでの短い時間、私は毎回その黒猫ちゃんたちを眺める。たまに写真が変わっているので見逃せない。おんなじ格好で丸まっている写真、今日も可愛い。
黒猫ちゃんって柔らかくてふわふわだよね、触りたい。あぁ、猫触りたい。
前方から回ってきた出席カードを二枚取って、一枚を隣の彼女に渡した。
「どした?」
「いえ、なんでもないです!」
ばっちり噛み合った視線が、簡単に外れる。
先週もそうだった。私が彼女を見ていない時、彼女は私を見ている。けれど、私が彼女に視線を向けるとそっぽを向く。
「猫みたい」
「ぅえ、私が!?」
「うん。言われない?」
首を横に振る。あぁ、でも、見た目は綺麗な犬っぽい。
「どちらかと言えば」
「私のほうが猫っぽい?」
「……言われない?」
言われる。猫とかキツネとか。可愛らしい顔だちでない自覚はあるし、どこぞのメンヘラ女に女狐と言われていたらしいし、まぁそういう系統の顔なのだろう。
……キツネはイヌ科だけどね。
「にゃー」
手を丸めて、可愛こぶってみる。
「ぅゔ!んん」
「はは!久しぶりに見た、発作」
いつものように頬杖をついて、盗撮魔ちゃんの横顔を眺めた。顔は可愛いのに、へんなひと。
『たぶんハジメのこと好きだと思うよ、性的な意味で』
そうかな、そうなのかな。違う気がする。
『ハジメはそんなことしない』
この人も理想の私をもとめてそんなことを言うだろうか。どうだろう、言うかな。言いそうな気もする。
そうなったら、盗撮もやめるのだろうか。
それは少し、寂しい気がした。
「ねぇ」
私に見られていることに気づいていたくせに、いかにも今気付きました、みたいな顔をする。
「何したら私に幻滅する?」
「え?……え?あ……え?」
戸惑いからの動揺、また戸惑い。薄暗いなかでもよくわかる表情の変化。
私、たぶんこの人のことずっと眺めていられる。つけっぱなしにしたテレビみたいに。ぼんやりと流し見て、ときおり笑って、どうでもいい情報を得るのだ。
「えーと……迷惑、だった?」
「なにが?」
「つ、つき……私に、つきま……とわれたり……その、いろいろ」
悲しみの表情ではない。恐怖だろうか。シャープペンシルを持つ手が小さく震えていた。
「つきまとわれたっけ?」
「えっ、とぉ……その」
あぁ、盗撮か。あの行動、つきまとう、で合ってるのかな。パパラッチみたいなもの?
「ごめんね。ただ気になっただけ。あなたのこと、迷惑だなんて思ったことはないよ」
震える手が可哀想だったから、噛んで含めるようにゆっくりと言って聞かせた。
初めのうちは腹が立った盗撮行為も、しばらくすればそんなこともなくなってしまったから。慣れて、彼女のことが面白くなってしまったから。
落ち着いて、というように背中を撫ぜると、面白いくらいに身体が跳ねた。
「ぅあ……!げげ、幻滅する行動、だっけ」
「ふふ。うん」
「幻滅……殺人、とか……?でもそれはそれで属性。美しき殺人鬼的な……綺麗な顔のシリアルキラーやば。風俗、もアリ……借金しても通うわ……浮気、不倫、二股、稀代の悪女っぽくてアリ。クスリ、暴行……裏社会に生きる綺麗な女、属性強い、アリ寄りのアリ」
いや、全部ナシだよ。
私のこと好きだなとは思っていたけど、全肯定かよ。なに、属性って。
「……なにしても幻滅できない」
「男の子たちと雪合戦したら幻滅する?」
「いやそれ普通に可愛いやつ、ワンパクかよアリ」
もう駄目だ、限界。
机に突っ伏して声が漏れないように笑った。
散々笑ったのち、スライドが切り替わっていることに気づいて慌てて写真を撮った。
「はぁー、笑った。満足した」
「それは良かっ、た?」
「うん。ありがと」
あぁ、楽しかった。
たのし、かった。
「じゃあ、明日もお昼とか……ご一緒にどうでしょう」
このお誘いって、彼女のなかでどれくらいの勇気が消費されているのだろう。それとも、そうでもなかったり。
物理的な距離をつめると動揺する。緊張もしている。だけどこうして、関係の距離は彼女から詰めようとする。
スクリーンの光が反射して、謙太郎の派手な金髪が目立って見えた。
自身含むメンツの現状を思えば願ったり叶ったりだ。
「いいよ。全然、うん、大丈夫」
「そか、そっか!明日も迎えに行って良い?あ、その、迷惑じゃなければ……」
「それは良いけど。あー、ねぇ」
スライドに表示されたとおりに、エクセルに数字を打ち込んだ。講義、聞いていなかったから全くもって意味不明。ただでさえ理解出来てなかったのに。
エンターを押して計算を確定。うわ、なんかすごい桁になったけど、あってる?え、答え一桁?は?
……まぁいいや、これはエクセル君の勝手な計算ミスということで。
計算結果は放っておいて、盗撮魔ちゃんに向けて顔を傾けてみる。上目遣い、謙太郎に甘えるカナちゃんの真似。
「お昼、今日も一緒じゃダメ?」
「ぅゔん!カ……」
「蚊?」
今の時期に?十月に入ってからだいぶ減ったと思ったが、まだ生き残りがいたのか。
去年も今年も、晃太郎が刺されまくっていた。対策しても刺されるらしい。
緑の多いこの周辺は、虫がやたらと多い。
「喜んでご一緒いたす所存」
「え、なに、武士?」
「ハラキリ!ハラキリ!」
言動の意味が分からなすぎて、ふたたび机に突っ伏して笑った。くそぅ、晃太郎たちの下ネタなんかより何倍も面白いよ、この人。
なにいきなり、腹切りって。三島由紀夫かよ。
「でも、いつもの男の子たちは良いの?」
「突然素に戻るのやめて」
「え、なんかごめんなさい?」
声に出して笑えないせいで、脇腹を攣りそうだった。手でちょっとさすってみる。
この人といると、笑いすぎでいつか腹筋が割れそう。
「あいつらは気にしなくていいよ」
「彼氏さん、とか」
「じゃないじゃない。ぜったい違う」
よく聞かれるが、可能性も含めて拒否させてもらう。あいつらとつるむのは楽しいけれど、そこに恋愛感情を見出すことはできない。
あいつらのほうはどうか知らないけど。
高校生のときから、仲が良いと思っていた男友達に突然告白されることがよくあった。楽しく会話をしているときに、唐突に。
『なぁ、俺ら付き合わね?』といった具合で。
好きです、の言葉もないそれを告白ととって良いのか微妙だけど。ただ、フランクに言われたその言葉は、あまりにもフランクすぎてその後の関係を壊すようなこともなかった。
「私今日三限あるから、学食でもいい?」
「いい!全然いい!」
「むしろ、そっちこそいつものお友達はいいの?」
また赤べこみたいに首を振る。
食堂で見かけるあの人たちとは、約束しているわけではないそうだ。私たちのようにとくに取り決めたわけでもなく、自然と集まっているだけ。
グループのメッセージ欄に文字を打ち込む。
『今日の昼パスで』
既読がひとつ。晃太郎か、謙太郎か。
しばらく待つと晃太郎から短すぎる返答がきた。
『りょ』
続け様にもうひとつ。
『男?』
『ちがう』
『盗撮魔か』
最後のひとつは謙太郎。晃太郎から口頭で聞いて、スマートフォンを確認したのだろう。
『名前を聞くミッション遂行してくる』
『にいもとせい!』
『に一票』
晃太郎のアイコンは応援している球団のユニフォームである。ツバメのキャラクターがいるやつ。傘を持って東京音頭を歌うらしい。
ベースのアイコンがぽこんと浮かぶ。
『もっと警戒しろ』
あぁー。うるさ。
勉強しなさいと言う母親に、分かっているよと苛立つような、そんな気持ち。
だけど。
隣を見ると、向こうもちょうど友人に連絡を終えたのか、こちらを見てキョトンとしていた。
返事をしないまま、スマートフォンを鞄に放り込んだ。
頬杖をついて、微笑みかける。
「ぅゔん!」
両手で顔を覆う姿に、胸のどこかがくすぐられる。それがなぜか、心地良い。
警戒なんて必要ないよ。だってこの人、私のことめちゃくちゃ好きだもん。