五章 焚き口の火はパチパチと
五章 焚き口の火はパチパチと
ガラッという音とともに組み上げていた薪が崩れる。燃焼によって薪が体制を保てなくなったためだ。
薪に着いた火を消さないように注意を払って、また薪を組み直す。
通風に気をつけて組み直す。空気の取り入れが悪ければ思う様に薪は燃え上がらない。
組み上げた燃えかけの薪の上に新しい薪を崩れないように通風できやすい位置におく。
焚き口の火はパチパチという音を立てて寒風に身をさらす体を暖めてくれる。
まだ風呂は焚き始めたばかりというところだ。
ある程度、火の管理ができるようになってくると風呂焚きを任されるようになった。
何度か火のたき方を教えてもらって、次には監督してもらって代替できるようになったというお墨付きをいただいての後のことだ。
風呂焚き自体は別段苦しいことはない、どちらかというと楽しい。
火口はだいたい松葉などを使う。深秋から冬にかけて集めておいた松葉を中心とした火口を、木小屋に積んで納めておいたものを使う。
急に火力が上がる松葉は火口としてとても適していて手間がかからない。
急激に燃え上がる火口の火力をさてどのように薪に移していくかが風呂焚きの最初の難関だ。
やり方は見せてもらっているものの別段詳しいことは教えてもらっていない。
自分で工夫しろと言うことだ、もしくは見て覚えろと言うことか。
いろいろと試してみた。
最初の難関を突破するために。
よく乾燥した薪を最初に使ってみたり。。。
薪に鉈で切れ込みを入れてみたり。。。
薪の組み方を研究してみたり。。。
研究し始めるととても楽しいものだ。
最初の難関を突破としてだんだん慣れてくると、倉庫にゆくもしくは先に準備しておく。
倉庫に縦穴が掘ってあり籾殻を入れてありその中には薩摩芋が保存してある。
このようにすると薩摩芋を始めとした芋類は非常に持ちが良く保存が利く。
穴の中の籾殻に手を突っ込み芋を探してゆく。
籾殻が手に当たりこそばゆく、軽いかゆみを伴うがあとできれいに拭き取ればそれで良い。
そこから何個か取り出してきて芋を焦げにならない位置に置く。
この方法は何度も失敗してみないと判らない具合がある。
芋の大きさや火からの距離、そして焼き上がり具合の好みというところ。
火から離して焼くという方法もあるし、後々にはアルミホイルに包んで焼くということもやってみたし、熾火になってからアルミホイルに包んだ芋をじつくり役という方法もあるだろうし、数日間灰を取り出さずその中に入れて近くで火をたき・・・などとまぁいろいろと考えて行うわけだ。
焼き方によって微妙に味が変わるこれが新しい発見となって楽しいものだ。 そう焼き芋を作りながら風呂焚きをするという寸法だ。
これは芋を収穫した後の季節でしか楽しめない。
そうそう必ず複数個焼かねばならない、なぜならば祖母分を作らねば機嫌が悪くなり謂われもないことで当てつけが来たり、意味のわからない愚痴の聞き役を仰せつかる確率が飛躍するからだ。
子供心に楽しくないこともある。それはちょうど見たいテレビ番組の時間と重なるためだ。
風呂焚きの時間になってテレビを見ていると祖父母よりきつい言葉が飛んでくる。
風呂焚きはお前の仕事だやってこいと・・・。
それでも頑張ってみているとガツンと痛いものが降ってくる。
しぶしぶ風呂焚きをしにいくわけです。
今になって考えるとこの風呂焚きという手伝いは非常に良かったと考えている。
テレビ番組の話題で同級生と話がついていかなかったのは、その時期にとって疎外感を感じるものであったが、テレビの話題や流行というものから一歩引いた位置にいることで、流行の空しさを見ることができたし、さらには思索の時間を持てられたのがありがたがった。
テレビ番組や流行の話しについて行けないものは仲間でない意識が彼らにはあり、テレビ番組や流行というものが一種の狂信的な信仰となっており、それらの元となるものは誰かが何かのためにやっているということを彼らの口から聞いたことがない。
もっぱら番組内容や流行の範囲を超えることのない話ばかりで、自分が考えだしたものらしい話を聞いたことがほとんどない。
子供心に強烈な違和感を感じていたし、つらつらこのことを思索してゆくとマインドコントロールかと思えてくる。
痛みや苦しみのない方法で人の意思や考え方を操作するのをマインドコントロールというらしいが、学校にしろテレビ番組にしろ流行雑誌にしろ、およそ考えさせることをしていないと感じる。
学校の授業では考えているではないかといわれる方もおられると思うが、主として記憶することと処理することに重点を置いている教育であって、考えるということは何かと重点が少ないのではないかと思う。
話が脱線してしまうが、こんな記憶がある。
授業のなかで遠足があった。
当日は雨の降る確率を天気予報で言っていたので合羽や傘を用意していた。
遠足途中で雲行きが怪しく風が湿気てきたと感じたので、立ち止まっていつでも取り出せるようにした。
が、ほかの同級生はそういうことをすることなく気にする様子もない。
やがて雨が降ってきた。
私は素早く取り出して合羽を身につける。
全員ではないが何もせず立っている。
しばらくしてそれらのリーダのが合羽を取り出しはじめてやっと周囲のものたちも合羽や傘を取り出してゆくが、取り出しやすい位置に準備していないのでずいぶん時間がかかる。
リーダーや誰かがやり始めないと動かないという習性は、長い時間何らかの教育のたまものであって決して本来の姿ではないと思う。
周囲に気を配ること、動きを察知すること、より先を洞察すること、事前に知って準備すること、自分でそれらを考えて行動するというごく当たり前のことが考える基盤となるのではないかと考える。
自分で考える基盤のないものの先にあるのは一体どのような判断があるのだろう。
幼少の頃の風呂焚きを発端とした考察と気付きがこのようなものでありがたいと感じている。
次話投稿は7日水曜日の予定ですが、もしかしたらそれよりも早い日取りでもう一話投稿できるかもしれません。
よろしくお願いします。