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(第二部)四十六章 息をゆっくり吐きつつ

1日の特別?投稿です。

(第二部)四十六章 息をゆっくり吐きつつ


 息をゆっくり吐きつつお腹をへこませてゆく。

 いや肚をへこませつつ息をゆっくりと吐くという方が判りやすいか・・・。

 ゆっくりといってもできる限りのゆっくり長くという感じであり、単純なことであるもののやってみると思うように行かないのが肉体というモノ。

 さてそこである言葉を共に使うことで難易度をかなり下げることが出来る。

 難易度が下がりゆっくり長く吐くことが出来るようになっていけば、同じように息を吸い込むことを行っていく。

 ただ難しいのは、ゆっくり息を吐いた後なのでどうしても息を早く吸い込みたいという生理的な欲求が強く、その欲求を制御しつつの行となる。

 ここで書いた方法は俗に言う呼吸法の一部で、さらに負荷してゆくべきが幾つかある。

 それすべてが同時並列処理ができて真の呼吸法と呼べる。


 ゆっくり息を吐き、そしてゆっくりと息を吸い込む。

 息を吐くときにはお腹をへこまし、吐ききったならば、お腹を膨らませつつ、横隔膜を下に引っ張るようなイメージで息をゆっくりと吸い込んでゆく。

 吸気とともに肛門を締めてゆくこと、これは次の段階で共て必要なことであり次の段位の意味がわかってくれば重要な動作であることが判るはずだ。

 まずこれが出来るようになるのが第一段階。


 次の段階ではあわせてイメージを並列処理してゆく。

 呼吸によって取り込んでゆく空気に、空気と共に空気中に元気の素があると想像し呼吸と共にその元気の素を取りこんでゆくイメージを付加する。

 そのイメージは体内に取り込むという想像だけでは十分でない。

 その元気の素は下丹田まて吸気と共に降りてしまい込まれてゆくという感じであり、呼吸法を積み重ねてゆく事にしまい込んでゆく元気の素は、練り込んで密度を高めてゆく。

 さらにいえば霊衣までに元気を取り込んでゆくこともあるが、それはまだ先の段階であり、とある分野を目指す者にとっての方法なので此処では割愛する。

 空気中の元気または気を取り込んで体内に充満させてゆくことが第二段階。


 良く出回っている仙道関係の本では五柳派(だったとおもう)系の方法や気を体内に巡らせてゆく小周天という技法を、呼吸法の次に置いている場合が多いように思う。

 ただその小周天とは、狭義の意味での事であると人によっては言うが、興味本位でその狭義的な意味での小周天に挑戦していったことがあるが、たしかに健康増進に役立つのではあるまいか。


 もっとも私は祭祀者であり神道者であるので、気を循環させるという方法ではなく、体内に一本の柱が霊的に(人によっては気の柱というかも知れない)常時打ち立て続けるよう鍛錬するのであって、そのためにも姿勢の正確さやそれを崩さない動作的な作法などに注意してゆくほうが主であり、これは祖父より学んて鍛錬している。

 体の中に霊的な柱を形成しそれを維持して行くことに、姿勢や作法などの意味が大きいと知ることとなった。

 付加して言えば和服、さらにいえば装束(神主や巫女さんの着装している着物)が身体と霊的な柱、それをまとめて保持するのに相当な力を貸してくれることがあると深く気付く。


 また場合によっては秘呪を唱えながらの手振りをつけつつ呼吸法を行うこともある。


 たんなる呼吸なのだがこれを研究する意味は大きい。

 簡単に考察しても腹式呼吸をゆっくりと深く行う事で、五臓六腑の端々に行き届きにくい血流を届けることにもなるだろうし、そういった行為は根源的な免疫力を高めるのに力を持つことだろう。

 

 目に見える変かばかりに目が行っているようでは、とてもではないが神秘や幽世の真なる知恵にたどり着くことなど出るはずもない。

 もちろんそういったことを追求し探求できるのは、それの途へたどり着くという切符を魂に持つ者のみ。

 それがないものにいくら言っても価値など判るものでは無いし、いえば意味不明の人物と思われるだけだ。

 意味のわからない人たちは何度も生まれ変わり、果てない未来の先に幽世の価値と出会えば良いのです。

 

 祈りの技や行法は、第三者から見ればたいしたことをしているようには見えない。

 やってやりこんでいけば判ってくるのだが、ものすごい体力や精神力を必要とし、それらを基本として成り立っている。

 もちろん熟達してゆけば消費する気力体力は少なくて済むものの、それでも想像以上の気力が必要。

 この道を行く者は、若さや体力だけでやっているのならば、微細な神秘や深い技術にたどり着くことがとても少ない。

 気虚(気が少ない、または元気がない)となってみて、気の満ちる実感が判るのであろうし、どうにかやりくりしてゆく中で正確な霊的な体内制御を身につけてゆくことが多いのではないだろうかとつくづく思う。

 体内制御で身につけた感覚を、大地や自然または他者へと広げてゆくことで、取得できる情報は目で見ていたとき以上のものとなり、さらに者の本質へと近づく可能性を広げることが出来る。

 それゆえに神の道や神仙に縁のある者、そしてその道にたどり着く切符を持つ者は、人生のどこかで言うに難き苦労や理不尽さを経験することがある。

 それは運命的に耐えがたき経験を通して、気虚の常態を一時期つくろうとする運命の作用かも知れない。


 さらにいえば養生法も大事になってくる。

 この辺りの詳しくは機会があれば書くこともあるかも知れないが、時折祖父と山へ入るときに松の葉を大切なことだからと囓らされたり、腹下しに良い野草や傷に良い野草など教わったりとしたことがあり、その中でも松の葉は大事で時折囓りなさいといわれたことがある。

 それと同じように柿の葉を乾燥させお茶にすること、琵琶の葉などが体に良いとも教わった。

 こういう養生法に関する基礎知識が後々意味がわかるにつれて大きな比重を占めてゆく。

 これは時と共に大事な知識や知恵となっていく。

 

 この混迷の時期に、呼吸法という基礎を祖父より教わり体験し始め、さらに資料を集めてた流派や一般的な方法を比較研究しはじめた。

 この呼吸法をかじり始めてからずいぶんたって神仙道という単語に出会うことになるが、そういう内容の基礎を知らないうちに行い始めていたという事になる。

 神仙道の内容が自分の中にあると知ったのは、伝書を読むことが出来るようになってからだ。

 祖父や叔父なども鍛錬の仕方や神仙の言い伝え等の話はしても、神仙道という単語はずいぶん避けていたように思う。

 思うに神仙道という単語は祭祀者の中でも余り一般的ではないのだろう。

 ただ道を極めた祭祀者は神仙が教え導いてくれ、そして神仙の道が開けるとは聞いたことがあるが・・・。

去年も読んでいただいた方ありがとうございます。

本年度もどうぞよろしくお願いします。


次話投稿は1月5日か12日の17時予定です。

よろしくお願いします。

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