暗転
分断された人界軍。
その後衛の前に立ちはだかったのは、伝説にも謳われるほどの……古龍。
その威容に、人界軍の混乱には拍車がかかる。
そもそも古龍とは。
文字としては「龍」と含まれており、それは魔界人界で知られる龍族を連想させるに十分だ。
そしてドラゴンはおおむね爬虫類のイメージを持ち、鱗に覆われた巨体に長い尻尾、同じく長い首の先には厳めしい頭と立派な角を生やしている。
火炎を始めとした様々なブレスを吐く、間違いなく現界最強の幻獣と言って良いだろう。
それだけでも、ドラゴンは十分に恐るべき存在だといって間違いない。
もっとも人界魔界に住む英雄クラスの剛の者達ならば、そんなドラゴンでさえ退ける事が出来るのだが。
しかしこれが、古龍となればそうもいかない。
古龍とは、単純に長く生き長らえてきたドラゴンを指す言葉ではないのだ。
どの様な発生原因かは未だ解き明かされてはおらず、その生態も謎に包まれている。
殆どの古龍が古より知識を蓄えており、中には原初の神話にその姿を現す個体さえ存在する。
そしてその様に悠久の刻を生きる知性高き魔獣を、総じて「古龍」と呼んでいるのだ。
その殆どはドラゴンに近しい姿をしており、だからこそ古龍=ドラゴンのイメージが強いのだが、実際には蛇のような姿をしたものや猛禽類の様な古龍も存在していた。
そしてこのマレフィクトもまた、いわゆるドラゴンとは程遠い姿をしていたのだった。
マレフィクトの吐き出したブレスは、炎でも氷でもない。
それは、禍々しい緑色をした気体であった。
それを浴びた人界軍兵士は、断末魔の悲鳴を上げる事も出来ずに次々と倒れていった。
マレフィクトの吐き出した吐息は、毒のブレスだったのだ。
「う……うわぁ―――っ!」
「に……逃げろ―――っ!」
「ぎゃあ―――っ!」
一瞬で姿を燃やし尽くされるマロールのブレスと違い、マレフィクトの吐く毒は致死性を持っているものの死体が消えてなくなる事は無い。
たったの1撃で数十人がバタバタと倒れる様を目の当たりにし、それでようやく人界軍は自分たちの眼前で何が起こっているのかを把握したのだ。
古龍に近い兵たちは次々に薙ぎ払われ、それを目撃した後続の兵たちは恐慌を来して逃げ惑う。
だがこの戦場には、どんどんと後方より人界軍が押し寄せている。
前線の戦況を知らない後続兵に圧される形で、最前線の兵たちは退くに退けず進むに進めない状態であった。
そんな人界軍に、ゆっくりとその距離を詰めるマロールとマレフィクトが、身近な集団に向けてブレス攻撃を加えてゆく。
無暗に接近を試みず遠間から射程距離に入った部隊のみを攻撃するこの戦法は功を奏し、古龍たちは然したる反撃を受けることも無く一方的に人界軍を屠って行った。
「あ―――。つまらんなぁ……実につまらん」
マロールの性格を考えれば、この様な不満が口を吐くのも当然である。
彼は戦いを好むのだが、この様に一方的で張り合いのない戦闘は好みではないのだ。
自らの肉体を駆使して、対等と認める者と心行くまで拳を交える。
マロールの望む戦いとは、正しくその様な事を指すのだが。
まるで作業ともとれるその攻撃に、マロールは隣にいるマレフィクトにそうぼやいたのだが、当のマレフィクトは黙々とその作業を熟している。
それも当然の事であり。
「僕にそんな愚痴を言っても、賛同する言葉なんて期待しない方が良いよ。僕は盟約に従って、粛々と事に当たるだけだからねぇ」
彼はアムルとの……いや、カレンとの約束を果たす事のみに専念していたからだった。
他の誰との約定ではなく、自分のお気に入りであるカレンに、あのような態度で頼みごとをされたのだ。
またあのゾクゾクとした感覚を味わう為にも、マレフィクトにはこの様な小事で彼女の失望を買うような真似は間違っても出来なかった。
「……ったく。お前もつまらねぇ奴だぜ」
やや苦笑気味にそう返したマロールも、やはりアムルとの約束を果たす為に今回は自身の役割を演じる事に徹したのだった。
アムルの作戦通り、リィツアーノが開き引き裂いた人界軍の亀裂を、2匹の古龍が閉じさせる事なく立ち塞がっている。
そして孤立を余儀なくされた人界軍先方千数百名は、魔族軍主力部隊に包囲され殲滅の憂き目にあっていた。
「リィツアーノに再度通達。もう一度突入し、再び人界軍の一部を孤立させろ。それを両古龍で殲滅。リィツアーノの部隊は、そのまま本営まで撤退する様に」
アムルはその戦況を確認した上で、やはり当初の予定通りの策を命じたのだった。
そしてそれを傍らに控えるバトラキールが部下へと指示し、違うことなく実行されるのだ。
未だ混乱の止まない人界軍前線部隊は、間違いなくリィツアーノの部隊により再度引き裂かれるだろう。
これを食い止める事はまだ出来ない筈であり、この戦いで人界軍の損害は4,000人前後となる筈であった。
全体としてはそれほどの被害ではないのだろうが、人界軍に侵攻を躊躇させるには十分と言って良い戦果である。
そしてその後、満を持して魔族軍全軍が進軍する構えを見せれば、人界軍は2つの選択を余儀なくされる。
すなわち、戦うか……退くか。
これで退いてくれれば、アムルとしては万々歳である。
「行くぞ―――っ! 突貫―――っ!」
アムルの視線を向ける先でリィツアーノが大号令と共に駆け出し、その後を彼の部隊も大声を張り上げて続いて行く。
それまで前方の古龍に注意を奪われていた人界軍は、またも側方からの攻撃に不意を突かれて醜態を晒していた。
「……よし」
その光景を見てアムルは、思わずそう呟いていた。
ここまでは全く以てアムルの……そして魔族軍首脳部の思惑通りに事が運んでいる。
そこからの展開は相手の出方次第だが、考えうる様々な状況に対応した策は講じてある。
どの策をとっても、魔族軍に大きな損害は出さずにこの戦いの幕を引く事が出来るだろう。
そして、痛手を負った人界軍は再び魔界へ侵攻する考えに躊躇する筈であり、そこにこそアムルたちの付け入るスキが出来る筈なのである。
人界軍の戦列が、リィツアーノによって面白いように切り裂かれてゆく。
無様を呈する人界軍の混乱には拍車がかかり、早急な立て直しは難しいだろう。
再び二つの部隊に切り分けられた人界軍の前衛側へ、またも2匹の古龍が急襲する。
為す術なく、人界軍の兵士たちはマロールとマレフィクトの放つブレスに倒れていった。
満足のいく結果をその目で見つめ、アムルは勝利を確信して頷いたその時だった。
「……魔王様」
いつになく神妙なバトラキールの物言いに、アムルは違和感を覚えていた。
確かにまだ戦闘が終結した訳ではなく、油断していい場面ではない。
だがどう見ても人界軍が劣勢にあり、それを覆すことの出来る秘策が敵側にあるようには見えなかったのだ。
それを目の当たりにすれば、勝ちを意識するなと言う方が無理である。
そしてそんな事はバトラキールも承知しており、普段であったなら軽く窘める程度で済ませていただろう。
今アムルの目の前に畏まっている様な、どうにも重苦しい雰囲気を纏っている彼の姿は、アムルにはどうにも不可解でしかなかったのだ。
「……魔王城が……陥落いたしました」
そんなアムルの抱いていた疑問の答えは、誰でもないバトラキールの口から齎されたのだった。
ただし余りにも突飛なその言葉を聞いて、アムルはすぐにその意味を理解出来ないでいた。
「な……何?」
だから、そう反問する以外に口にする事は出来なかった。
いや、これはバトラキールに改めて問うている訳では無い。
どちらかと言えばこれは自問の類であろうし、何よりも彼の言ったセリフの意味が分からないという事を素直に口にしただけなのかもしれない。
「先ほど我が手の者より連絡が入り、魔王城が急襲した人界の勇者に占拠されました由にございます」
淡々と齎される情報に、アムルにはその場で冷静な判断を下す事など出来なかったのだった。
齎された急報に、言葉を失うアムル。
事態は急転直下、暗雲が立ち込める……。




