四章 祖父は山に
四章 祖父は山に
祖父は山に私を連れて行った。
落ち葉集め(堆肥を作るため)のためであるので時期ととしては霜月の下旬ことであったと思う。
こういう作業は稲の刈り入れや脱穀を終わらせて一息ついた頃だと思うのでそうだろうと言うくらいのことで、もしかしたら師走に入っていたかもしれない。
私は熊手を二つ担ぎ祖父は大きな竹籠を二つ猫車(運搬用手押し一輪車のこと)に載せて上手に紐で縛って荷造りをなして山道を押し上げていった。
山道は無論のこと舗装しているわけでなく、踏み固められ草や木の生えないように手入れをしているという風な道で人がすれ違うにもどちらかが道から外れなければ通り抜けることができないものだ。
そういう道であるが故に、雨が降れば山道は流水により微妙に形を変え結構な凹凸となっている部分がいくつもある。
上手に荷造りができていなければ、積載物は簡単に転げて山下りしてしまう。
祖父と二人よっちらよっちらと、上がりにくいところでは熊手を置いて猫車に取り付けてある引っ張り紐で私が引っ張りあげる手伝いをしつつ、上っていった。
我が家の墓所を通り過ぎしばらく山道をかき分けて登ったところに山神様を祀っている。
それは小さな祠であってけっして立派なものではない。
立派なものではないが大切なものであり場所であることは確かなことだ。
祖父は唐突に近くの広葉樹の大きな葉っぱの三四枚ついた枝を折り取ってきて祠の前に敷いた。つぎにどこにしまい込んでいたか判らないが、御神酒にお米に塩を取り出すとそれまで生活感のある動作から、楚々として恭しい動作になり丁寧に祠にお供え物をなしていった。
お供えが終わると、地面に直に正座し背筋をりりしくさらに居住まいを正して二礼五拍手一礼なとて拝礼した。
一度瞑目し三呼吸ほどの後、朗々と祝詞を奏上し始めた。
とあるところまで祝詞の奏上がくると、それまで何でもなかった祠がみるみるうちに存在感が増し、人以上の大きな存在を祠に重なり感じた。
その存在が明らかになってくると同時に、ただの山中が別空間になったかのような感覚に包み込まれた。
祝詞が終わると私のほうへ向き直り語った。
祖父は祖父であるのだが、全くの別人の様に感じ幾重にも人が重なったいるようにも見え、さらには白色と銀色が混ざったかのような後光をまとって見えた。
「神道者や士は信仰無ければその本義を全うできず、自分が何者であるかを知ることは無い。士は生死をかける場面ある故に言葉で覚える教えは役に立たぬ。神々と向かい合い、神を感じる末に自分の命の意味を感じることになるだろう。そこまで得心が無ければ不覚悟が生じ、心の隙に命を落とすことになる。」と。
※ここでは士とは志のある人や大義をもって世の中を改善していこうとする人のこと。
祖父の言葉を分かりやすく書き上げればこのような話を思い出した。
あの時の祖父をつらつらと思い出しては今の自分はどうなのかを内観することがある。
人は時に判断をせまられ、覚悟ができたと思っていても揺らぐ。
自分には大丈夫だと思っている者は、運勢の潮目が変わったときには翻弄されて耐え凌ぐことはできない。
自分を含め人は未熟な者であると心得る者は、心の揺らぎを最小限にしておく必要がとても大事な要となる。
自己と対話するときにおいては全く嘘や実用に足らないものは不要であり、不要物で頭を飾り立てておくと、いざという時に役に立たない。
(古)神道の体験を深めていくと、感覚的に命と言うものがわかるときがある。
神道者や士に限らず人物は腹が据わっていなければ物事をなすには足らず、腹を据えるための修養は非合理的な世界が必要。
それと同時に現実社会のことを知り、様々な事象を整理しておくことも大事で、物心両面の備えが必要なのは言うまでもない。
がしかし土台となるのは精神であり神々でその奥底の基盤となるもの。
それを感知し感得することが大きな魂の財産となるだろう。
子供に対し難しいことをいっても意味がないと思われるかもしれないが、私の場合は何かの拍子に昔祖父が語ってくれたことや教えてくれたこと、御師や世話になった人の言葉などをそのときの情景とともに思い出すことがある。
そのときには判らなかったことでも縁があれば思い出し大きな道しるべとなることがある。
もちろん祖父は子供に対してかみ砕いて話をしてくれていたのではないかと思うが、内容が内容だけにどんなにかみ砕いても限界があり、同種のことを考えるようになって初めて思い出し始めたというところが実情だ。
今となって祖父を始めとした先達の方々の話はとてもありがたいと感じる。
今回の話のように祖父は山神様の祠や、家族の皆が寝静まった頃の時間に起こされての家伝修法の実演や基礎練習が生活の合間に織り込まれるようになる。
これら話に出てくる深い意味は長い時間をかけて、一つ一つ取り出して対話しまた経験を深めてゆくことによって合点してゆくことが大半であり、教えられ話を聞いた時点ではほとんど意味がわからない。長い時間の考察があって初めてこの物語を書くことができている。
次話投稿は土曜日を予定しております。
よろしくお願いします。