二十章 それはとある場所に
二十章 それはとある場所に
それはとある場所に。
それはある。
そしてそれはあった。
それは何でも無い少し山に入った場所。
変哲も無い古くもなければ若い木でもない。
ただそれはそこにあった。
何でも無いと言えば語弊があるかも知れない。
ときおりその場所は雰囲気を変えるのだから。
「やあ、きたね。」
「やっとこれたよ。」
というなんでもない会話から大体入っていたようにおもう。
そのあとは次第に眠気が襲ってくるような寝ているような感じでありながらおきているような。
感覚は軽くしびれているような感じだったのかも知れないし、ぬるま湯につかっているような感じだったのかも知れない。
その感覚に嫌悪感は無かった。
その感覚は意識を奪うようなものではなく、感知範囲が深くなったりひろがったりすることもあった。
また感じなかった多くの存在やあまたの命の輝きの中に自分も存在しているような感じ方だった。
遠くのおじさんおばさんの声もその存在も感じるときもあった。
その時はおじさんおばさんという意識はなく、その別の場所にいる私のような存在であり彼は私であり私は彼らだった。
水の中にも私はいた。
水は私であり私は水であり魚でもあった。
落ち葉の一枚一枚を感じそれらでありながら、そのなかにさらに多くの命とともにあることを感じる。
風は私でありそこへ招くのも彼方へ向かうのも私であり彼らだった。
雲は私でありふわりと浮かぶのもさらに広がるのも私であり彼女だった。
およそ見晴らしの良い高台から見晴らすほどの存在とそれはともにある。
存在することは喜びと安らぎがあった。
どのくらい時間が過ぎるのか判らなくなる。
もはや人間の時間感覚は怪しくなるが、天地の運行は一つの目安となる。
意識が私という肉体に集約して小さくなってゆく。
小さいがはっきりしてゆくのを感じる。
それは急いではならないとどこかで知っていて、そのほどよい速度で戻ってゆく。
そのとある集約する感覚の縁で、
「もう当分会えないね。でもいなくなるわけじゃないよ。また会いたいな。」
と、その言葉を聞いて意識が通常に戻った。
あの日から彼にはずっと会えていない。
ただ違うかたちであの現世と幽世の狭間の世界に行くことができたことはうれしいことだ。
会えなくなった原因をずいぶんたって整理してみるとおよそ次のような事ではないかと考える。
当時の私の意識は他の同級生に比べてぼんやりしていたと思う。
また論理感が全く違っていたように思うし、たとえば自分のものという意識はあってもそれに執着するこだわりがかなり無かったと思う。
かれと会えなくなったあの後くらいから人ではなく人間の意識が強くなっていったように思う。
人間はその意識を強めてゆけばゆくほど感じれなくなるものが増えてゆくのではないだろうか。
そしてそれだけを強めていった先には個体意識のみで共有意識体に感覚接続できにくいのではないだろうか。
文明の恩恵は快適だ。
しかし文明の成長のさせ方にもう一工夫あった方が良いのではないだろうか?。
もし感覚的に個体でありながら意識が混じり合うことができたら、これはなにか可能性が広がりそうだと思うのは私だけだろうか?。
今にして思う、古代人は個でありながら自然と仲間たちと感覚共有できていたのかも知れない。
そう思うのは別の意識体に「昔はソナタのようなものが多かったのじゃが。」という霊言を聞いたことがヒントになっている。
あの存在は八百万神の一柱だったのだろうか?、それとも妖精だったのだろうか?。
いまだにそれは判明するところではない。
次話投稿は5月5日の17時の予定です。
よろしくお願いします。