第一部 第一章 それはあの日に起こった
それはあの日に起こった。
高校三年の夏の終わりのこと。
それは意味がわからない中でも魂の求めるもの。
損得でははかれないもの。
人間が霊長たる存在であるという証明の体験。
下校時の道中、深い緑の山垣に囲まれた稲木の里の中程にさしかかったときのこと。
ドン!。
大量の塊だったのであろうか?
空気の玉のようなものが眉間の奥に入ってゆく。
意識が遠のく・・・
視界が遠のいてゆく・・・。
自転車に乗っている自分の意識が遠のいてゆく。
意識と視界が遠のくのと入れ替わるようにして、別の視界がやってくる。
遠のいてゆく視界が現実そこにあり遠くに肉眼のもつ視野がある。
視界とは別の視野が開かれ遠い先の現象が見える。
空気の塊がぶつかってきたのか?。
と思った瞬間にそれらはおこった。
よどんだ意識に、混濁した思考。
混乱している今までの常識。
それらと同時に鮮明なもう一つの視界。
自己の肉体の急激な破損を考え出したその刹那、
意識が次第に戻り始めた。
何であったのだろうか?。
学校帰りの自転車の上の自分は、変わらぬ自分に気付きながら意識の変調を認識した。
視界に写る世界は見慣れた草深き風景だが、それは今までとは違い生き生きとして美しい。
ただ美しいと感じた。
涙が流れ落ちた。
振り返りその感覚を思い出して、通常の視界と通常の意識との違いを考察した。
明らかな違いをそのときの自身の心のたたずまいを思い出しつつ、通常意識の自分との比較を行う。
そのなかにあったものは人がもつ意識として尊いといわれるものがあった。
それはたとえば「命の尊さ」であり「多くの命に生かされて生きることを許されているという感覚」であり「神々」であり「命のつながり」を同時に感じていた。
ただこの感覚を言葉に置き換えるのに多くの時間を必要とした。
なぜならば道徳やルールは良いものということは判っているが、判っていても本心からそれを尊いものと信じることができないのが人間という性だろう。尊いものと判っていながらそれを信じ切ることが出ないそれは、利己心であり自己防衛本能の表れである動物的な本能の本音であり誰しもが持っているもの。
動物的本能が自分にあると認識して制御するからこそ人間は社会を形成できると現代人は知っている。
その違いを知っていても、その違いを知っているが故に「命のつながり」をはじめとした大切なことたちは頭のどこかで偽善であると考えている節がある。
その「善」に対する疑い、偽善であるというどこかに潜んでいる考えを内観し感知するが故に、通常意識と覚醒した意識との違いを言葉に置き換えるのを大変に慎重にならざるを得なかった。
なぜならば「命のつながり」を始めとした命の本質を見ることのできる覚醒した意識は、人が尊ぶべき道徳であり利他心というそれらのものに実証をあたえる意識感覚であり命の本質だから。
人間は残念ながら善の意識が常時表に出ることはなく、おそらく常時表に出ない理由は生命の保存本能が先に立っているからだろう。
この生命保存の本能がむき出しになれば強い利己的な行動となり、他者のことなど考えもしない。
様々な技術が発展している世の中で、人間社会ではどういうわけか精神は動物的本質に引っ張られているような気がしてならない。ここでいう動物的というのはかわいい犬猫を始めとした存在ではなく、あくまで考え方や行動のあり方をいうので間違えないでほしい。
もしも人類社会が真なる理想郷へ到達しようと思うならば、精神を磨くことを大切にする文化や風習を見直してゆかねばならないし、生命の本能ではなく、命の本質を感じられる意識状態を鍛錬できる方法を大事にしなければならないと考える。
頭では尊いと判っていてもできないのは頭であり、心の奥深く魂の段階まで意識が到達していないがゆえに実感がわかないのであり、それを感じることができればそれら命の奥深さは実態を持つものとなる。
命の奥深さを実感できる人の数がとある一定数を超えたならば人類は理想郷の扉に手がかかりやがてはその扉を開く。
それらのことが頭で整理できたとき古くからの鍛錬の仕方や古の伝承、家伝の伝承に偽りがないと知った。
自己の存在を感じることであり命の本質に触れることはとても尊いもの。
ただそれはあまりに当たり前にあるが故に、それが大切だと気づくまでに近くて遠いものがある。