一話 指令
忍び衆総隊長の屋敷へ呼び出されていた俺は、表座敷に繋がるフスマの前にいた。
先ほどから背中に暖かな日差しが降り注ぎ、中庭に植えられた桜から絶え間なく花びらが降り注いでいる。
草花の匂いも一層濃く、小鳥のさえずりも聞こえてくる。
しかし今の俺は悠長に花見のことなど考えられる余裕もなく、まして春の日差しなど滅びの光に思えてならなかった。
このフスマを開けて総隊長から依頼される任務は、いつもとんでもなく鬼畜なものばかりだったからである。
ある時は小島ほどもある巨大な怪魚のいる海に放り出され、ある時は先祖代々に渡って討伐不可能と言われてきた鬼の住まう島へ一人で放り出され、またある時は赤く爛れた新種のキノコの試食をさせられたりした。
キノコに関してては忍者にやらせる意味が分からないし、もはや頑張って俺を殺そうとしているとしか思えない。そう、このフスマは言わば地獄の門。開ければ最後、俺は煉獄の炎に身を投じることとなるだろう。
だが俺も幾多の死線を潜り抜けてきた忍びの端くれ。ここは覚悟を決めるしかあるまい。
俺はキリキリと痛む腹から手を離し、立膝をついてフスマを持った、が、俺が力を込めるより先に勢いよく左右にフスマが開かれる。
「やあ猿渡君、よく来たね!」
俺の目の前に立つ爽やかな男は満面の笑みで俺を見下ろしている。きっと100人いたら99人から好感を抱かれる、そんな男前である。だが俺はその暖かな笑顔を見た瞬間に背筋が寒くなるのを感じた。
「狐塚総隊長、おはようございます!」
俺は弾かれるように立ち上がって一礼する。
「まあ堅苦しいのはよそう、猿渡君。今日は急ぐんだ」
相変わらず笑顔の総隊長は俺の背中を押して部屋の中へ引きいれた。触られた部分がジンワリと汗が滲んでいるのが分かる。今日はどんな処刑法を考えているのかと思うと気が気ではないのだ。
ぴしゃりとフスマを閉め切った総隊長は振り向きざまに言った。
「猿渡君、ちょっと世界の反対側まで飛んできてよ」
……ゑ?
その言葉は「ちょっと買い物行ってきて」くらいの軽さだった。世界の反対側? 何をするため? もしかして島流しか?
余りに突拍子もない言葉に俺は状況を把握できず、畳の目を数えている間に庭の鹿威しが二度鳴った。沈黙に耐え切れなくなったのは、もちろん俺の方である。
「世界の反対側と申されますと……?」
「アヴァラス帝国っていう国なんだけど知らない?」
アヴァラス帝国……確かこの鶴義国から遥か遠い西の光帝大陸の、北端に位置する国だ。
「あの、具体的にはアヴァラス帝国で何をする任務なのでしょうか?」
「これは幕府からの依頼じゃない。僕が知人から頼まれた私的な頼みなんだけどさ」
「はぁ……」
待て。俺は総隊長の私用のために鶴義からわけの分からん土地に飛ばされようとしているのか。
「単刀直入に言おう。アヴァラスから『フィアールカ・グラフ』というお嬢さんを誘拐してきて欲しいんだ」
「ゆっ、誘拐ですか……? フィアールカ・グラフとはどのような人物なのですか?」
「アレクサンドル・グラフという世界一の豪商の娘、ということになっている。表向きはね」
俺は総隊長の含みを持たせた言い方が少し気になった。
いやそれは別として、任務が少女の誘拐となると気が乗らない。しかもこれは総隊長の私用らしいではないか。
俺の表情が曇ったのに気付いたのか、総隊長は明るい声で続ける。
「心配しなくてもフィアールカちゃんを殺したり売り飛ばしたり身代金を要求するために誘拐するんじゃないんだ。誘拐と言っても『保護』が目的だからね。今フィアールカちゃんは囚われの身なのさ」
本当なのだろうか。俺は総隊長の細い切れ長の目をまじまじと見つめた。
「絶対失敗したら駄目だよ。お偉いさんのご令嬢だから、アヴァラス帝国にバレたら戦争になりかねないからねぇ」
……戦争……?
俺がしくじれば100年平和を謳歌してきた我が鶴義国が戦火に巻き込まれる、だと……?
また一段と腹の鈍痛が強くなり、目眩もし始めた。
いつもなら例えどんな理不尽な任務であっても二つ返事で引き受けるのだが(というかそうせざるを得ないのだが)、今回ばかりは首を縦に振るわけにはいかない。俺がしくじると戦争が発生するなんて荷が重すぎる!
「あの、総隊長、真に申し訳ないのですが」
「引き受けてくれるよね? えっ、やっぱり引き受けてくれるんだ、さすが猿渡くーん」
「俺まだ何も言ってないですよ?!」
「フィアールカちゃん凄く可愛いよ? 良かったね? 手を出したら死刑だけどね? はっはっはっはっは」
何が面白いんだよ!
「じゃあ早速詳しい任務の指示書を渡そう」
微笑む総隊長は子供に話しかけるような優しい口調だが、行動は鬼のように強引である。まずい。ここで断らなければ俺だけではなく父上母上、そして姉上たちにも危険が及ぶ可能性がある。
「総隊長、あの、今回の、任務を、その、辞退させていただくわけにはいかないでしょうか」
懐から依頼書を取り出したところで総隊長の動きがピタリと止まる。
そしてその張り付けたような笑顔で俺の顔をじっと見つめてくる。
「そうか残念だなあ」
「は、はい。真に遺憾ではございますが」
「ねえ猿渡君」
俺を呼ぶその冷徹な笑顔から言い知れぬ威圧感を感じた。
じっくりと俺の視界が歪んでいく。
「は、はい何でしょう!」
「僕がこの任務を引き受けたのはね、依頼主が僕の恩人だったからっていうのもあるけど、一番は確実に達成できると思ったからなんだよ」
「さ、左様でございますか……」
「そう、猿渡君。君ならね」
「……!」
ねえウンコ漏らしていい?
「ああ残念だ! 君しか心の底から信頼できる忍びはいないと言うのに!」
総隊長は大げさに両手を広げてさらに続ける。
「残念だ! 他の者に任せたらきっと失敗するよ! そうしたら僕は依頼主にも幕府のお偉方にも合わせる顔が無いよ! 切腹したってこの罪は償えないんだからね!」
総隊長は手を下ろし、ゆっくりと俺の方へ歩み寄ってきた。
胸の奥がキュっと音を立てる。
狐目の男は腰を落とし、俺と視線を合わせ、言った。
「ねえ猿渡君、君は僕の顔に泥を塗る気かい?」
その声は冷たい殺意を帯びていて、その笑顔は死体よりも無表情だった。
滝のような冷汗が俺の全身を覆う。
「め、め、めめめめっそうもございません!」
殺される。何の比喩でもなく断ったら確実に殺される!
「じゃあ引き受けてくれるんだね?」
「いや! その、……。はぃぃ」
ねえウンコ漏らしていい?
「そうかそうか! 君なら引き受けてくれると思っていたよ!」
総隊長は口をほころばせて大げさに笑い、俺の肩をばしばし叩いた。
もう嫌だ。
もう嫌だ。
もう嫌だ。
「よし、そうと決まれば早速準備だ! はいこれ指示書!」
総隊長は懐から封書を出して俺に手渡した。
「はいこれ地図! はいこれフィアールカちゃんの肖像! はいこれ支度金!」
総隊長の懐からスポンスポンと色んなものが出てくる。もしかしてアレは四次元空間か何かなのだろうか。
「総隊長、一度自宅に戻ってもよろしいでしょうか?」
「何で?」
「忍び装束と忍具一式を持ってきたいものですから」
すると狐塚総隊長は素早く立ち上がり、奥の部屋から黒い風呂敷を持ってきて俺の方に放り投げた。
これはまさか……?
「はいそれ君の忍び装束と忍具一式!」
「いやこれ俺の部屋のにあったものですよね!? 何で総隊長がもってるんですか!?」
「それからこれ、君がコツコツ集めてた春画集」
「ちょっと!?」
「あー、ごめんごめん、これはいらなかったかな」
総隊長はケタケタ笑っている。この狐目、絶対分かって持ってきやがったな……!
「よし、じゃあ5分後には出発してもらうからね」
便所休憩かよ!
「待っ、ままままままっまぁ!」
「僕は君のママじゃないよ」
分かっとるわ!
「お待ちください総隊長! まだ詳しい任務の内容を何も聞いておりません!」
「さっき渡した指示書に書いてあるよ」
書いてあるよ、ってザックリ過ぎるわ! 子どもの遠足じゃねえんだぞ!
「さあ急いで支度したまえ。十日後には作戦を開始してもらう」
「いやいやいやいや! 無理ですよ! ここから光帝大陸に向かうためには船で何か月もかかるじゃありませんか」
「いや、七日あれば到着できる」
そうか、この人は頭がおかしいのか。知ってたけども。
と思っていると総隊長は中庭に繋がるフスマを一気に開け放った。
眩しい春の日差しと共に白い生き物が目に入る。よく見るとそれは馬のような生き物だった。
「のような」と曖昧な言い方をしたのは、俺の知っている馬と若干姿かたちが異なっていたからだ。
庭の草を食むそいつの眉間から一本の角が生えていて、背中から大きな純白の羽が生えている。あれは、まさか、空を飛ぶという天馬か……?
総隊長は白い馬を鋭く指さした。
「はいこれペガサス!」
手品か!
そうか、確か天馬は世界一速く空を飛べる手段だと聞いたことがある。あれなら七日で世界の反対側まで飛べるということなのか。
「いや、でも俺は天馬に乗れませんし、鶴義に天馬を乗りこなせる者も……」
すると突如中庭の池から水の柱が立ち、中から水浸しのオッサンが現れた。どうやら服装からして鶴義の人間では無い。
ではアレは何だろう、水死体の精霊だろうか。
「はい! あれ天馬乗り!」
今度は水浸しのオッサンを指差しながら言う総隊長。
「あれが!? っていうかあの人なんで池の中から出て来たんですか!?」
「ウケ狙いじゃない?」
「笑いを取るために死ぬ気で息止めてたの!?」
「さあ早く準備したまえ。天馬乗りの彼には屋敷の外で待っておいてもらうから」
もう頭が付いて行かない。余計なことを考えるのは止めよう。
俺が素早く忍び装束に着替えていると、また総隊長が奥から何かを持ってきた。
「はいこれアヴァラス帝国の神職者がよく着ているローブ。これならあっちの国でも目立ちにくいし、寒さ対策にもなるからね!」
「あ、ありがとうございます……」
手渡された黒いローブを持ち、一度深呼吸をしてから総隊長に向き直った。
「では行って参ります」
「うん、気を付けてね」
総隊長は一貫して朗らかに笑ったままだ。この笑顔が心からの笑顔である確率はほぼ0である。
「ああそうだ猿渡君」
思い出したように切り出した総隊長の目はいつもより見開かれている。
「その女は呪われている。気を付けたまえ」
屋敷の外で待っていた天馬には馬車のように車輪のついたソリが取り付けられていて、俺はその中に載せてもらえた。
やがて天馬はゆっくりと砂利道を走り始め、振動が俺の体をビリビリと震わせる。
ああ、俺はもう一度この鶴義の土を踏むことは出来るのだろうか。いや、踏めなくとも構わない。俺の命を懸けても必ずフィアールカ・グラフを攫い出すのだ。
「おーい、猿渡くーん!」
声のする後ろを振り向くと、総隊長がこちらに手を振っている。
なんだ見送りに来てくれたのか。あの人にも少しは人間らしい所も……。
「その天馬乗り、男好きだから気を付けてねー!」
なるほど忠告……!!?
「あと春画集は君のお母さんに渡しとくから安心してー!」
「やめてぇえええ!」
最後の最後まで人をおちょくるのが大好きな、いつもの総隊長であった。
つづく
お読みいただきありがとうございました!