三十一章 それはあの体験を
三十一章 それはあの体験を
それはあの体験をぽろりと話してしまった七日後の事だったと記憶している。
それは少し肌寒い旧家の隙間風がありながらも、暖かく布団の中で安眠していたときのこと。
話を進める前にあの体験の事をかいつまんで話をしておかねばなるまい。
こちらの体験も時刻は夜。
家人も寝静まった日付も暫く前に変わったという頃。
全く意識を手放して深い睡眠にはいっていたと思う。
深い睡眠だったはずなのだが、目が覚めているはずもないのに周囲が見える。
まぶたを開いていないはずが、部屋の風景が見える。
視野の範囲くらいに視界があるので最初は何とも思わなかった。
睡眠中は時として体を動かすことがおっくうなことがある。
頭を見たい方向に動かすよりも目だけ動かすことをその時の自分は選んだ。
「あれ?、どうしたんだ?。」
目を動かすことができないことに気付いた。
数度同じようにしようと思ったがやはり動かない。
というよりも瞼が開いていない。
「これはどういうこと?、まさか死ぬ??」
慌てて頭を動かそうとするが動かない。さらに取り乱すかのように体を動かそうとするが動かない。
しばらく慌てていたが、ふと慌てていることが馬鹿らしく感じた。
慌てても意味ないや、いまできる事って何だろう、とりあえずできることを探してみようか。
と、手足を動かしてみるが動かない、体を動かすが動かない、心臓の音も聞こえる・・・いつもと違って聞こえるのは何だろう、瞼は閉じているはずなのに見えるのはなぜ?、とその当時なりに考えてできることを探してみるが、あまりないことに気付いた。
さてどうしようか、暫くしたら直るかもしれないしなぁ、そうなってほしいな、と楽観的に考える余裕も芽生えたのかも知れない。
今できることはこの妙な視界から自分の部屋を眺めることだけ、それにしても妙な視界だな、全体は見れるけれどもどこか見たいところを集中して見れないというか何というか。
いつもの視界や見方が違うのに戸惑うところが大きい。
妙な視界の感じに重たいものが迫ってくる。
それは目の表面に。
眼球とは違うもの。
瞼を持ち上げるという重さ。
なんてこんなに重いのだろう。
瞼が開き肉眼でものを見る。
妙な視界と立ち替わるようにして肉眼の視界が立ち上がる。
ほの明るいが暗くてとてもではないが先ほどの明瞭な視界とは違う。
肉眼で見る負荷を感じる。
瞼の重さを感じる。
肉体とはこんなに重かったのか・・・愕然とする思いを感じた。
普段当たり前にしていることだからこそ負荷を感じることはないだろうが、この種類の体験をするとその重さはあきれるほど。
いかに肉体という牢獄にとらわれてるのだろう。
と、そのような体験を家族に語ったわけだが、反応はそれぞれだった。
おもうさんは興味のなさげに、おたあさんはそういうこともあるだろうという理解を、祖母様は変わった夢を見たのだろうと、祖父様は「ほう~そういうことになったか。」という感じだった。
その体験から数日後、冒頭の書き出しの時間軸に戻る。
その日もぐっすり眠っていた。
その日の前くらいまでは、金縛り&幽世の視界の状態が来ないかと構えていて眠るという感じではなかった。
が、さすがに睡眠不足が続くと、ぷつりと意識が途切れて睡眠となる。
そういう日のことだ。
いきなり違和感が体に襲ってくる。
「こりゃ~何を安らかに眠っておるのじゃ、いま襲われたらどうするのじゃ。寝ながらも意識を切らすな。」
という祖父様が脇に立っていた。
布団の上に正座するようにいわれお説教を受けることとなった。
お説教といっても叱られるの意味ではなく、説明に近いものつまり説いて教えるという意味合いのもの。
先祖は・・・というのはお説教の時につきものなので愛敬としておくが、気を研ぎ澄まし精神を研ぎ澄まし、寝ていてもどこかの意識が起きておくようにすることが大事で、先祖の体験として必要なことという話から始まった。
たとえば暗殺にきた刺客を返り討ちにした話や、夜討ちに対応できるように研ぎ澄ませておくという話もある。
そういう先祖を持った汝だからこそ、そういう研ぎ澄ませ方を学ぶ事ができるこれも幸いなことだと・・・。
そういう武功話に近いものから始まっていったが、この度はさらに神事や霊体験に関する鍛錬の一つとしての意味合いも多いという。
神事を継承してゆく中に霊体験の深い人物もいて、そういう遺訓も含まれることが多い。
それによると先日の金縛り体験は序の口で、神縁が深くなって行くと一時期(私の場合は結構長い年月だった)神々を嫌う邪霊や悪霊や悪魔というふうな霊たちの攻撃を受けることがある。
そういうときに寝ていてもどこか気配を察知する事ができれば、そういう霊に事前に態勢を整えることができる。
現世と幽世の狭間の世界では・・・
態勢を整えることができているのと出来ていないのでは雲泥の差が生じる。
最悪の場合、邪霊や悪霊に体に入られたならば、その深度によっては精神に異常をきたす場合もある。
それを防ぐには日頃修練し馴れている加持法や方術がよい。
こういう特殊な場合には複雑なものは使えないし、馴れていなければ御厳を発することはない。
もっとも馴れているという段階では力不足である場合が多く、そういうときには特殊な神名を唱える方が良い場合が多い。
さらにいうならば声に出そうという肉体の癖が邪魔をすることがあり、それを心得なくてはならない。
そういう体験をする時期が神道者にはある、ここでいう神道者とは神職のことではなく、神の道の修行を実践するものという意味でつかっている。
神縁が深くなり、争いの心が和らぎ丸みを帯びてくれば、邪霊や悪霊などは近づきにくく、さらには近づいてこれなくなる。
そういう一時期の為の準備にと、寝ている私の布団をはぐって注意を喚起していただいた。
その後二度ばかり先達いただいた。
大抵わかりやすく真剣を腰に差して殺気を出して、察知しやすくした状態だったのでなんとか三度目には気付くことが出来た。
(真剣は抜くことはなかったです、ようは刀の持つ独特な気配をあわせて放てば察知しやすいだろうという先達心)
三度目のときに「この気配を忘れないように」とだけ言い残して祖父は寝所に帰っていった。
日頃褒めない祖父だけにその言葉だけでも良くやったといわれているような気がした。
次話投稿は21日17時の予定です。
よろしくお願いします。