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 そういえば名前の読み方を聞いていない。


「どうした、ハジメ」

「マスター、この人、なんて読むと思います?」

「女?男?」


 女です、と答えて、スマートフォンの画面を見せる。

 昨日ご飯まで食べに行って、私はあの人の名前すらまともに知らないことを思い出した。心の中で"盗撮魔"という呼び方が定着してしまったため、すっかり忘れていた。


「ニイモト、ヒジリ、かな」

「ですかね」

「だれ、それ」


 名前も知らないくせに友だちと答えて良いものか。

まぁ、今どき本名を知らないネットの友人なんてものも珍しくないし、いいか。


「盗撮魔です」

「はぁ?」


 まちがえた。


「友人です、大学の」


 名前の読み方も学科も知らないけれど。学部共通の統計基礎学をとっているのだから、学部は同じ。だからといって他の講義で見かけた記憶もあまりないので、おそらく学科は別。


 本当に友達か?


「訂正。友人候補です」

「なんだそれ」

「一年のときから盗撮されてるんですよ、この人に。デッカいカメラ構えて、こう、ガシャン!と」


 カウンターに寄りかかってタバコを吸うマスターに、カメラを構える真似をして見せる。女性ファンの多いマスターは、女性だけどイケメンだ。ただし、グレーの上下スウェットは壊滅的に似合わない。


「それ盗撮って言うんか?」

「まぁ、無許可で撮られてましたから。悪意もなさそうなので容認してました」

「盗撮魔のくせに隠れるのド下手クソかよ、ウケる」


 うしし、と笑った歯の隙間から煙が漏れた。


 定期的にホワイトニングをしているらしく、喫煙者のくせに歯が綺麗なのだ。

 高身長に、切長で涼しげな目、左手の薬指に光る指輪はナンパ避け。女にも男にもモテる女。


「んで、なんで盗撮魔と連絡先交換してんの?」

「講義で隣の席になって、そのときに」

「ふぅん。可愛いの?」


 タバコを揉み消して、目で笑う。うーん、今日も格好いい。

 人生経験が浅くてもわかる。こういう人は好きになっちゃいけないのだ。カナちゃんみたいな子がマスターに惚れたら、きっとメンヘラ化して包丁を持ち出したりするのだろう。


 マスターが女に刺されませんように。


「可愛いですよ。ちゃんと見た目にも気遣ってるし。たまに挙動不審だけど」


 出会ったいきさつや、昨年の学祭での話、高級チョコレート。そんなに多くない盗撮魔ちゃんとの思い出話をすると、「ぅゔん!」発作のあたりで腹が捩れるほど笑っていた。


「うはは!やば、めっちゃ会いたい」

「また新しい女つくる気ですか、マスター」


 木曜、二十二時過ぎ。客はゼロ。開店時に二人連れが一杯だけ飲みにきたが、彼らが帰ってから閑古鳥が鳴いている。


 男にも女にも、マスターはたいそうおモテになる。左手の薬指にナンパ避けのお守りをしているくせに、自分からナンパするのが大好きな悪い大人。

 男も女も平等に可愛がっては、平等に泣かせていることを、バイトを始めてから数日で知った。というよりも、先輩に教えてもらったのである。


 いいか、ニハシ。マスターにだけは食われるなよ、と。


「顔で決める」

「はいはい。今度連れてきますよ。行きたいって言っていたので」

「うそうそ。どう考えてもハジメにゾッコンじゃん。横恋慕はできないわー」


 マスターは既婚者や恋人持ちには手を出さない。関係を持った後に知ったら、容赦なく縁を切る。以前、東京にいたときに揉めたことがあるらしく、こちらに店を構えたのもその事件がきっかけらしい。


 ゾッコン、か。


「お?否定しないの?」

「わかんないんですよね。盗撮されるくらいだから顔は好かれてるんでしょうけど……女の子の好意ってやつがわかんない」


「あぁ、例のね。神格化ってやつ」


 頷いて、ぬるくなった烏龍茶を飲む。マスターは新しいタバコに火をつける。

 マスターみたいに、明らかに性的な好意を持ってくれたら分かりやすいのに。とは言え、この人のお誘いは冗談なのか本気なのかいまいち判別できていない。


 マスターには以前、話したことがある。晃太郎と謙太郎にも、笑い話として聞かせた。同じ話だけれど、マスターが聞いた印象と太郎たちの印象は全くの別物だろう。


 小学生の頃、五年生になるまで仲の良い友だちがいた。私立中学を受験した彼女とは卒業以来会っていないし、顔も朧げだ。

 四年生から五年生へ進級する間近、季節外れの大雪が降った日。半袖に短パンというアホみたいな格好で、私はクラスの男子たちと雪合戦をしたのだ。鼻も、耳も、手も、真っ赤になって、転げまわって、転けた拍子に頬に傷をつくって。

 そんな私の姿を見て、仲の良かったあの子は言った。


『ハジメちゃんはそんなことしない!』


 同じ中学から同じ高校へ進学した友人がいた。とにかく普通を極めたような女の子で、なぜか私の後ろをついて回った。犬みたいな子。

 高校二年生、人生でふたりめの彼氏ができたときだった。クラスの女子グループ内で猥談になったときに聞かれたのだ。もう初エッチした?と。

 私に彼氏がいることは周知の事実だったし、素直に頷いた。そんなに痛くなかったよ、と言って。そう言った私に向かって、犬みたいに懐いていたあの子は言った。


『ハジメはそんなことしない!』


 その子たちはハジメを神格化してたんだね、と。マスターはそう言う。



「うんこもセックスもしますよ、私だって人間なんだから」

「うははは!ハジメの口から小学生みたいな下ネタ出てくんのマジでウケるからやめて!」


 私には女の子が向ける"好意"がわからない。私に向けるものだけでなく、あの子たちが周囲の人間に向けるものも。


 雪合戦もセックスもした後だ。事後に「お前はそんなことしない」と言われても、いや、もう済んでますけど?としか言いようがない。

 勝手に理想を抱いて、勝手に幻滅されても困る。


 彼氏が女友だちと遊びに行っても、私は嫉妬しなかった。友だちとのお揃いに、私はときめかなかった。ふたりだけの秘密と言われても、私は特別を覚えなかった。


 可愛いものは可愛いと思うし、好きなものは好きだと思う。


 でも、どうして、なんで、私の感情は"女の子たち"と乖離する。

 私は自分が好きだと思った服を着て、好きだと思った化粧品を使って、好きなことをする。追随なんてされても、どうしていいか分からない。


 憧れなんて言われても、私には分からない。


「ハジメさ、彼氏とヤッたとき気持ちよかった?」

「なんです、突然」

「いや、どうなのかなって」


 ふざけているのかと思ったが、タバコの灰を落とすマスターは意外なほど真面目な目をしていた。

 だから私も、真面目に考える。性体験を思い出すにしても、経験なんてほとんどない。ひとりしか知らないし。


「どうなんでしょう。気持ち良くはないけど、痛くもない。あー、こんなもんか、って感じ」

「ふーん。嫌じゃなかったの?」

「嫌でもないし、期待もしてないし、みたいな」


 初めては痛かったと思うが、激痛というほどでもない。忘れてしまえるほどの痛み。

 そのあと何度もしたけれど、夢中になるほどの快楽は得られなかった。したいなら良いよ、というスタンスだったと思う。

 慣れない他人の体温に違和感を覚えて、ベタベタに汚れることに嫌悪した。でも、どうしても嫌だと拒絶するほどのものではない。あぁ、今日もしたいの?って、ちょっと呆れるくらい。


 ただ、体に重なる自分より大きな影は、いつもちょっとだけ怖かったかもしれない。


 そう言ったら、目を細めたマスターがこちらをじっと見つめてきた。ファンの子にすれば喜ぶだろうに、その目。


「ハジメ、一回で良いから私に抱かれてみない?」

「え、普通に嫌ですけど」

「拒否早くない?なんで?じゃあ、私のこと抱いてみる?」


 二十三時を回った音がした。クラシカルな雰囲気の店に不似合いなデジタル時計、間抜けな電子音。

 終電はない。終バスなんてもってのほか。私は真っ暗な道を、オンボロ原付に乗って帰る。

 今日の売り上げは、私のバイト代すら賄えなそうだ。


「たくさんいる内のひとりなんて、ご免ですから」

「お?特別なひとりがいい?付き合う?」

「絶対嫌ですけど?」


 マスターのそれは本気なのか冗談なのか、一年半ずっと分からずにいる。だから勝手に冗談みたいな雰囲気にして、いつもうやむやにしてしまう。


 マスターと恋愛できたら、たぶんレディコミみたいな体験ができるのだろう。きっと、焼け爛れた火傷の痕を残すような、熱くて意識がぼやけたまま窒息するような、そんな恋を見せてくれる。


 でも、一瞬だ。燃え上がって、全部を溶かし尽くして、捨てられるのは私。

 恋愛経験が少なかろうと、目の前で煙を揺らすこの女がどれだけ危険な存在か本能で察している。


「そういうこと言って本気にされたらどうするんですか。私だって超絶純粋無垢な脳内お花畑ベリーハッピー乙女かもしれないのに」

「責任持って骨の髄まで頂くけど?」

「骨までしゃぶられてポイされるんだぁ。いたいけな私があまりにも可哀想」


 ふぅっとタバコの煙が吹きつけられた。なんだっけ、タバコの煙を吹きかけるのはベッドへのお誘いだっけ。

 ふんっ、と手で煙を振り払ったら、けたけたと笑われた。


 晃太郎や謙太郎と一夜の過ちがあっても友人のままでいられそうな気がするのに、どうしてマスターが相手だと破滅の予感しかしないのだろう。


 ダウナー系モテ女、本当に怖い。この人を相手にしていると、女同士なんて些細なことだと思える。


「で、なんの話だっけ」

「盗撮魔ちゃんの話ですよ」

「あー、ヒジリカッコカリちゃんね。たぶんハジメのこと好きだと思うよ、性的な意味で」


 性的な意味で。


 彼女の言動を思い出してみる。そんな気もするが、違う気もする。マスターの蛇みたいな視線はない。

 男どもはいい。だいたいの奴がバカとプライドと下半身で片付けられる。たとえ恋愛的な好意がなくても、たとえ友人だと心底思っていても、ふらっと迷子になった視線が胸元に着地する。そんなのしょっちゅうだ。

 男はそもそも根幹から違う生き物だと分かっているから、思考回路が理解できなくても不思議じゃない。


 晃太郎にも謙太郎にも、脳内で何回か犯されているかもしれない。私はそれを百も承知で、あいつらの女友達をやっている。


「まぁ、顔が好きなんだろうなってことにしておきます」

「顔も髪も体も高品質だからね、ハジメ」

「気も金もつかってますもん」


 見た目の造形が良いのは認める。中学生で自覚してから、以来矜持をもってケアしてきた。とくに髪の毛なんて、思春期のホルモンバランスが影響してか16歳で髪質が崩れて大変だった。

 太りにくい体質の代わりに、アクネ菌との壮絶な戦争を繰り返したりもした。


 綺麗だね、可愛いね。


 そんなの当たり前。元が良いだけでは済ませないほど、気をつかってるのだから。

 マスターだってそう。深夜帯に生きているこの人は、なんかとんでもない値段の化粧水を使っていた。酒、タバコ、生活リズム。肌荒れフルコンボのくせに、コンディションが悪い日を見たことがない。


 テレビや雑誌で活躍するモデルだって、努力をしていないはずがないのだ。ムダ毛が生えない人間なんていないし、発汗しない人間なんていないし、老化しない人間なんていない。

 見た目に一切の気を使わない完全な天然物の美人なんて、存在しない。それが私の持論。


「あ、ハジメこれ使う?」

「なんですか、こ……!え、なんで!?良いんですか!?使う使う!」

「あげる。貰ったんだけどね。前に自分で買ったときに肌に合わなかったから」


 ずっしりと重たい白い紙袋の中には複数の基礎化粧品が入っていた。有名どころのお高いやつ。たぶん、フルセット。


 使ってみたいなぁ、でも高いしなぁ、そもそも一番近いデパートにお店入ってないしなぁ、と思って諦めていた。


「スキンケア、ベストコスメセットってやつ」

「お試しキットじゃないやつ!」

「高いよー、たぶん税込みで五万円近くするんじゃない?」


 紙袋を持つ手が震えた。液体が入っているので元から重量はあったが、値段を聞いてさらに重みが増した気がする。


 五万円。


 先輩に格安で譲ってもらった原付より高いんですけど。

 というか、五万円のコスメセットをプレゼントされるって何事なの。


「一万円くらいのセット、自分で買おうかなって思ったこともあったんですけど!嬉しい!ありがとうございますマスター!好き!」

「じゃあお礼に抱かせてくれる?」

「嫌です」


 人の好意がどうたらとか、盗撮魔ちゃんがどうたらとか、そんな面倒なことが一気に吹き飛んだ。

 バランシングクリーム!これだけで一万円くらいするやつ!クレンジングオイルもそろそろ詰め替え用を買わなきゃと思ってたのだ。帰ったら早速使おう。


 これを使ってめちゃくちゃ良くて、薬局の安物で我慢できなくなったらどうしよう。


「マスター!好き!」

「ハジメは可愛いねぇ」



 結局この日、新しい客は来なかった。

 直前まで考えていた面倒なことは全部忘れて、喜色満面。新しい化粧品、新しい服、新しい靴は心を明るく染める魔力を持っている。


 誰かに自慢したいな、と思って、自慢できる女友達なんかいないことを脳内の片隅に押しやった。

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