魔王城からの逃走
高らかに魔法の詠唱を開始したエレーナ。
淀みのないその様とは裏腹に、彼女はいつになく……慌てていた。
この場で最も慌てていたのは、アミラとケビンを人質に取られたレギーナでも、その状況を何とかする為にチェーニと切り結んでいるカレンでも、その様子をいつでも加勢出来る様に見守っているブラハムでも、後方で息を呑むマーニャでも、自分たちの魔法が破られへたり込んでいるマリンダとミリンダでもなく。
「おお、偉大なる存在にして万物の創造主たるベルダージュよ……」
意識のないケビンへと向けて、神聖系魔法最上級……彼女の知る中で最高の魔法を唱えようとしているエレーナかも知れない。
普段の冷静なエレーナならば、まずはケビンの容態を見て使う魔法を選定していただろう。
そして彼が、首の骨を折っている程度の外傷だと知れば、使う魔法も数段低いものを選んでいたに違いない。
何と言ってもエレーナは、人界でも屈指の……「暁の聖女」と謳われる「勇者の中の勇者」である処の「神色の勇者」、その序列8位に籍を置く実力者なのだ。
彼女の使う神聖系回復魔法の効果は比類なく、同等の魔法を行使してもその結果は余人と同じにはならない。
数段高い効力を発揮する事に疑いは無いのだ。
「夢幻の野よりその御手を差し伸べ……」
そんなエレーナが、ブラハムの手によってラズゥエルより助け出されたケビンを前にして、何の躊躇も冷静な診察をすることも無く、迷わずこの魔法を使いだしたのだ。
「悠久の流れに流転の奇跡を……」
詠唱が終盤に差し掛かり、自らの内より光を発しだしたエレーナの身体は更に眩さを増し、もはや直視出来ない程に光り輝いていた。
「喜びの天涯っ!」
そして詠唱を終えた彼女が、高らかに魔法の名を口にする。
その途端、エレーナだけではなくケビンの身体も彼女と同じように煌めいたと思うと……直後には発せられていた全ての光が消え失せていたのだった。
カレン、チェーニ、ラズゥエル以外のその場にいた者は皆、その光景を呆然と見つめていた。
瞬間的に強烈な光りが消失したのだ。目を奪うには申し分ない現象と言って良いだろう。
だが驚きだったのはその後であり、一同は更に声を失う事になる。……1人を除いて。
「ケビンッ!」
気を失い虫の息だったケビンが、光が消えたと同時に目を覚ましすっくと立ちあがったのだ。
そんな息子の様子を目にしたレギーナが、歓喜の声を上げてケビンへと駆け寄り抱きしめた。
「……おかあさ?」
レギーナに抱かれたケビンはと言えば、どこか不思議な顔をしてキョトンとしている。
ある意味で普段と変わらないケビンの仕草に、レギーナ以外の者達も安堵の表情を見せていた。
そしてこの結果は、カレンの思惑通りだった。
カレンがラズゥエルに向けて躊躇なく魔法を使用したのは、偏にエレーナの存在があったればこそだ。
人界でも比類ないほどの神聖魔法の使い手であるエレーナならば、多少の重症ならば簡単に快癒させてしまうのだ。
それどころか彼女の使う魔法ならば、精神的に恐慌を来した者さえ落ち着きを与えて癒してしまう。
更にエレーナは、死者蘇生の秘術さえ扱う事が出来るのだ。もっとも、これには様々な条件が必要になるため、如何にエレーナと言えども簡単に使う事は出来ないのだが。
そんなエレーナが自陣営にいるのだ。大人でさえ耐える事も困難な精霊魔法を、カレンがケビンをも巻き込んで躊躇い無く使えたのにも頷けた。
「く……くっそぉっ!」
まんまとラズゥエルの捕えていた人質を奪還され、それを見ていたチェーニは悔し気にそう吐き捨てた。
未だ魔法に囚われているラズゥエルは動けず、自身もカレンの肉薄で自由な行動が出来ない。
そんなじり貧な状況全てに、チェーニは歯噛みしていた。
奇襲は、半ば成功していた。不意を突いたという一点を見ても、伝魔境を利用した魔王の間への直接強襲は功を奏していたのだ。
それどころか、何故か伝魔境の前にいた子供を捕らえる事で、突入後の状況も優位に立ちまわることが出来ていたのだから。
それにも拘らず、その後は誤算だらけの事態に見舞われ、気付けば劣勢に立たされている。
自分たちよりもはるかに上位の勇者連に行く手を阻まれ、気付けば作戦が瓦解しようとしているのだ。
「……これは!?」
チェーニと切り結んでいたカレンが、驚きの声を上げる。
目の前にいるチェーニの姿が……気配が、どんどん希薄になり薄れだしたからだ。
それだけではなく、彼女の捕縛しているアミラの姿も同様にカレンの視界から消えようとしている。
それだけで瞬間、カレンは最悪の事態を想定した。
そして。
「なっ!? ぐおおおぉっ!」
今まさに消えうせようとしていたチェーニは、強制的にその姿を晒される事となった。
何故ならそれは、カレンが自分をも巻き込んで使用した精霊魔法の効果によって。
「ぐ……くく」
それは、今現在ラズゥエルに掛けられている大気魔法。カレンが修練途中である、疑似重力魔法であった。
これはまだまだ完全会得には程遠く、事実チェーニに向けて放ったこの魔法の影響を近距離にいたカレンも受けていたのだ。
動きを止めた両者は、上方より圧し掛かる重みに歯を食いしばって耐えていた。
カレンが咄嗟にこの行動を取ったのは、正しく果決だったといって良かった。
カレンの目の前で、追い詰められたチェーニは「オンミツフィールド」を使用して事態の打開を図ろうとした。
アミラをも巻き込んで姿を消したチェーニの取る行動は、そう少なくない。
魔王がここにいないと知ったからには、尚更この場より逃げ出そうと策動するだろう。
そして、この部屋にいる者達を無差別に攻撃するのは明らかだ。
カレンを始めとして、ブラハム、マーニャ、エレーナ、レギーナは明らかにチェーニよりも格上であり、そう簡単にやられるタマではない。
だがマリンダとミリンダを始めとして、室外に出た一般職員はその限りでは無いだろう。
それに何よりも、チェーニはアミラを人質としているのだ。
いずれはその決断に達するとは言え、それまでに誰かが、何人かが傷つけられ倒れるかもしれないのだ。
「ブ……ブラハムッ!」
だからカレンは、チェーニを行動不能にするために手段を選ばなかったのだ。
……例え、自分さえも巻き込もうとも。
「お……おう!」
カレンの自分を呼ぶ声に何をするべきか察したブラハムが、ケビンの時と同じようにアミラをカレンの魔法領域から引き抜いた。
勇者二人がその動きを抑制されるほどの威力を持つ精霊魔法の中から、子供とは言え人を1人引き出すのはブラハムと言えども骨の折れる作業だった。
それでもブラハムは、何とかアミラを助ける事に成功したのだ。
先ほどのケビンと同じく、アミラもぐったりしておりそれを見たエレーナがすぐさま駆け寄り処置を行う。
「……い……一端、ここから……逃げて!」
それを確認したカレンは、息も絶え絶えとなりながら他の者達にそう伝えたのだが。
「カ……カレン!? なんで!?」
カレンのその指示に、マーニャは疑問を浮かべて反問していたのだった。
それまで枷となっていた人質を無事に救出した今となっては、ここよりチェーニとラズゥエルに反転攻勢を掛ける絶好の機会である。
もとより自力で勝っているカレンたちだ。チェーニたちを抑え込むなど、それこそ造作もない事なのだ。
「い……いいからっ! 早く……お願いっ!」
チェーニが消えかけたことなど知らないマーニャ達に、本当ならばちゃんとした説明が必要だろう。
しかしケビンに注目が集まっていた事もあり、チェーニが姿を消しかけた事をカレン以外は誰も知らないのだ。
そしてもしもカレンが魔法を解いてすぐにチェーニを拘束出来なかったなら、やはりカレンたちの内数人に被害が出るだろう。
命を失うという事は無くとも重傷を負うかもしれず、それがエレーナであった場合すぐに治療が間に合うとは断言出来ない。
それを危惧したカレンの判断なのだがそれを伝える術はなく、カレンは語気を強めて急かす以外に無かったのだった。
カレンの機転で、何とかアミラの救出にも成功する。
しかしその後にカレンの口から齎されたのは、この魔王城からの撤退であった。