(第二部)六十三章 だんだんと陰湿さをまして
(第二部)六十三章 だんだんと陰湿さをまして
だんだんと陰湿さを増して巧妙な手口となっていくDQNたちの同級生たちへの自己の力の誇示。
誰もありがたがっていないし、おべっかを言うやつだって本心でない。
連んだ奴らの中でお互いを持ち上げてみたところで虚しいだけなのに、そういうことに気づかないそういう人種たち。
力を誇示することやつっぱって格好づけていくことが、二昔前に流行してそれがまだ息づいているわけだが、そういう風潮が流行っていようが流行っていまいが虐めや喧嘩が無くなるわけでもない。
DQN種族が学校の大半を占めているわけでは無く、あくまで平穏に学校生活をしてゆきたい学生の方が数多いのがありがたい。
DQNたち、ただそういう人種たちがある程度の数になると鬱陶しさや実害が出てくることは言うまでもなく、しばらく前に空手部に呼び出されたのは記憶に新しい。
彼らなりの理論と考えで生徒諸氏たちを占めていると勘違いし、我が物顔で学校を闊歩する妄想者の集団。
最初は自分たちで手を染めていた喧嘩や脅しなどが、次第に手下になった奴らに命じていろいろとやり出してゆく。
小さなところであれば消しゴムをちぎったものを授業中教師の目の届かない時を見計らって真面目に授業を受けているものたちへ投げつけて邪魔をしたり。
他の生徒の物品に落書きしたり破損させたりは日常茶飯事。
手下に命じて喧嘩をふっかけそれを遠巻きに見て楽しんだりと様々だ。
さらには噂と想像の域を出ないことだが、まだ他にも余罪があるようだ。
手下の喧嘩観賞はどうも順繰りに回っているようで、○○組の何某君が呼び出されて暴行を受けたようだぞ。
○○組の何某君も呼び出しを受けたようだけど、相手をして殴り合ったようだが、後ろで見ていた奴らは手を出さなかったらしい。
などなどだ。
空手部に呼び出されて以降いまだ手下どもからの呼び出しはなかったものの、近しい学友が被害に遭って休むことがあるなどすれば気分が滅入るのも人間として悪いわけではあるまい。
その日もそんな気分を抱えたままの授業だった。
午後からは楽しみにしている論語の授業があったので何とか耐えることができた、たとえ消しゴムが数カ所から無数に飛んできていたとしても。
ちなみに論語の授業は現在の母校では古典に吸収されてしまっているようで少々残念だが、古典のなかでも論語の比率が多いらしい。
私の時代には校長先生自らが論語を教えており、人柄の良い面をしておられまた伝え聞くにもやはり良い人物らしい。
論語自体には祖父のすすめもあって200年ほど前の論語本四冊を渡されていて流し読みに近い読み方をしていたので親しみがあったし、読めない箇所や解釈の仕方がわからない部分が多かったので、授業で質問をしていた。
校長先生はそういう質問を大変喜んでくれて、校長室に来れば教えるよと言ってくれていた、が、そういう姿を見たDQNどもに目の敵にされるのは言い過ぎだが目立っていたようだ。
昔からなんとなくだが学びとは、口や腹を満たすことにつながる学問は誰でもすることであって別段すぐれたものではないしごく当たり前のこと。
学んでも口の足しにも腹を満たすことでもない学びは、人物を作り魂を磨くと感じており今でもそれは変わっていない。
つまり人物を磨き魂の糧となる学びこそ本来、人がなすべき学びでありそれなくして人たりえないとも感じている。
つまり簡潔な言葉で言えば「教養や修身」というものだろう。
教養とは人に押しつけるものではなく、他者の文化や生活習慣を理解し偏見を少なくして相互理解を進め、さらにいえば人の文化と並立しても揺らぐことのない自己確立をすすめるそういう事をいう。
かなり昔からそういうものを感じていたが確実にそれを認識していたわけではなく、教養という認識をすすめるうえで重要な出来事があった。
「君、今日は放課後なら時間が空いているが校長室に来ないかね。」
「はい、行かせてもらいます。」
「おっやっと来てくれるか、初めてだね。」
「はい、初めて行かせてもらいます。」
「それは楽しみだ、茶ぐらいは出すから必ず来るんだよ。」
と授業の終わりに声をかけられた。
さて会話通りに放課後、校長室にお伺いする。
たださすがに緊張する。
喉がからがらに渇くがそれを押して入室の声をかけると「待っていたよ、さぁ入って入って。」
と声をかけていただいた。
お茶を飲みながら今の生徒達の動向の話をしてゆくと、解決はできないが自分も気をつけてみるし担当の先生方にも言っておくよ、といってもらえ少しDQNたちの活動が目立たなくなった。
もちろんすべて目が行き届くことはなく、少しだがそれでもありがたいものだ。
そうしてまず聞きたかったその当時言葉にならなかった教養について聞いてみた。
金銭を得るための学習は誰でもすることだし、それをしないやつは単なる物臭か馬鹿を見るだけのことだから論外として、収入につながらない学びの方がなんとなく正しいように感じる・・・ということを話して聞いてもらった。
「ほお~そう考えているのか、それは嬉しいねぇ。そういうことを聞いてもらえたのは初めてで本当に嬉しい。全くその通りで僕の解釈で言うとそれを教養といっているよ。教養無きは動物に等しいとも思っているけれど、他の人には言えないね。」
自分で疑問を聞いてもっていてなんなんだが、すぱりと答えが返ってくるとは思っていなかったので驚いて固まってしまった。
「僕はね、実を言うと教養について理解してもらいたいと授業でもいろいろと話をしているんだけれども、点数部分や単なる解釈についての質問は上がってくるだけなのが少しさみしかったが、教養に気づいてくれるとは教師をやっていてこれは嬉しいね。逆にありがとう。」
と、固まっている私をほぐそうとしての言葉なのか、そのままの感想なのかどちらともとれる言葉をきいて固まりが溶けていった。
それからいろいろと話をしてもらったが印象に残っている話が。
「僕はね校長って役職をしているけれど、それも身につけた教養を試しているだけのことかもしれないね。そう考えることで人の上に立っているという意識を少なくして行くことができるし、自己探求のついでと試すために仕事をやっていると考えていれば、人の話を聞くことができるしね。教養が深くなっていくと人の上に立つ事ができるのも自然とそうなることが望ましいのだろうけれど、そういう人徳を身につけてゆくことが大事なのではないだろうかと僕は思っているよ。」
と、印象に残っている。
その後何度か校長室を訪れ、疑問や話を聞いてもらった。
その中で、君は老荘思想のような感覚も持っているんだねとぽつりと言っておられたこともあったなと、過ぎ去りし日を思い出している。
次話投稿は5月2日の17時の予定です。
よろしくお願いします。