六章 一刀両断を目指せ
六章 一刀両断を目指せ
「一刀両断を目指せ、しかし最初からできるわけではないから、まずは斧を薪に軽く食い込ませてから薪ごと斧を振り下ろせ。」
と祖父は薪割りの初歩を私に教えた。
が、祖父の一刀両断の薪割りがどうしてもまぶたに焼き付いている幼子心は、素直に初歩薪割りのやり方を聞こうとはしない。
よっちらと斧を持ち上げふらふらとしながら、かけ声だけはいっちょ前に出して斧を振りおろす。
結果は想像の通り、妙なところに振り下ろしてゆくへなちょこ薪割りなので、薪が違うところに転げてゆく。
すくなくとも薪が飛んでゆけば様になるのだろうが、そんなことになるのは何回かに一回で格好いい要素など無いに等しい、のだが本人はいたって真面目に格好良くなろうと(かっこいいと思い込みつつ)斧を振り上げ、斧を薪に叩きつけてゆく。
が、薪はきちんと割れてくれないものである。
ときに薪の端を打ち下ろし斧は途中で止まる。
ときに割れたと思えば完全には離れておらずつながっている。
まれにきれいに割れることもある。
いったようにやらないのは子供だからということもあるだろうし、いずれ飽きて身長や体力にあった方法をとらなければ作業量をこなすことができないと気づくだろうと「けがをしないように気をつけてやりなさい」と祖父は最初の手ほどきを行った後は見守るだけとなった。
今まで薪はたいてい祖父が割って積み上げてあるものを使っていたのだが、段々風呂焚きに慣れてくると、割っていない木が保存してあってそれを取り出して割るという仕事もおおせつかるわけです。
あるていど手慣れてくると薪割りを任されるようになり、段々遊ぶ時間が削られてくる。
不満を口にすると、「神道者は辛抱できねばならん」とただそれだけをいって仕事を続けるように促します。
ただ時折薪割りは今日はしなくてもよいぞとか、風呂焚きは変わってやろうとかと言う日もありました。
体調や学業またたまの同級生との遊びなど、こういった頃合もみていたのでしようか?。
振り返って考えてみますと、遊びなど自侭に行えることが当たり前になっているような現代ですが、本当に子供が大人になった時に家の手伝いをしていた子としていなかった子の差は大きいと思います。
今現在巫女さんお手伝いに入ってくれる子がいますが、結構な家事を負担しているのでしょういろいろなことに気づくことが早いですね。
それに耐えることを経験的に知っているようですから、この先彼女が困難やさらなる向上に向かうとき辛抱することを幼いうちから行っておけば、それに耐え抜いて堅忍持久の精神を発露し人生の峠道を越えていくことでしょう。
思うとおりにならない現実に、どこが要なのかを見る力とそれを突破する手段を計画し、それを構成する作業はいくつあるのかを算出し、一つづつ作業を達成し構築してゆく。
そうすることで現実を変えてゆくことができるものですが、状況を変えていこうとするととても時間や手間がかかる。
こういうときに幼い頃の自儘にならない状況にあったというのは後々の財産になるのではないだろうか?。
状況に不満を言うことは簡単だ。
状況を変えてゆく努力は大変だ。
しかし知恵と努力と人の引き立てと神々のご加護によって状況を変えてゆくは要諦であり、心を折らぬ事は人として最も大事なこと。
そのように私は思う。
次話更新は水曜日を予定しております。