十三章 お前はなんてことを
部分的に修正しました。
令和5年5月14日
十三章 お前はなんてことを
「お前はなんてことをしてくれるんじゃ~。」
祖母は私の前にやってきて怒鳴り散らした。
が、私は何のことやら皆目見当が付かないので、何をしたのかを質問した。
「何をいっとるんじゃ?、お前がしでかしたことを覚えとらんのか。」
と、火に油を注いでしまったようで、以後の祖母の言葉は意味がわからないこと然りだ。
覚えのない事だけに、身の潔白を訴えても無駄に終わるだけなら良かったがさらに怒りは加熱して行くばかり。
「作業小屋に入って反省しとておれ。」
突然に後ろから声をかけられた。
祖父は祖母にむかって作業小屋で反省させるように話をしたがなかなか祖母の感情が収まらず、作業小屋での反省時間を持つという決定はしばらくの時間を要した。
その間どうして良いのか判らず、なんとも居心地の悪い時間を耐えねばならなかった。
祖父は私を母屋脇にある二階建ての作業小屋に連れて行くと、なれない笑顔を無理矢理作り古く少々痛んだ小冊子を手渡した。
「少し難しいと思うがこれでも読んで時間を潰しなさい、お祖母さんの機嫌が直るのも時間がかかるじゃろうからの。」
と、言い終わると立て付けの悪い引き戸を閉め外から閂をなして立ち去っていった。
作業小屋の一階部分は、味噌や醤油そして玄米、芋類などの貯蔵庫としてあり、その片隅に「唐箕」や厚手の藁茣蓙などが申し訳程度に置いてある。
床はなく土間で、しっかりとにがりで固められているのだろう全く違和感がないような土質だった。
少し前の記事で書いたが薩摩芋を取りに来たのはこの小屋で、小屋一階の土間の片隅を子供ならすっぽり入れる大きさの穴を掘ってあり、そこに、すくも(籾殻のこと)を主として入れ中に薩摩芋を貯蔵してあったということだ。
こうすると温度が安定して保存しやすくなると同時に、品質を維持しやすい。
籾殻の中に手を入れて芋を探したことが今となっては懐かしい。
引き戸を閉められた作業小屋の一階はあかりが無くかなり暗くなるが、階段から二階窓の採光がわずかにさすという風だ。
真っ暗に近い一階にたたずんでいると、子供心にだんだん不安感が増してくるので明るい二階へと移動した。
二階は藁製品を作ったり大物を持ち込まないで良いようなそういったもを作ったり、母屋では遠慮したいような作業を行うための空間だ。
ただ面白いのはかなり古いラジオが置いてあったり使用用途が不明の道具が片隅に置いてあったり、梁の上には穂先のない槍の柄が隠してあったりとよく見れば興味ある物が多々ある。
穂先のない今思い出してみれば槍なのか二メートル程度の柄だったと淡い記憶にある。
それを振り回して遊びたいのは山々だが、時折祖母が監視に小屋近くまでやってくることがありある程度おとなしくしておかなければかんしゃくが溶けるのがずいぶん先となってしまう。
祖母の陰を見て槍を諦めて、祖父に手渡されたガリ版の小冊子を開いてみる。
窓のそばの小机には古いが座布団が前に置かれており、長時間過ごすにはその場所が好ましい。
謂われのないことだけに板間の上に正座などさらさらする気は無い。
表紙には「井戸公と甘藷の伝来」と旧字体混じりに書いてある。
中を開いてみるとガリ版印刷。
丁寧な字で書いてある。
奥付は昭和十九年一月二十五日印刷、同二月一日発行、非売品、著者住所ならびに黒田常五郎とあった。
黒田常五郎氏は岡山県農業会技師をなされておられたようだ。
難しい漢字に第二水準の漢字など読めない箇所が多々あるものの、飛ばし読み拾い読みと繰り返し、二三度読むうちに何となく内容がつかめてきた。
もちろん完全に読めたわけではない。
その後この小冊子は祖父にねだっていただけることとなった。そして何年も経て改めて読み返し、さらに最近も読み返してみるという、考えてみると愛読書のような扱いとなっている。
井戸公とは江戸時代は寛文二年の徒士野中八郎右衛門重貞の子で、後に旗本井戸正和の養子となる。養父は五代将軍綱吉に仕える勘定職。
本編の主人公たる公の名は「井戸平左衛門正明」、養父の死後二十一歳で小普請組となり元禄十年には表大番、十五年には勘定職となり治水土木事業に精進せられた。後に享保十六年九月、石見代官に任ぜられ石見・備中・備後の天領の差配を命ぜられる。
○以下石見入国の様子などより時折原文を挿入する。(完全ではないが第二水準は第一水準へ変換した。ガリ版のため読みにくい字の誤植がある場合があるのでご了承願いたい。)
一般に此の当時は諸国に兇年が打つづき、人民は非常に苦しみ餓草は道に轉々として横はると言ふ如き悲惨な状態であり、殊に大森銀山領は非常に土地が悪く農民の丹精にもかかわらず連年兇作打つづき、領民の困苦名伏すべからず、加ふるに前代官富海上彌平衛は病弱にして、晨に任地を去りたるを以って、領内は一層荒涼惨鼻を極め、領民は一日も早く新代官を迎えて救恤の事を切望して居たのである。
公が六十餘才の年齢を以て、永年住み慣れし故郷の地を後に、山川遠く此の兇荒不毛の地に赴任し、此の難局に敢然として当らんとせられるのである。誠に其の心事や悲壮なりと言わなくてはならぬ。
公は前述の如く九月二日に命を受け、早くも九月十三日には大森の任地に入られたのである。石見地方の人々は此の新代官の任命を聞き、あたかも昇天に雲影を望むが如く其の着任を待ち構えて居た鳥に、公が芸備の野を過ぎて石見の地に足を入れられるや否や、庄屋、百姓、緦代等は連れ立って出迎え 路頭に跪きて名刺を差出し、各々領内の惨状を詳述致しまして其の救済方を訢えたのである。
公は此の時に一同の者に対して「話を聞いて見れば左様の状態であろう。自分が此の度任を受けて此の地に赴任したのは 只人民を保護して安心して生活を営む様に致したいとの念願である。殊に当国は兇作打つづき餓死の者さえ数多く有ると言ふ事の趣を聞き、深く痛心する所である。汝等は一村の司とも有る身であるから如何ばかり下民の痛苦を心配している事であろう。差し当り此の焦眉の急を救ふには、賑恤の外に方法はない。汝等は速に村に帰りて、此の意を人民に伝え決して粗惚の振る舞いを致させない様にせよ。」と身命を捧げて救恤に当る事を村役人に誓言せられたるが故に人民の不安も一掃せられ、人心も始めて安定したと言う事である。
○原文ここまで。
という入国から多難という様相だ。
その後、公は短期対策を実施し飢饉の改善に努めてゆく。それと同時に恒常的な対策を考えられている。
その恒常的な改善策が長い間見つからない中、薩摩の行脚僧より甘藷のことを聞く
(原文より)
「それには良き事の有えり、薩摩には先年琉球より甘藷種子を献上致せしが、砂地に植えらるるも良く生育し、その蔓の根元に出来る芋を掘り取り、蒸し又は焼きて食べると非常に美味であり滋養分に富み、人々は皆これを好みて食し養う事は米麥に劣らず不良地にもよく生長し、連作も拒まず旱魃の害も知らず、年々良く生育致すが故に今は半ヶ年の食糧は此のものだけにて事足り誠に良き作物なり。取り寄せて試作致されては如何に」(原文終わり)
と話を致したのである。
この話の後、甘藷の種を入手するべく策を講じられたのであろうが、当時の国法では藩は別の行政区であり簡単には話は進むものではないし、薩摩芋は薩摩藩の持ち出し禁止物品であった。
そうして協力を得て勇士たちが薩摩藩へ密入国し甘藷の種を手に入れて戻ってくる。
直ちにそれを海浜の数ヶ村にて栽培実験をなして、種芋を作りやがて領内へ、そして領外へと広がって行く。
しかし次の年も多大なる凶作となるに及んで、公は決意され自らの所持品はもとより陣屋の公金また庄屋などの倉を開く命をなして窮民救済してゆく。
その飢饉では領内に一人の餓死者も出さずに終わるのだが、事は公金や公米などを用いたこととなり役人としてやってはならぬ事。
公は子細をしたため幕府に報告した。
石見代官を罷免され沙汰待ちのために備中笠岡の陣屋に赴くこととなった。
その道中救われた領民は嘆きお供しようとするが、備中国境まで来たときにこの国境を越えては罪を重ねることとなると言い聞かせ領民と別れる。
(原文より)
笠岡の陣営に着かれし公は「武士が一度死を決して事を行い乍ら、として公の沙汰を待つは徒に生を貧るに似て、武士道の面目相立たず」として享保十八年五月二十七日の夜、子息内臓之助正武に左の如き遺書を残して陣屋の中の代官の官舎に於いて腹かき切って、六十二才を一期として相果てられたのである。
公が死去されて間もなく、幕府より命ありて公の臨機の処置を賞として○崎奉行所に榮転の辞令があったと言う事である。
(原文終わり)
この読みにくいガリ版の小冊子を読んで半分の意味もわからないながら涙し、いままた読み返して胸が熱くなっている。
同じ程度の事蹟はできないけれども、慈愛と覚悟と潔さ手本にしたいと子供ながら思った。
この度の作業小屋反省がなければ井戸公の小冊子には出会うことができず、祖母激怒の原因を作った弟に憤りもあれども今となってはその巡り合わせに感謝する。
次話投稿は28日17時の予定です。
よろしくお願いします。