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(第二部)五十一章 ひたひたとした足音

(第二部)五十一章 ひたひたとした足音


 ひたひたとした足音のような気配を背後に感じる。

 背後の気配に意識を振り分けて感知段階を向上させれば、さらにこちらを凝視しているかのような目線にぶつかる。

 たまたま歩くことになった夕刻の川土手。

 通学路の一本として時折通る道。


 どの道を通っても星回りや体調や精神的な状況によって、霊の気配は濃厚に感じる場合がある。


 もちろん肉体のあるなしにかかわらず、背後に足音やこちらを伺う目線は何らかの警戒心を喚起するしヒヤッとする。

 肉体ある者であればある程度普通に注意しなければならないし、海外であれば何が無くとも時折後ろを振り返り確認する程度の注意力は必要であると思う。

 肉体がない者の気配は独特で、体温を感じないだけ相手に敵意が無くともモロにヒヤッと感じることの場合が多い。

 もちろんこれは霊的な段階の進んでいない存在という意味で、霊的な段階が進んでいればその存在は暖かく心が満ちてくるような安心感を感じる。


 ここでは霊的段階がごく一般的、地球的レベルでの話で、という霊の存在という事で話を進める。


 ある程度の感覚を有している人はこの種類の話は理解いただけると思うが、何気に歩いている中で背後に気配を感じ、さらに冷たい目線を感じれば大抵手の人はゾッと背筋がするだろう。

 確かにゾッとするだろうしそういうものだ。

 そういうものだがそれだけで終わらせていれば何も手がかりなどは無い。

 もしかしたらこういう体験や、こういう種類の波長を感知するのもある意味才能であると考えれないかと、その時によぎるものがあった。


 本能的に怖いと感じる出来事。

 だが未知なるもの、神秘なるものは日常に体験できない種類のものであって、日常に体験できないものは通常に怖さを感じるものだ。

 感じている怖さに向かい合い、その怖さの種類を観察し把握分類することによって未知なるものが既知なるものへと変じる。


 既知なるものへと変じたとき、制御不能なものから制御の可能性が出てくることに気付く。

 人の愚かなるところは、未知なるものや怖いという出来事に向かい合うこと無く、知らないからとか怖いからという事で知ろうとしないことを永遠繰り返し、未知なるものの解明をしないこそが自分だと暗示をかけて自分らしさとしているところ。

 神の道や求道を志すものであればこの愚かなる暗示にかかってはならない。


 向かい合う姿勢には、対峙する存在を平等に観察する知恵が必要であり、さらに自分の立ち位置で守るべき心や精神性を動かさないこと。

 平等に観察する知恵が無ければ、その時の状況や心理の常態から怖いと感じたものが悪いものと短絡的に直結してしまうことであり、後者の自分の大切にする精神性がぐらついてしまえば即ち自分を失うことにつながる。

 こういう霊的な世界において自分を失うという事は、肉体がありながらも精神が入れ替わってしまうようなことであったり、精神的に滅入って回復しにくい常態になることを言う。

 どちらも生き地獄であることはいうまでもあるまい。

 

 よって神の道や求道を志す初手は、いきなり霊的な鍛錬や呪文に手を染めることを戒めているのは、上記にあげてた怖さを体験的に知っているからであり、なおかつ神道の知恵や人間としてのあり方の確立が大事であり、その基盤に立脚し霊的な世界の扉を開くのが望ましい。

 ただし確立したというのも自分がその時に思っていることであって、真理に触れればさらに最適化してゆく勇気を持つことも肝要である。

 自己確立とは人間的な暖かさを見つめ直すことであり、人間よりも高次元の存在の確認であり、社会的存在であることの確認というものであろう。

 さらにいえばじぶんがこのように生きたいという目標を持つことも大事だろう。

 そういう自己内観的な自己対話をまず行うのが大事で、大事を大事とし技にとらわれなず、百術は一清に如かず(清い精神に策略や呪術はかなわないという意味)を心して、お行の基本形の習得と、自己対話に最初比重を置くこと。

 

 人間は阿呆な部分があり、こういう神の道を進むにおいても効率を考える。

 工夫するのは大事なのだが、妙な部分まで効率を考えすぎると全く違ったものとなってしまう。


 自分のあり方を物やお金で現わすのか、それとも心や言葉そして行動で自分のあり方を現わしてゆくのか、そういう根幹部分の問いかけである。

 あなたは何を大事にしているのか、そして人とどのように関わりたいのか見つめ直してほしい。

 類は友を呼ぶという、周囲を見て自分の心のあり方を確認するリトマス紙にするのも知恵かも知れぬ。


 はたして未知なるもの霊的なる存在への知らないという中から出てくる恐れと対峙できるようになったと思う。

 話は冒頭に戻り、霊体、それは本当に敵意の塊だったのか?、そうでは無かろう、その殆どが虚ろに彷徨い、空虚であるが故にそれらは冷たく、冷たいが故に敵意と勘違いをしていまいか?。

 虚ろな冷たさを敵意と勘違いしてはならない。

 そういう勘違いこそが敵を作っていく心の中の種となる。

 

 町中ですれ違う人が敵だろうか?、そうではなく関わりの無いすれ違った人であるだけだ。

 であるならば肉体が無いからといって、それ時代が敵であると考えるのは、ずいぶんな中二病的な思考に陥ってはいまいか。

 

 先達達に教わったのは、道を歩いていて後ろに気配を感じたならば、後ろを振り返り「お先にどうぞ」と声をかければ良いという事だった。

 このことから判るように生者も死者も人として扱うという平等心が大事なのではあるまいか。


 さらに私は思考する。

 気配を察知出来るという事は、これを別の方向に工夫鍛錬してゆけば何かの才能になるのではあるまいかと。

 気配の判別が出来れば無駄と思えるこの霊を感じるこの感知力も生かすことが出来る可能性があると。

 

 人それぞれのやり方があるだろうし、工夫をする事で自分の能力の生かし方を発見できるかも知れない。

 わたしは長い時間をかけて、霊を感じる感覚をを別方向の感知力に磨き上げることにある程度成功した。

 これはさらに磨いてゆけば行くほど精度が高まっていくことだろう。

 肉体は衰えることはあっても、こういう感知力は高まってゆく。

 貴方も自分の可能性を探してみてはいかがだろうか。

次話投稿は3月9日か16日の17時の予定です。

よろしくお願いします。

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