(第二部)五十三章 竹ひごの束を
(第二部)五十三章 竹ひごの束を
竹ひごの束を両手で持って繰ってゆく。
竹ひごは少しばかり細めの四十センチ以上はあるだろうか。
それは五十本はあるだろう。
それくらいの竹ひごの束。
じゃらじゃらしゃらしゃらと竹ひごの束を繰っては混ぜ合わせてゆく。
閉じた目がゆっくり開いていったかと思うと、竹ひごの束を二つに分ける。
別れた一つの束をそっと置いた。
手に残った竹ひごの束から一本とって小指と薬指にかけて、残りの竹ひごを八本づつ捌いてゆく。
祖父が行っているのは易占の一種で、竹ひごは竹ひごなのだがそれ専用のものであって別の名称がある。
べつだん易占ができることを見せたかったわけでは無い。
そうでないのは次の言葉が示している。
「自分の明日を占って、それをできる限り毎日続けていくこと。」
ここでいう本当の狙いからは、とくに占いの形式にこだわる必要は無い。
が、推命占の様なものでは方向性が違うので、占いたい事象がある程度はっきり出る占卜の系統を選ぶ。
だからサイコロを使って占っても良いし、占おうという意識をして外に出て、初めて見た動物によって占っても良いわけだし、人それぞれの趣味や考え方に合ったものを選べば良い。
極力簡単にできる占いにして、気楽に続けることができるのがコツかも知れない。
自分で工夫して自分なりの占いを作っても良い。
かくいう自分も自分なりの方法を作った。
非常に簡単でサイコロ一つを用いて占う方法で、明日の何となくの流れを占ってみるというもので、賽の目一つづつに自分で意味を決めてのもの。
占いは占う事象一つに一度という決め事があり、それはしっかり守った。
もし悪い賽の目か出ても一旦そういうものだと受け止めて、それはどういう種類のものかをさらに占ってゆく。
そういうことを続けてゆくと、何となく日常に気をつける部分が出てきて危険を回避できる気がした。
どんなきっかけでもそうだと思うのだが、それを生かしてゆくのは自分の心次第だ。
明日を占うということを単に危険回避の一助と考えるのも手だし、さらには自分の思考や状況の読み方の助けにしても良いし、精神を磨きたいならば自分の陥りやすい悪い部分を気付こうとする考え方とするのも良いだろう。
明日を見つめることによって、明日の自分のその中に自分を観察する思考を作ることができる可能性があるからだ。
些か難しいことを書いたが、やることは単純。
明日を占ってそして明日の中で自分を観察すること、そして周囲の状況を観察すること。
それだけだ。
簡単だろ?。
話は変わるが結局易占いの詳しくは、別の先生より手ほどきを受けることとなる。
易道具の数があっても大切にしている先祖のものとか、完全なセットで無かったりしたからだ。
そのおかげで自分で工夫することを思いついたので良かったといえよう。
一つ悔しいのは、六面体以上のサイコロがあると知ったのは二年後で、テーブル&トークを趣味にしている同級生と出会ってから。
もう少し早く八面体や十二面体のサイコロがあったらと、振り返って思う今日この頃。
次話投稿は30日か4月6日の17時の予定です。
よろしくお願いします。
(^_^)