入部テスト
「頼む川瀬! キャッチャーやってくれ!」
昨日の経験を活かし、今日は一時間早く学校に来た俺は、始業四十五分前に教室に入ってきた川瀬にそう切り出した。
「いや、邪魔なんだけど」
「おう、すまん」
つい目の前を塞いでしまった。道を開けてやると、川瀬はなんのリアクションもせずスタスタと自分の席に着いた。後ろを歩いていた来宮に異様なレベルで睨まれた気がするが、気のせいだろう。
「で、キャッチャーのことなんだけ」
「どういつもりなの!!」
俺が言い切る前に叫んだのは、なんと来宮だ。親の仇でも見るような形相で俺を睨んでいる。さっきのは全然気のせいじゃなかったようだ。
「昨日教えてあげたじゃない! もう薫に野球部の勧誘なんてしないように! なのにどうしてあなたは……!」
「春香、落ち着いて」
川瀬に言葉で制されて、来宮が我に帰った様に黙り込んだ。なんとなく気付いてはいたが、どうやら来宮は怒ると怖いタイプらしい。殺されるんじゃないか思ったほどだ。来宮こわい。
「わざわざピッチャー以外を勧めてきたってことは、もう私の右肘のことは知ってるわけ?」
「ああ。来宮から聞いた」
「じゃあその上で私にキャッチャーやれって言ってるの?」
「おう」
「柏木、あんたほんとに野球知ってる?」
失礼な。これでも俺は野球歴はそこそこ長い方だ。だがまあ、川瀬の言わんとしていることはわかる。川瀬は俺を小馬鹿にしたような表情だ。
「まともに送球も出来ない私がキャッチャーなんて出来るわけないじゃない。キャッチャーがただピッチャーのボールを捕るだけのポジションだとでも思ってるの?」
「そんな風に思った事は一度もねえよ」
キャッチャーは多忙なポジションだ。
投手と捕手の間、つまりバッテリー間の事だけでも、投球の組み立て・悪球やパスボールの捕球・投手への声かけがある。それに加えて盗塁阻止、内野ゴロの送球指示等のチームの司令塔としての役割。さらにマスクやレガース等の防具を着けるので、暑いし辛い。
そういう観点からか、実際俺の小中時代にキャッチャーを進んでやっていた奴は少なかった。
「だったら、私にキャッチャーなんて勤まらないことぐらい分かるでしょ? 今の私じゃ良くて投手にゆっくり返球するのが限界よ。バント処理は出来ない、盗塁はされ放題じゃどうしようもないじゃない」
川瀬の言う事は最もだ。弱肩の捕手というのは少ないわけじゃないが、送球が出来ないというレベルの選手はいないだろう。
だが、俺の考えた案なら、そんな事は関係ない。
「要は、俺がランナーを出さなければ良いんだよ」
「はぁ?」
川瀬の返事は、さっきまでの俺を馬鹿にしたようなものではなく、それを通り越して呆れている。最初以降はずっと傍観を貫いていた来宮も、何か言いたげだ。
とはいえ、こっちとしてもこうなることは予想していなかったわけじゃない。俺は構わず続ける。
「基本は三振か打ちとればいいんだよ。仮に四球やヒットでランナーが出たって、盗塁で進めるのは三塁までだ。なら、そこで三振奪っちまえば点は入らないだろ?」
これは極論だ。というより、机上の空論に近い。それが簡単に毎回出来るようなら、そもそも野球という競技が成り立たない。それでもこれは、川瀬にも野球が出来るという一つの理由付けになるんじゃないかと、俺が昨日唯一思いついた方法だ。
「……バカバカしい。出来るわけないじゃない、そんなこと」
しかし、川瀬は乗ってこない。むしろ話は終わりと言わんばかりに、スマホをいじり始めた。どうやら俺の思っていた以上に川瀬の野球をやらないという決心は堅いらしい。
もうこうなったら、正面突破するしかない。
「川瀬。お前さ、野球やりたくないのかよ」
「柏木君! いい加減にして!」
ガタッと席を立った来宮が俺に突っかかる。なんというか、本当に友達思いなんだろうな、来宮は。けど、今だけは退けない。
「来宮は黙っててくれ」
「これで駄目ならもう諦めるから」、と加えると、来宮は不本意そうにイスに座りなおした。俺がこの先もしつこく川瀬に絡むよりはマシだと判断したのだろうか。許しが出たと勝手に判断して、俺は川瀬に話を続ける。
「俺なら投手の道が閉ざされても、絶対野球を続けるって断言できるぞ」
「……」
川瀬は俺を無視してスマホの画面を見続けている。だが、スマホを操作するはずの指は動いてない。
「少しでも野球への熱が残ってるなら、一緒にやろうぜ、野球」
「やりたいわよ!!」
座ったままとは思えないほどの声量で、川瀬が叫んだ。他の生徒がいない、朝早い時間で良かった。
「投げれなくなってからも、野球を忘れたことなんて一度もない! 他のポジションに移る事だって、何度も考えた! でも無理なの! 他の誰かがマウンドに立つのを見ると、羨ましくて、妬ましくて、憎くて、頭がおかしくなりそうになるのよ!」
それは、溜め続けた感情を爆発させたような勢いだった。言葉と共に川瀬の瞳からは、大粒の涙が次々と零れていく。
「自分のピッチングを知ってるのに、私以外のピッチャーが投げる球なんてリード出来ない! そんな私に、キャッチャーなんて出来るわけないじゃない!?」
「出来る!!」
川瀬に負けないように、精一杯の声で俺も叫んだ。教室全体に響き渡るそれは、川瀬の感情の爆発を真っ向から止めた。
「投手が羨ましいんなら俺を憎めば良い。ムカついたら殴ってくれたって構わねえ。お前が投手に求めてくる事、全部俺がやってやる。それでも野球がやりたくないっていうなら、その時は辞めればいい。それならいいだろ?」
野球部の人員集めということ以上に同じ野球が好きな人間として、川瀬に野球を再会して欲しいのは俺の本心だ。川瀬がまた野球をやるためなら、俺は喜んで無理難題でもなんでもこなしてやる。
「……少し、考えさせて」
川瀬は再びスマホに目線を戻すと、頷いたままそう言った。
それから数時間後、昼休み。自分の机を一八〇度後ろ向きにし、米村と弁当を食べながら他愛もない雑談をしているときだった。「ちょっと」と、声をかけてきたのは、川瀬だ。どこかへ移動する事もなく、腕組みをして俺の目の前に立ったままの川瀬が、言う。
「勝負しよっか」
「え?」
いきなり勝負を吹っかけられた……。まさか本気で怒らせてしまって喧嘩を売られているのだろうか?
川瀬はどうか知らないが、俺は腕っ節の方は正直あまり自信がない。というかそれ以前に、女子を殴るのは流石にアウトだろう。野球で言えばアウトどころか即一発退場レベルだ。
「お、落ち着け川瀬。話せば分かる。人間は分かり合える生き物なんだ」
「はぁ?」
馬鹿をみるような目で睨まれた。
「三打席勝負よ。アンタが私を完璧に抑えてみせたら、野球部に入ってあげる」
中学最後の試合から八ヶ月。どうやらようやく俺は真剣勝負が出来るようだ。
「投球練習終わったら言いなさいよ! こっちもそれまで準備しておくから!」
川瀬はその言葉を残して、野球部室の裏側に消えていった。俺の球筋を見ないために、投球練習の見えない所に移動したいらしい。
俺、そして川瀬、来宮が今居るのは俺が通っていた中学のグラウンドだ。
川瀬に三打席勝負を挑まれたものの、野球部が明蘭高校のグラウンドの使用権を持っているのは今日ではない。三打席勝負とはいえ周りに人が居ては野球なんて到底できないので、俺が頭を下げて中学のグラウンドを貸してもらったというわけだ。
俺は常に硬球とグローブは一式持っている。部室にも一組だけ硬式用の野球用具が揃っているので、バットとキャッチャーミットは確保できた。
「じゃ、いつでも良いからね」
「おう。……でも、本当にいいのか?」
中学以来の懐かしいマウンドに登るのは、当然俺。しかしマウンドと向かい合ってホームベースの後ろに座っているのは、プロテクターフル装備の来宮だ。
「平気平気。シニアで正三塁手になるまでは、練習で薫のボール捕ってたの私なんだよ?」
うーん。なら大丈夫なのだろうか。昔の事があるのでどうしても心配してしまう。一応防具はあるので怪我をするということは滅多にないだろうが、なにぶん女子に投げるのは初めてなので緊張する。
「でも投げる前に球種だけは教えてね。流石にどんな球が来るか分からないと捕球出来ないから」
そりゃそうだ。球種を知らないまま変化球を捕れる奴なんて相当のキャッチャーじゃないとできないだろう。しかし。
「いや、それはやらなくても大丈夫だよ」
大半の投手相手には必要な事だろうが、俺には不要だ。なぜなら俺は。
「俺、ストレートしか持ってないからさ。変化球投げられないんだ」
変化球とは、簡単に言えばボールの握りや腕の振りを変えることで投げたボールの回転を変化させ、本来まっすぐに進むボールの軌道を変えることだ。
バッターの手元で投手の利き腕と逆向きに曲がるスライダー、逆に利き腕側に曲がるシュート、大きく弧を描きながら斜めに曲がるカーブ等、その種類は様々だ。
大体ピッチャーというのはこの変化球を一つ以上は持っているものなのだが、俺の中学の顧問は野球については素人同然だった。そのせいで変化球を教えてくれる人が誰もおらず習得できなかったのだ。本を読んで勉強してみた事もあったが、いまいち上手くいかなかった。
「……えっと、つまり『まっすぐ』一本で薫と勝負するってことかな?」
「そうなるな」
「……」
来宮が言葉を失ってしまっている。キャッチャーマスクのせいでいまいち表情が読み取れないが、呆れられているのはなんとなく分かる。投手一筋だった奴が高校生にもなって変化球が一個もないというのは中々ないだろう。シニアで高いレベルの野球をやってきた来宮には、余計に理解しがたいのかもしれない。
「……うん、そうだよね……。なにか特徴のあるタイプのストレートかもしれないし…それでわざわざ薫を誘ったのは…でもまだ怒るようなことじゃないよね……」
いかん、来宮が何かブツブツと呟き始めた。よく聞き取れないがあまり良い現象ではなそうだぞ。
「と、とりあえず一球投げるからな! しっかり捕ってくれよ!」
「あ、うん。どうぞ」
早く投げてこの流れを断ち切らなければ。ボールの縫い目を指で探り、しっかり4シームの握りでボールを掴む。
それにしても、マウンドに立つのは本当に久しぶりだ。そして、マウンドから本気で投球するのはもっと久しぶりになる。あの練習試合以来だから、実に二年振りだ。引退してからもトレーニングは続けていたけど、その結果を確認すする術がなかった。俺にとってもこの投球は引退以降どれだけレベルアップしたか確認するいい機会だ。
逸る心を抑え、俺は両腕をゆっくりと振りかぶる。左足を高く上げながら、体を軽く右向きに捻った。
来宮の構えるミットに目線を集中。あの場所に魂を撃ち出す気持ちで左足から前方に体重を移動させ、同時に振りかぶった右腕を撓らせる。
踏み込んだ左足に全体重を預け、一番力の伝わる場所でボールをリリースし、腕を思いっきり振り抜く!
「らァっ!」
撃ちだした白球は真っ直ぐ来宮へ向かっていく。そしてそのまま来宮の頭の上を越えてガシャアン!と音を立てて後ろの緑色のフェンスへ突き刺さった。
「……あら」
やってしまった。久しぶりの投球でちょっと、いやかなり興奮していたとはいえ、一球目からこれはよろしくない。球種がない上に制球力もないのでは本当に呆れられかねない。
内心慌てる俺とは対照的に、来宮はミットを構えた状態のまま、ジッと座り込んでいる。
これはあれだろうか。お前が暴投したんだからお前がボールを捕りに行けという無言のメッセージなのだろうか。
「なに?今の球……! 高校一年生の、それも無名の投手が投げるまっすぐじゃない……!」
来宮は投げる前と同じように、小声で何かを呟いている。
「球速も相当だけど、ただ速いだけなら捕れてたはず……。それなのに私がミットではじく事すらできなかったってことは……」
「悪い! ボール捕ってくれないか!? 次はちゃんと投げるからさ!」
「え? あ、ごめんなさい」
突っ立っていても始まらないので、とりあえず声を掛けてみると、来宮はすんなりフェンスに刺さっているボールを捕りに行ってくれた。
来宮の返球はやんわりとした外見とは裏腹に意外と鋭い。伊達に三塁手だったわけじゃないようだ。
「じゃあ二球目いくぞー!」
今度こそしっかり投げようと腕を振り上げると、来宮に「ちょっと待って」と慌てたように制止された。
「柏木君、ピッチング用のネットを運びたいから手伝ってくれないかな?」
「いいけど、必要なのか?」
「多分、私じゃ慣れるまでニ回に一回は捕れないからね。一々ボールを広いにいくのも非効率だし、ホームベースの後ろに置いておけばいいかなって」
なるほど、合点がいった。元々中学じゃ本職のキャッチャーですら捕れなかった俺の球だし、その上それがどこに来るか分からない俺のコントロールじゃ取りこぼすのは仕方ない。
ネットを移動させ、十数級の投球練習で少し肩が暖まってくると、部室の影に消えていた川瀬が戻ってきた。
「そろそろ始めたいんだけど、準備出来た?」
「ああ、いつでもいいぜ」
バットを肩に担いで登場した川瀬は、学校指定のジャージに身を包んでいるのにも関わらずとてもサマになっている。オーラというか、雰囲気が完全にアスリートの放つそれだ。
「さっきも言ったけど、勝負は三打席。その三打席全て打ち取ればアンタの勝ち。でも私が一回でも単打以上を出すか四球を選べば、アンタの負けよ。アンタが勝てば野球部に入るけど、私が勝ったらもう二度と私と春香を野球部に誘わない。いいわね?」
「オッケーだ。ま、自分であんな事言ったんだからやってやるさ」
勝利条件としては中々厳しいものがあるが、ここで勝てないようならどのみち甲子園なんて夢のまた夢だ。
俺が今朝川瀬を説得してから昼休みに入るまで、川瀬は野球を再開するかずっと考えていたらしい。
そこで、送球難のある川瀬が捕手でも俺が失点しなければ大丈夫という言葉を信じるかどうかを、この三打席勝負で判断したいそうだ。半年以上野球から離れていた自分を抑えられないようなら、俺が川瀬とバッテリーを組む価値はない、と。
要するに、この勝負は川瀬の逆入部テストということだ。
「ストライクとボール、ヒットと凡打の判断は全部キャッチャーの春香に任せるわ。いい春香?」
「うん。公正な判断をさせてもらうから、二人とも文句はなしね」
「おう」
来宮がジャッジをしてくれるなら、まず不正はないだろう。
「じゃ、日が落ちる前にさっさと終わらせちゃうわよ」
川瀬がヘルメットを被り、バッターボックスに立つ。右打席だ。それに合わせて来宮もしゃがんでミットを真ん中に構える。
「柏木、一球で終わらないように気合入れなさい!」
「言われるまでもねえ。全部三振で終わらせてやるよ!」
川瀬が構えるのを確認し、俺も大きく振りかぶる。さっきまでの投球練習と変わらない、左足を高く上げるフォーム。
(……最初三打席勝負を聞いたときは柏木君に勝ち目はないと思ってた。けど、彼ならもしかしたら薫を、野球の道に戻してあげられるかもしれない)
一球目、これを外せば後のピッチングにも響いてくる。ボール球は避けて、多少甘くても真っ向から勝負だ。
「おォッ!」
ストライクゾーンど真ん中を目掛けて、投げこむ。狙い通り真っ直ぐ進むボールは来宮のミットに吸い込まれるように入っていき、ドォン!と爆音を上げてすっぽりと収まった。
「なッ……!?」
「ストライクだよ、薫」
川瀬は、俺が野球部に誘ったときですら見せなかった驚愕の表情を浮かべている。反応できなかったのか、それとも元々初級からバットを振る気はなかったのか。どちらにせよ結果は見逃しのストライク。まずはワンストライクだ。
驚きを振り切るかのように川瀬は再びバットを構える。流石に一流の選手なだけあって、切り替えが早い。
来宮の返球を受け取り、二球目。再びボールは音を立ててミットに収まる。さっきと違うのは、今度は川瀬がバットを振ったうえで、空振ったということだ。
(速い・・・・・! かなり早めに振り始めたのにスイングのタイミングが合わなかった……。
間違いない。今まで対戦してきたどんな投手よりも、柏木のまっすぐは速い!)
「ツーストライクだな、川瀬」
自分が笑っているのが、高鳴る鼓動の中でも分かる。
「やるじゃない、アンタ」
川瀬に褒められるのは、素直に嬉しい。だが今は流れを断ち切らないため、早々と三球目を投げる。来宮のミットの位置はさっきまでの真ん中と違い、高め。
見送ればボールになる球だが、川瀬のバットはまたも空を切り、一つ目の三振を奪うことに成功した。
「っしゃあ!」
マウンドでガッツポーズをするのも、随分久しぶりだ。だが全力のボールで三振を奪うのは、もういつぶりかも分からない。
「私が、三球三振……?」
「課題はいくつかあるけど、柏木君のまっすぐは一球品だね。薫、熱くなってボール球にも手を出してた。本当に三打席連続三振くらうよ?」
「……望むところよ」
二打席目、今度は一球目ニ球目と連続ファール。しかも打球がほぼ真後ろに飛んでいる。それはつまり、スイングのタイミングが合ってきているということだ。
(タイミングは合わせれてるのに前に飛ばないのは、ボールを捉えきれていないってこと。球速と球威も相当凄いけど、厄介なのはこの球質。手元でかなりボールが伸びてきてるから、ボールの下を叩いちゃってるのね……)
三球目、今度は前に飛ばされたが、高く打ちあがった打球はそのまま俺の立つマウンド付近に落ちてくる。グラブでしっかりと捕球した。これで二打席目はピッチャーフライだ。
「ちくしょう。全部三振は逃しちまったか」
「私からニ打席連億でアウトとっておいて、そんな悔しそうな顔されたの初めてよ」
そう言う川瀬の方は、もっと悔しそうだ。そしてそれと比例する様に、俺のボールを打ち砕くという殺気も増していっている。打席に立つだけで相手にプレッシャーを与えるような打者がいるなんて、こうして対戦するまでは思ってもいなかった。
「これだよ。これだから野球は面白いんだ」
きっと、甲子園には川瀬みたいな奴が山ほどいるのだろう。俺はそいつらと戦って、倒したい。その為には川瀬と来宮の力は必要不可欠なんだ。
勝つ。絶対に。
川瀬からも、強い闘志があふれ出ている。
(ここまでの六球は全部ストレートだった。柏木の性格から考えても、このタイミングで変化球はないはず)
振りかぶって、三打席目第一球。
「らッ!」
キィンと金属音。また真後ろに飛ぶファールだ。もうボール球はいらない。全球ストライクでねじ伏せる!
二球目、今度はレフト線をギリギリ切れる鋭い当たり。紙一重だったが、これもファールだ。
「あっぶねえ……!」
「私をストレートだけで抑えようなんて、考えが甘い!」
川瀬の台詞はハッタリじゃない。確実に、ボールが捉えられ始めてきている。おそらく初めの二打席は俺に変化球があることも考慮してのバッティングだったのだろう。だがもう、俺がこのストレートしか投げられないことはバレているはずだ。完全に目が慣れられる前に、決着をつけないとヤバイ。
飛んでいったボールは後で拾いにいくことになっているので、予備のボールを来宮から貰い、三球目。
「これで、終わりだッ!」
「終わるのはアンタの方よ!」
鳴り響いたのは今日一番の金属音。川瀬の打球はライト側にぐんぐん飛んでいき、ポールの代わりにフェンスに引いてある、ファールとホームランの境目を表すラインの数センチ右に衝突した。
「ふ、普通あんな所まで飛ばすか……!?」
所詮は中学校の、決して大きなグラウンドではないが、それでも今のはホームラン性の当たりだ。あともう少しスイングのタイミングが早ければ、完全に俺の負けだった。
狙って投げたつもりじゃないが、今の俺のボールはアウトローに決まるかなり良いボールの筈だ。それを流し打ちでフェンス直撃とは、本当に怪物か川瀬は。
「こりゃマズイな……」
結局一打席目以降一度も空振りをとれていない。三振どころか、もはや勝負に勝てるかも怪しくなってきた。
しかし、なにかおかしい。あれだけの打球を放った川瀬自身が、なぜか驚いている。
(振り遅れた? 完全に捉えたと思ったけど、まさか……)
「川瀬、次いくぞ!」
何か川瀬に不都合な事でもあったのか。分からないが、なんにせよ俺にはもう全身全霊でボールを投げることしかできない。
「おらッ!」
今日始めての四球目。川瀬の打球はまたもやファールだ。しかし今度は斜め後ろに飛んだ。
さらに五球目、これも大きく逸れてライト側へのファールだ。
(やっぱり、一度合わせたはずのタイミングがずれてきてる。……つうまり最初のボールはまだ柏木の全力じゃなかった。短い投球練習じゃ柏木の肩は完全に暖まっていなかったんだ――。)
「春香。どうも私は野球からは離れないみたい」
「薫……?」
なにやら川瀬と来宮が話しているが、もう気にしてもいられない。久しぶりの投球に体が喜んでいる。投げるたびに調子が上がっていく感覚がわかる。この感じを、途切れさせたくない。
次で六球目、そろそろ決めないといずれヒットを打たれるだろう。今度こそ、全力のボールで川瀬を抑えてやる。
「これで最後だ!」
「来なさい柏木!」
振りかぶって、左足を高く上げる。出すべきは全力、投げるのは最高の一球。全身に貯めた力を解放し、ボールをリリースする指先に全体重を集約する。そうして放たれた最大限のストレートは、真っ直ぐ来宮のミットに向かっていく。
次の瞬間、白球がミットに叩き込まれる轟音が鳴り響いた――。