そして、ここより開幕す
全てにおいて、セヘルマギアに完全に上を行かれてしまっているアムル。
焦りを隠せない彼に、更なる運命が襲い掛かる。
アムルの誤算は、ここでセヘルマギアと真剣勝負を繰り広げるとは考えていなかった事にある。
ここまで折り合いをつけて友誼を交わしてきた古龍たちを、アムルはどこか信用していたのかもしれない。
この城で最も強大な障害を敵にしなくていいとするアムルの試算は、この道中での彼の油断を誘っていたのだった。
セヘルマギアは、確かに理知的で話の通ずる相手である。
性格も穏やかであり、普段の所作を鑑みればおおよそ戦いを好むような性格とは思えない。
だからこそアムルは、見誤ってしまったのだ。
彼女が、何故この魔王城にいるのかと言う真意を。
そして場合によっては、如何にアムルと言えども敵対するであろう可能性を。
セヘルマギアは、何もアムルに恭順してこの城に居座っている訳では無い。
実際のところ、アムルでさえその本当の理由など知り得ていなかったのだ。
そんな彼女を、無条件で都合よく信じてしまっている事が、今回はアムルの大きな失態だと言えた。
そしてそれが、今回は取り返しのつかない結果を齎す事となり。
この結末は、ある意味で必然といって良いのかも知れなかった。
愕然と腰を落としその場で跪くアムルに、白銀の龍人と化しているセヘルマギアの眼差しは悲哀に満ちたものだった。
しかし、彼に向けて何か声を掛けるような事はしない。
それもそのはずで、2人は今現在戦闘中なのだ。
「ち……く……しょうっ! でも……まだこれから……っ!?」
それでもアムルの戦闘意欲は未だ衰えてはおらず、何とかその場より立ち上がろうとして……その動きを止めてしまったのだった。
現状、彼にはセヘルマギアに対してなんら打つ手はない。
アムルの「魔神化」をも用いた攻撃は、悉く通用しなかったのだから。
だが、だからと言ってアムルには彼女を倒す事を絶念する訳にはいかなかった。
魔王城の異変を平定するのは、この城の主である彼の役目でもある。
何よりも最上階である魔王の間では、妻であるカレンが囚われたままなのだ。
どのような苦境に立たされようとも、どれほどの強敵が立ちはだかっていたとしても、アムルには諦めると言う選択肢は無かったのだ。
「……それは、あなたの受け入れるべき“代償”です」
しかし、どれほど強い想いがあろうとも、限界を超えてそれを成すにはそれなりの条件が必要であり。
今回は、アムルにとって超越出来ない限度を迎えたのだった。
「あ……あ……」
突然、アムルは脱力した様にその場で片膝をついてしまう。いや、苦痛に感じているのかもしれない。
声にならない声を上げて、アムルは視点の定まらない表情を浮かべている。
放心状態……ではなく、意識を強制的に何処かへと奪われた様であった。
「先ほどの攻撃で、残念ながらあなたの魔力は内なる魔神を抑え込むだけの総量を下回ったようです」
呆けた様な表情のアムルへと向けて、再び人の姿を取ったセヘルマギアが声を掛ける。
しかし今のアムルは、そんな彼女の声に応えられる状態ではない。
「あなたが交わした契約の通り、差し出す魔力を失ってしまったあなたは、その身を魔神に明け渡さなければなりません」
一人、ツラツラと語るセヘルマギアの表情は、その現実を悲しんでいる様に相貌を崩していた。
彼女のその言葉が終わると同時に、アムルの身体から黒い霧が勢いよく吹き出し始めた。
渦を巻き天井まで達するその霧は、アムルの身体を完全に覆い隠してしまった。
「ですが……安心して下さい。あなたの望む、切なる願いだけは……きっと、叶えて下さる事でしょう」
激しく渦巻く黒霧の向こう側から、アムルの声は一切聞こえない。
彼が無事かどうかも、セヘルマギアの位置からは確認出来ない状況だ。
それでも、セヘルマギアはそこにアムルがいるかのように優しく、悲しく話し掛けていた。
「あなたは……私が見てきた歴代の魔王様の中でも、随一と言って良い賢王でした。出来れば、あなたの治世が長く続く事を望んでいたのですが……。これも、運命だったのかもしれませんね……」
それは、セヘルマギアからの最大の賛辞だったかも知れない。
ただし残念ながら、そんな称賛の声も今のアムルには届いていないのだが。
吹き荒れていた黒く渦巻く霧が徐々に晴れて行く。
完全に掻き消えた黒霧の中、先ほどの姿勢のまま微動だにしていないアムルが姿を現した。
いや、残念ながら、出現したのは……アムルとは言えない。
俯き加減だったアムルが、ゆっくりと立ち上がる。
そして、ゆっくりと周囲を見渡した。
その姿は、殆ど先ほどまでのアムルと大差はない。
しかし、黒い魔力で形成されていた双翼と尻尾は実体化しており、黒く禍々しい翼と漆黒の痛々しい尻尾を形成している。
そしてその頭部からは側頭部に2本、前頭部より1本、計3本の黒い角が生えていた。
膝を付いていた時には感じられなかったが、その体躯も2回りほど大きくなっており、今のセヘルマギアが子供の様に感じられるほどだ。
何よりも、その顔にはアムルの面影など微塵も残っていない。
まるで仮面でも張り付けた様に、異様に吊り上がった細い眼と大きく裂けた口。
そしての口の端からは、凶悪漂う牙が覗いていた。
もはやその姿は、人であった頃のアムルを示すものが何一つ残っていなかったのだった。
「ご復活、お慶び申し上げます……我が神『アルナール』様」
アムルであった存在に対して、セヘルマギアが恭しく頭を下げてそう告げる。
そしてそんな彼女に、アルナールと呼ばれた魔神はゆっくりと視線を向けた。
「……セヘルマギアか……久しいな。……よもや、再びこの世に舞い戻る羽目となろうとは思ってもみなかったわ。……あれから、どれだけの月日が流れた?」
頭を下げているセヘルマギアに対して、アルナールはゆっくりとした口調で問いかけた。
その声もまた、アムルのものでは完全になくなっている。
「……はい。お隠れになられた時より、すでに2千329年を数えます」
「ふむ……」
セヘルマギアの返答に、アルナールは何も答えずに沈黙した。
セヘルマギアの答えが正しいとするならば、凡そ2,300年ぶりに復活したのだから、その整合性を整えるだけでも時間が掛かるだろう。
「……して、今の世界は如何か?」
次にアルナールは、セヘルマギアにその様な質問を向けたのだった。
復活を果たした事で喜び暴れまわる様な凶神ではなく、少なくとも現状を把握するだけの知性は有している様であった。
「はい。魔界は、穏やかな治世を行っておりました。歴代の魔王もその性格に違いはあれど、暴君とはなり得ずに治めていた様ですね。ただ、人界の方は定かではありませんが……」
「……何か、騒動でも起こっておるのか?」
アルナールへと説明していたセヘルマギアが言いよどむのを聞き付け、魔神が問い質した。
「……今現在、魔界は人界の侵攻を受けております。これに魔界は抗し、優勢に事を進めているようですが……」
彼女は、どこか申し訳なさそうに返答したのだった。
そこに、どのような理由があるのかは伺い知れない。
「……ふん、『スヴェート』の奴は何をしていたのだ。大方、自主性を尊重すると言う名目で何も手を下して来なかったのであろう」
それに対してアルナールが、どこか卑下したような口調で独り言ちた。
話ぶりからすると、「スヴェート」と言う存在もまた神であり、人界に存在している様であった。
「分かり兼ねます」
それに対してセヘルマギアは、ハッキリとそう返答したのだった。
魔王城から動こうとしない彼女では、人界の世情を知り得る手段はそれほど多くない。
さらに言えば、セヘルマギア自身は人界に興味など無かったのだった。
「……そなたは、未だに『制約』に囚われておるのか? もしも望むならば、あの忌まわしき“魔鏡”からそなたを解き放つ事も出来るが?」
そんなセヘルマギアの所作を見て、アルナールがその様な提案を口にするも。
「いえ、これは私に与えられた役目と存じております。お気遣い無き様に」
やはり恭しく頭を下げたセヘルマギアは、魔神の申し出を固辞したのだった。
アムルの身体を得て復活した魔神アルナール。
その魔神の意図は?
そして、取り込まれたアムルは?




