九話 初めての
口の中に広がる温かさは二十年近く生きてきた俺にとって全く未知の感覚だった。
「女の唇は柔らかい」
という不確かな伝聞は聞いたことがあったものの、俺にはそれを確かめる術が無かったのだ。
しかしフィアールカの唇は確かに、今にも溶けてしまいそうなほど柔らかかった。
なぜ初対面の男にこんな事をするのかは一切分からないが、こんな事をしている場合ではないことは確かだ。
俺は一応抵抗を試みた。
だが唇を塞がれた俺は金縛りにあったかのように動けなくなっていた。屈強な男に締め上げられていた方がまだ抵抗出来ただろう。
状況は悪化していく。
胎内に戻ったかのような懐かしい暖かさが徐々に身体中を覆い始め、抵抗する気力をごっそり奪われていく。
これは別に性欲に負けて動けなくなっているわけではない。断じて。
不意にフィアールカが俺から手を離し、目をつぶったまま二、三歩後ろに後ずさった。
俺はやっと動けるように、なっていなかった。
相変わらず身体の自由は効かないままだ。
しかし何故フィアールカは目をつぶったままなのだろう、と不思議に思っていた時だった。不意に間近で太陽が照っているような、黄金の光がフィアールカを包む。
あまりに眩しくて目を細めていた俺は次の瞬間驚いて目を見開いた。
目をつぶった彼女の胸のあたりから、まるで水面から太陽が出るかのようにゆっくり、光に縁どられた、逆さを向いた正五角形が出現したのだ。五角形の中には天体を思わせる幾何学的な模様が描かれている。
そしてなんということでしょう。その光る五角の図形はゆっくり俺の方へ進んできたではありませんか。
俺は必死に動こうと試みた。しかしそれこそ魔法にでも掛かってしまったかのように身体がピクリとも動いてくれない。
ついに光る図形は俺の腹に到達し、今度は水平線に日が沈むかのように、ゆっくりと光を失いながら俺の身体へ溶け込んできた。
放っていた光は俺の体に完全に入り込んだところで消え、同時に俺にも身体の自由が戻る。
「い、いま何を……?」
「私のファーストキスですわ」
あらやだ奇遇ね。私もなの。
じゃねえ! 絶対に得体の知れない何かが俺の体の中に入ったぞ。それも恐らく良いものではない何かが。
ふと、総隊長の言葉が俺の脳裏をよぎる。
『その女は呪われている。気をつけたまえ』
呪いだ。呪いを移されたに違いない。顔色ひとつ変えず、笑顔を崩さない女を前にして俺は背筋が凍るような感覚を覚えた。
「……俺に呪いを移しましたね?」
するとフィアールカは口に手を当てて笑い始めた。
「半分正解ですわ。でも、もう半分は……」
フィアールカの言葉は、突如ドアが破壊された爆音に遮られた。
俺はフィアールカを抱えて部屋の隅に跳びのいた。しかしドアを破った主を確認してため息をつく。
「もっと優しくノックしろ、ボニー」
ドアのあった位置には両手でモーニングスターを持つボニーが、何故か半泣きで立っていた。
「遅いぞカッペー! お腹すいたし! すぐ戻ってくるって言ったのに! お腹すいたし! 全然戻ってこないし! お腹すいたし! 来てみたら女の子とイチャイチャしてるし! お腹すいたし!」
要約するとお腹が空いたらしい。
子供のようなゴネ方をするボニーと、その手に握られた血の滴る星球は非常にアンバランスに感じられた。
「どうせ二人で晩御飯の相談でもしていたんだろう!」
「そんな呑気な状況じゃないわ! お前こそどうしてアヴァラス兵に見つかってるんだよ」
「だってお前が急に消えるから! 心配になって……」
だから気配消すって言ったんじゃん! と喉まで出かかったのを俺はどうにか抑えた。
「ごきげんようボニー……さん? 私はフィアールカ・グラフ。よろしくお願いします」
「おお、お前がフィアールカか! よろしくなフィアールカ! お人形さんみたいに綺麗な顔だな!」
半泣きから一瞬でカラッとした笑顔になるボニー。こいつ本当に切り替え早いな。
「とにかく逃げるぞボニー! そこの中庭に繋がる窓を開けてくれ!」
俺はフィアールカを抱き抱えながら叫んだ。
俺が急いでいたのは二つ理由がある。先ずここで言い合いをしている場合ではないと思ったのが一点。
そして部屋の外からドカドカと複数人の足音が近づいてきたからがもう一点。
「任せろ!」
今まで聞いたことのないような風切り音が響いた次の瞬間、まるで紙でも破れるかのように、窓が壁もろともぶち破られた。
「開けたぞカッペー!」
いやぶっ壊したんだろ。
「あらぁ、私の部屋がぐっちゃぐちゃだわ」
ごめんなさいフィアールカさん。
「ええい逃げるぞ!」
俺は半ばヤケクソで叫び、フィアールカを抱えて中庭へ飛び降りた。
お読みいただきありがとうございました!
次話は来週火曜日の朝6時に投稿の予定です。